妓房医の日記 のチェ・ヨン視点です 書けたところまでのせます。続きはまだ思いつきません・・・!!
月を思い出す。
草木の香りが風に乗って漂う春の夜にふさわしい、大きな月だ。
かかる雲も無く、まばゆく輝いていた。
あの女人のようだ。
光に包み込まれれば、おれは己を見いだすことができる。
何かしゃべるたび、突飛な行動を起こすたびに。
驚くほど様々な感情をあぶり出されるのを知った。
それも悪くはないと思えるほど、おれの心に入ってきてしまった。
いつのまにか。止めるひまもないほどに。
おれを見て、泣きそうな顔をする。
苛立ちがつのり、わけを訊ねたくなったものだ。
なぜおれを、切なげに見るのか。
おれが何かしたか? と。
どうしたらおまえは笑うんだ。
怒った声、冷たい声、温かい声。名を呼ばれるたびに、胸が痛むのだ。
あのときは知らなかった。
これが恋情というものだとは。
この世に残したものはない。
ただ未練だけは持っていこう。
老いた身に薄紅の花びらが降り注ぐ。
目を閉じれば、あの人がそこにいる。
夜闇の中、船はゆっくりと都を目指し進んでいた。
船上に突如として現れた異様な物体は突然まばゆい光を放った。
目をくらまされ、動けなくなった人々を押しのけ、おれは進み出た。
くまなく調べたがまったくわけがわからない。つるつるとした外装は堅く、剣では斬れない。丸い輪が四つついているが、この箱を引く馬はいない。
車、と呼ばれたその箱は、望みのままに動かすことができる。そして馬より速く駆けることができるのだ。飲み物が入った透明な筒や、見たことのない衣装の数々。光る馬牌は楽の音を奏で、箱から出てきた男女の身につけた衣は羽衣のように軽く、鮮やかだ。
短すぎる裳に、体にぴったりと沿う下着めいた着物を着たあの女人は、おれを見るなり唇をぎゅっと結び、涙をこらえた。恐怖ではない、喜色が浮かんで、消えた。
それが不思議でならなかった。
おれはあのとき、敵とも思い、剣を向けたのだから。
異国の使者を迎えたが、大切な品物が奪われた。
倭寇の襲撃のどさくさに、誰かが持ち出したのだ。キ・チョルの仕業にちがいない。
交易船をこの港に呼び寄せた張本人、盛大な歓迎の宴は商談の場だった。
商談は決裂したが、その晩に倭寇が押し寄せてくるなど、できすぎた茶番だ。
船から人を引き離し、そのすきに宝は奪われてしまった。
取り戻す術を考えねばならなかった。
不審な来訪者に対し、厳しい対応になったことは否めない。
港に着き、水菊館に身柄を預けた。
男女と幼い子。彼らは家族だという。
ユ・ウンス、ハン・チルウ、ジスという幼子。
王様は報告をお聞きになると、しばらく考え込まれていた。
「チェ・ヨン。そなたはどう見る? 彼らは敵か」
おれは迷わず、否と答えた。
よく分からぬ存在ではあるが、斬って捨ててよい人々ではない。
「彼らは素人です、王様」
王様はおれをご覧になり、ふ、と笑みをこぼされた。
「そなたが困り顔をするなど、ずいぶん稀なことではないか。心引かれるものがあったか?」
すぐに浮かんだ面影に、おれ自身驚いた。
なぜあの女人なのだ……。
※
碧瀾渡の賑わいをすりぬけ、水菊館へやってきた。
「ようこそお越しくださいました」
長のソウンだ。
