下絵があっても「あなたの絵」<提供できることは何か 1> | 手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

神・仏・天使。そして、「あなた」の光を、緋呂が描きます。陰陽併せ持つ「人間」の中に、すべては在る。
描くべきもの、進むべき道。すべては、手が知っています。

今回は、「下絵がある=自分のイメージじゃないし」というところへの、私の考え方を書いてみます。



下絵があった方がいいのかな…という考えは、自分のとある実体験がベースになっています。

7、8年になるかと思います…まだ息子達小学生だったからなあ…。


地元の図書館の展示コーナーに、切り絵同好会というグループが展示されていたことがありました。
それを見て、そのグループが集まっている場所も近かったので、興味を持ちました。

その頃は、絵は全然描いてなかったのですでに画材もほとんど手元になくて。
切り絵なら、年一回そこにだけ出してたグループ展に出すにも、他の人と被ることもなく、道具も、マットとカッターさえあれば小さいスペースででもできるので、それだけは残してある…みたいな感じでした。
(けど、実は一般的にある図案を拝借して切って、それを行灯のように組み立てたり…という…絵を描かずにやってる時期です)


まあ、それでも、奥底には描く欲求も、あるにはある…と。

それだからこそ、年一回の、文化際のノリなグループ展という、いわば「全体が手慰み要素の強い場」であったればこそ、参加できていたのですけどもね。

で、人目に出すのに、やはり一般的にある図案を使ってるんじゃあなあ…というのは、当然、思ってて。
かといって、自主的に描く活動をする気力は、全然ない。

そういう場があれば、そこに行ったらその時だけでも、自分の作品と向かい合うエネルギーを引き出せるだろう…と。
思ったのです。


それで、その切り絵同好会に、行ってみました。

作品を何か持って来て、と言われたので、手元にあるものを持って行きました。


それを見て、会場にいらっしゃったメンバーさん(全員がシニアの奥様方)も、指導にあたられている「先生」も、一言

「うちは、こういう感じのグループとはちょっと違いますよ」

はぁ???

意味が、わかんなかった。


その同好会の方達は、みなさん、「切る技術」は、非常に達者です。
もう20年続いているそうで。
参加されている中で一番「新しい人」で、4年だか5年だか。
かなり複雑なものを切りこなしてらっしゃるのです。

展示作品を拝見した時から、それは感じていたから、画風などの問題ではなくて、切り絵っていうジャンルとして一緒に楽しめたらいいなと思って、行ってみた私です。

こういう感じも何も…そりゃまあ、民芸品っぽい絵でも、風景画でもないけどさ…。

なーんて、思ったのですが。



その意味は、まもなく判明します。



誰一人。

オリジナル…自分で考えた図案を切る、ということを、してないグループだったのですよ。

なんと…ね。



それは、私の「文化」には存在しないやり方でした。
作品展に出ている作品が、全部…すべてのメンバーさんが。
図案を自分で作らず、「アリモノ」で切ったものを「作品」として、そのまんま出してる…って。

いやあ…それは、全く想定外。


「え? 何? ってことは、ここの人達は20年~少なくとも10年、数年…一つも自分で下絵を作らず、先生が持ってくるものを切る、というだけの行為を楽しむために集まってるってこと?」

カルチャーショックというのは、こういうものか…と。
感じた瞬間です。


「先生」は、以前学校の先生だったそうで、文字通り先生。
教員時代から、伊勢型紙の職人さんに習って切り絵をされていたそうです。
(そうなの。展示作品が柿渋紙で作ってあったのも、行ってみる気になった一因)

仏画や、浮世絵を切り絵用に起こし直したものを切ったりされていたそうです。


その同好会では、先生が選んで作ってきた図案から好きなものを購入して、それを切る。
参加者は、ただ、切ることが楽しくて、続けている…という。

先生は特にそのやり方を強制しているわけではなく、自分でどうとでも図案を作ればいい、とおっしゃるのですが…参加している側が、「別にそれは求めてない」っていうのです。

あれですよ。
制作キットを買ってきて、それを作り上げるのが好き…と。
そういう世界。


その同好会で使われているのは、「下絵が裏面に印刷されている柿渋紙」でした。
それも、アタリ線とかいうアバウトなものじゃなく、陰影の線の強弱や線幅に至るまで、ばっちり作り込まれた図。
その通りに刃を入れれば、その通りにできる感じのものです。
みなさん、切る技術は相当達者なので、ぱっと見て「うわ、スゲー!」と感じるような図案でもこなします。