「行首(ヘンス)、あの者らはどうしている」
ソウンはくすり、と笑う。
「つつがなくお過ごしですよ。逃げる心配などなさらなくともようございましたね」
見張らせたが、たしかに怪しい様子はなかった。
「こちらとしては、いつまでだって居ていただきたいくらいですわ。腕のいい医員がここにいる、というので人もひっきりなしです。酒は売れませんが、薬が売れますの」
商売がうまい。なにがなんでも儲けに結びつけるのだから、頭が下がる。
ユ・ウンスは病人を看て、ハン・チルウは貴族の夫人相手の商売を手伝っているとか。彼の見立てはすばらしく、流行を逃した衣も、合わせる装身具によって飛ぶように売れるのだという。
「ほう」
「こーでぃねーと、という技術なのですって」
何はともあれ、環境に適応する力は見事なものだ。
「あらまぁ先生、今呼びに行くところでしたのよ」
ユ・ウンスがぼうっとした顔でおれを見た。
おれは一歩近づき、名乗った。
すぐに顔色が変わる。青ざめ、うつむいた人はこぶしを握りしめている。
剣を向けたことを後悔しても遅い。
こわがらせてしまったようだ。
衣のあわせがゆがんでいる。
着方も知らないなんて、どこからやってきたのか。
「カバンが欲しいの」
顔を上げ、おれをまっすぐに見た。
この人の目は、不思議だ。
おそれたり、恥じらったり、怒ったり。
今は、挑むようにおれを見ている。
「オンマ!」
小さな子が走ってきて、ユ・ウンスの袖をひっぱった。
おれを見て、「アッパ」と聞く。行首が吹き出した。
「ジスや。父さんはここだぞ」
ハン・チルウが子どもを抱き上げる。
並ぶとたしかに家族にしか見えず、おれは危うく忘れるところだった役目を思い出した。
彼らを王宮に連れて行かねばならない。
チョン・ジョウォンと彼らが知り合いだった。
これは、どういうことか……。
おれはいささか、混乱した。
ジョウォンは王妃様のお命を救った希有な医員だ。
なすすべもなく消えようとしていた命の灯火を、守り抜いてくれた。
王様がどれだけ感謝しているか。おれにもわかる気がする。
もしも王妃様が亡くなっていたならば、王様は王位を守れず、キ・チョルの奸計に破れていただろう。キ・チョルの私兵との戦いで、おれは瀕死の重傷を負った。
王妃様を手にかけようとした賊の剣を受けたのだ。
おれもまた、本当なら、死ぬはずだった。
ジョウォンがいなければ。
恩をかえさねばならないが、何も受け取る気はないようだ。
つねに静かに気を揺らさず、息をひそめている。
医仙と呼ばれる名誉(ただの面倒、だと言ってのけた)を人に渡し、己はただ医員としての仕事を続け日々を過ごしていた。
あの人が来るまでは。
ユ・ウンスと会ったときのジョウォンは、あきらかに浮かれていた。
笑顔など、初めて見た。
ひげを子どもにひっぱられ、苦笑するも、やはり笑みは崩さない。
そして、ユ・ウンスへの態度は打ち解けて、ただただ嬉しそうだった。
まるで犬が尾を振るように。
彼らが帰ってからは、ぼうっとして何も手に着かぬ様子で、かといって放心しているわけでもなくときおり思い出し笑いなどしていた。
ジョウォンは、ユ・ウンスに懸想しているとみえる。
夫も子もいるのだが。異界の人にとっては、小さなことなのだろうか?
水菊館は商館でありながら、妓房を兼ねている。
商談に酒と歌舞はつきものだ。
表にはでないが、刃傷沙汰も多い。
用心棒はいるが、身分が高い相手だと泣き寝入りするしかない。
助力を願われ騒ぎの場に駆けつけた。
妓生が、うずくまっている。白い裳には、血しぶきが飛んでいる。
男は刀を抜いていた。怒りに正気をうしなっている。
背中がざわりとした。
弱い者に平気で手を上げ、蹴り転ばそうとも少しも胸を痛めない。
それが貴族様だ。へどが出る。
そこへ、妓生をかばうように立ったのは、ユ・ウンスだった。
「待ってください、落ち着いて」
顔を真っ赤にした客は、いまにもつかみかからん剣幕で怒鳴った。
「そこをどけ。妓生ふぜいが、わしを笑いものにするなど許せん!」
「まあまあ、笑ってなんかいませんよ。お客様をばかにするわけがないでしょう」
ユ・ウンスはひるむことなく、腹の据わった態度で言い返した。
「大事なお客様ですもの」
言葉はやさしいが、目つきは厳しく、そのうえ冷たかった。
「妓房で悪さをすれば、鬼が来ますよ。そうそうにお帰りください」
「鬼か。来るなら来い。妓生一人手打ちにしたところで、何も言わせぬ」
男はユ・ウンスの手を引き、抱き寄せた。刀身を首に当て、ひげ面をゆがめて笑った。
「そちはなかなか麗しい。わしの相手をするなら、こたびの件は許してやろう。わしを奮い立たせられれば、千両やろう」
ユ・ウンスはにっこりと笑った。そのまま、耳元で何事かをささやいた。
男は水を浴びたかのように、さっと青ざめた。
そして急にわたわたと落ち着きなく室を出て、よろけながら帰って行った。
何をしたのか?
気になってたまらずたずねれば、渋々教えてくれた。
「あの人は、最近側室を迎えました。でも、なかなか、その……うまくいかないようで」
「何がだ」
ちら、と目が合った。おれはどうしたことか、その一瞬がたまらなくうれしかった。
この女人は、ほとんどおれを見ない。
あごか肩あたりを見てしゃべっている。
「夜の……営みです」
ちゃんとおれのほうを見て、言った。
「一緒の布団に入っても、ダメだそうで。その話を聞いてつい笑ってしまったんですって。本人にとってしてみれば、笑い事じゃないでしょ。怒るのもわかる」
「そうか」
たしかに一大事だ。
しかし、あきれた話である。
そのようなことを気軽に話す男も男だし、笑うほうも罪がないとは言えまい。
ユ・ウンスは困った顔でおれを見た。
「わたしは医員ですから、鍼をつかえます。いかがですか、と聞いたんです」
「……それだけか?」
男のあの慌てぶりは異常だった。
「睾丸に鍼をうつ方法もあると伝えました」
顔がひきつる。
「まことか」
おれの顔を見て、ユ・ウンスは吹き出した。
「うそよ」
ほっとすると同時に、腹が立っておれはユ・ウンスの腕を掴んだ。
さっさと立ち去ろうとするので、仕方なく。
「さっきはうまく追い払えただろうが、今度はよくよく考えることだ。バカばかりではない。おまえより上手の狐もいるだろう」
「わたしは狐じゃあありません」
女人はまっすぐにおれをみつめた。
「どう見えてるか知らないけれど、わたしはわたしで自分にできることをやっているだけ。その結果がどうなろうと、甘んじて受けます」
「待て」
足音も荒く歩いて行く後ろ姿をにらみ、おれは息をついた。
なぜか、あの女人と話すといつも怒らせてしまうようだ。
※
ユ・ウンスらは王宮への自由な出入りを許された。
破格の待遇だ。彼らを正式な客人として遇することを王様はお決めになった。
ジョウォンのもとをユ・ウンスが訪ねれば、長くなる。
茶は冷めれば、また熱いのを注ぎ、それを日暮れまで繰り返す、ということを珍しくはない。
何をしているのか? 話だけかと。詮索する者も多い。
周りがうるさいので、おれはとうとうこう言った。
「放っておけ。チョン・ジョウォンがだれと茶を飲もうと自由だろう」
叔母は難しい顔で首を横に振った。
「それはちがうぞ。チョン殿はかねてより生国に帰りたいとお思いだ。そこへさらに知己が来た。しかもな。想い人だというじゃないか」
気が重くなる。一息つくごとに、苦しくなる。
「ここで暮らすことを決心し、この国の人となれば優れた医員を手放さずにすむ」
おれは言い返せなかった。その通りだった。
ジョウォンはユ・ウンスが残ると言えば、ここに残るだろう。
「ウンス。きみとジスはわたしが守るよ」
そう言ったのだ。あれは、はっきりとした告白だろう。
ユ・ウンスは、礼を言った。
ありがとう。と。
ありがとう?