ただし、その図案に「アレンジ」は、一切、ありません。

また、それをする理由も、意味もないし。
そもそも、そこは、その方達にとっては「求めてない」ところなんですね。



生み出すという部分でのコミュニケーションが全然できないのは、面白みが少なく。
そこには3回ほど顔を出したきり、行かなくなりました。

その後、本格的に描くも作るもしなくなっていきまして。
年一回の文化際も、参加しなくなりました。


でも、その同好会の方達と少しだけでも関わらせていただいたことで、同じ「作品を作る」という楽しみを求める者同士であっても、その求め方が全く違う文化というのが存在するってことが、わかった。

切るのが楽しい、だんだん、絵ができあがっていくのが楽しい。
切り絵は、進捗がハッキリ目に見えますから、余計ね。

だから十数年続けていられる。

だけど、その行程に「自分で図案を作る」ところが入っていたら…あの中の何人が、そんなに続けられたのかな…とね。
思うのです。

何も無いところから作るのは、莫大なエネルギーが必要です。
毎日の仕事や家事…その年代の方達だから、家事はもっと重労働だった。
自分が果たさねばならない役割をこなし、その残りのエネルギーを楽しいことに向ける。

その中に、エネルギー負荷が高すぎる行程が含まれていたら、重荷になるから、続かないでしょう。

よい図案を選んで作ってきてくれる先生がいらっしゃって、お任せして、図案が印刷された柿渋紙(それも、上質)を数百円で購入すれば「絵が作れる」「楽しく切れる」のです。


悩む必要もないし、生みの葛藤も必要ない。
純粋に、切り絵を作ることだけ、楽しめたら、それでいい。


大人の塗り絵が大ヒットしたのも、似た理由があると思う。

そういう楽しみ方を楽しむ方の何割かは、白い紙から描いてみたいと思う日が、いつか来るかも知れない。

その、「来るかも知れない瞬間」は、「続ける」ことなくしては、迎えることがないのですよ。



ぶっちゃけ、絵なんて、しなきゃしないで問題ない。
やらなきゃ生きられない系の人は、続けるための場や工夫などなくても、自分でどうにかしていくわけです。
そして、そういう系の方には理解できない「楽しみ方」も、あるのです。


そして、そういう楽しみ方の中での「自分のイメージ」というのも、ちゃんと存在します。

好みの絵柄、顔かたち、シルエット、小道具…どこにそのポイントがあるかは人それぞれですが、下絵を使って楽しむ楽しみ方を選ぶ時だって、好きな下絵を選ぶ時にあるのは、「自分のイメージ」に他なりません。

例え、色番号やら順番までテキスト化されたものをその通りにやるとしても。
それを選ぶ時にあるのは、「その有名な画家の絵を自分の手で再現する私」だと、思う。
それも、自己表現のひとつ。



絵などやらなくても生きられる時代が長かった私は、下絵を活用して、「絵を仕上げる工程」を楽しむ楽しみ方も、理解できます。
キレイな色を塗る楽しみだけ楽しみたい人には、それを楽しんでもらえたらいいのです。

私は今でも、仏画塗り絵探してますよ。
欲しいと思った本が絶版で買えなくて、以後なかなか気にいるのがないから買ってないけど、大きめの本屋に行くと、いつもチェックします。
(もっとも、私の場合は、「有事のための備え」的な…様式を手にインプットしておかなきゃな~という話でもあるんで…もはや純粋な楽しみとしては成立してないですけども…(^_^;)




下絵を使おうが、ゼロから描こうが。
経験する、そして続ける。
大事なのは、そこです。

だから、どのやり方でも、やりやすい方を選んでもらえればいい。

下絵も、別にどんなものを使ってもらってもいい。





「うまくなる」ことよりも、「継続すること」
それが、私が皆さんに、してもらいたいことです。
継続があれば、上達は勝手についてきます。

それは、何も、私の場へ通ってもらうということを意味しません。
来ていただくのは一回きりでもいいです。
ご自宅で…または、別の教室へ行かれてもいい。
自分が楽しめるカタチで、ごくたまにでもいいから、描くということを続けてほしい。

生活の雑事を少し棚上げして、自分の中の空気を入れ換える。

潤いや、人生の喜びの部分です。






私には、●●大学に合格する!とか、△△コンクールに入選する!などの目標がある方のお手伝いはできません。

そういう方が「描こうとするとつい、力入っちゃって…」なーんて系統の悩みがあることは、わかってますので…そういう時にはお手伝いできるかもです(笑)


技術を提供するというよりは、いかに、気楽に、気軽に、継続できるものにしていくか…などの、メンタル面でのお手伝い。


それを、果たして「絵の教室」と呼んでいいものやら…ってのは、考えどころですね(笑)