夫がいるにも関わらず……。
夫は何をしているんだ。
ハン・チルウは妻を放任しすぎている。よほど信じているのか、興味がないのか。
夫婦というより、友人。
いや、おれには、関係ないことだ。
盗まれた宝石の件について、ハン・チルウが助力を申し出た。
これは幸いと言っていい。
裏をかける作戦を仕掛けることができれば、尻尾をつかめる。
宴の日に、天智玉のニセモノを見せびらかし、敵をおびきよせるのだ。
鉄の車のなかに積まれていた着物には、アマデオも感嘆していた。
ほとんど裸の上半身、広がった裳裾。
見たことのない着物だ。
とんでもない。
ユ・ウンスが身につけたものは、正直を言うと見るに堪えない代物だった。
うなじから背まですっかり見えている。
当の本人はうれしそうにはしゃぐものだから手に負えない。
ジョウォンなど鼻の下をのばしているじゃないか。
「芋がらを編んだのか」
できれば見ない振りをしたかったが、そうはいかなかった。
おれの精一杯の物言いに、案の定ユ・ウンスは怒っておれにかみついた。
「このせんすを理解できるわけないわよね、ボクネンジンに!」
せんすなどしらぬ。
おれに感想をもとめるほうが間違っている。
無骨者でもわかる。たやすく魅惑され、平静など保てぬ危険な装いなのだ。
しかし……夫のハン・チルウは全く興味が無い様子だ。
「似合うじゃない?」
などと、女子どうしのようにきゃっきゃと。
前々から思っていたが、どうもおかしい。
この夫婦には裏がある。
裏と言うほどのものでもなかった。
この件について、なんと言ったら良いものか。
ハン・チルウは女人の心を持っている。
女人ゆえ、男子が好きと言うことだ。
アマデオを慕うことについて、ユ・ウンスもすっかり了解している。
ユ・ウンスとは友人だということだ。
ほっとしたおれは、いかれている。
なにをどうすれば、安堵などという気持ちがでてくるのか?
ジョウォンはおれにくぎをさしてきた。
「チェ・ヨン、彼女に冷たく当たるのはよしてくれ」
いつおれがいじめたというのか。
「おれのことは放っておけ。守ってやるのだろ、あの女人を見ていろジョウォン」
できればおれは、遠くにいたい。姿を見れば心が落ち着かぬから。
そうなのだ、心が乱れるから、離れていたい。
月は真っ暗な夜空に浮かんでいるから、目を引く。
しかし、触れられぬ。
当たり前のことだ。
取れぬから、欲しいとも思わない。
しかし、もしかして、と考えると、ため息が出る。
もしこの分けのわからぬ不分明な胸の内を明かし、万が一にも受け入れられることがあるとすれば。
おれはたぶん、自分にあきれ果てるほど喜んでしがみつき、特別にかわいがることだろう。
アッパとおれを呼ぶ幼子も、その母親も。
※
何を書けばいいのやら。
こうして筆をとってはみたものの、一文もしたためられぬ。
記さねばならぬことはあるはずなのに、いざ筆に墨を含ませても紙に置くのをためらう。それを何度も繰り返し、もう半時は経っている。
おれは、春の遠い、池に薄氷の張った朝に目覚めぬまま死んだ。
葬儀には大勢が集まった。おれの知った顔、知らぬ顔。
どの顔も涙に濡れており、おれはいささか戸惑った。
死を願われるほど憎まれることこそあったが、悼まれるなど思いもよらなかったのだ。
もちろん、部下や一族の者たち、子どもらには手厚く遇してはきたものの、真に心をこめて接していたかと言えば、わからぬ。
生前、人並み外れた幸運を得た。
亡き妻の産んだ娘は王の母になり、息子は臣下を束ねるほどの地位にまで上った。
悔いは無い。
ただ、孫の泣くのをあやせぬのが、つらい。
笑いがこみ上げてくる。
チェ・ヨンともあろうものが、泣く幼子には勝てぬ。
さあ、そろそろ旅立つ時が来たようだ。
腰を上げ、虹色に輝く空を見上げれば、一点だけ光が強く感じられる。
そこを目指し、おれは飛んだ。
なんとも身が軽い。羽虫にでもなったようだ。
「ちょうちょだ」
あどけない声が遠く聞こえた。
おれは飛び、空高く、光のなかに飛び込んだ。
鳥の声が聞こえる。
朝か。
……死にそこないの翁が、己の葬式を夢にでも見たか。
おかしさがこみあげ、目を開けた。
すると、かすみもせずはっきりと映る視界には、見慣れぬ天井が広がっている。
骨が軋む痛みもなく半身を起こせば、見知らぬ初老の女がおれに頭をさげた。
「旦那様。お顔を洗う水をお持ちしました。朝餉の用意もととのっております」
うやうやしく言うと、室を出て行く。
卓の上には、山盛りの飯と汁、おかずがいくつか並んでいる。
働き盛りでもあるまいに。
ため息をつき、身支度にとりかかると、おかしなことに気がついた。
手の平は肉付きがよく、張りがある。
腕をまくれば、木刀すらも手に余る細腕ではなく、日に焼けたたくましい戦士の腕が現れた。顔に触れれば、しわもない。
混乱するのも致し方ない事態であった。
姿を映せるものがないか。水盆がある。
おれはおそるおそるのぞきこんだ。
なんたることか! これは誰だ。
手元をあやまり、盆がひっくり返る。誰かが室にとびこんできた。
「ヨンア?」
頭に盆をかぶったままのおれに近づき、声の主はいぶかしげに言った。
「そんなものかぶっちゃって……兜でもあるまいし。悪い夢でもみたの」
盆をとりあげた人は、こぼれた水を拭きながら、おれを見上げ、笑った。
ユ・ウンスだ。
使用人の格好をしている。色あせた衣の胸元から手布をとりだすと、おれの顔をていねいに拭いた。
「なぜ……」
「びしょ濡れね、風邪をひかないうちにそれを脱いで。着替えてご飯を食べて。さっさとお仕事に行ってちょうだい」
夢の続きに違いない。
おれの髪は真っ黒ではなかったし、体は老いと病でやせ衰えていたし、ユ・ウンスは何年も前に国を去ったのだから。
「なぜここに」
たずねれば、ユ・ウンスは照れたようにつぶやいた。
「あなたの主治医だからよ」
「主治医」
彼女は目をみはると、苦笑した。
「さあ、ご飯を食べて。王宮に行くんでしょ」
年を取ると何か食べたいという気持ちも薄れてくる。
しかし、卓に並んだ朝餉を見ると、つばが口の中にわいてくる。
おれは座り込み、肉の焼いたのを口に入れた。
それを手始めに、山盛りの飯をたいらげ、おかずも残さず腹に収まってしまった。
「いい食べっぷりね。肉はわたしが焼いたのよ。おいしかった?」
油で汚れた口元を指でぬぐうと、おれの指を彼女は濡らした布で拭き取った。
されるがままになりながら、おれはなかなかよい夢だと感心した。
このような夢なら、悪くはない。自分の葬式よりは。
「なにがおかしいの? 旦那様。今日はご機嫌ね」
旦那様とは。落ち着かない。
おれの目をまっすぐに見て、そむけない。それどころか、笑んでいる。
そういえば、横顔か、うつむいた顔しか見たことがない。
おれは、憎まれ口しかきけなかった。
彼女はいつもおれを避けていたし、その理由は信じがたいことに「チェ・ヨンが夫であったから」だ。この広い世界で、なぜ何度も同じ顔に出会わねばならなかったのか、この女人は。言い換えれば、それほど縁が深いのやもしれぬ。
なぜ召使いのような姿をしているのか。気になったが、聞くひまもなく片付けをして出て行ってしまった。身支度をして外へ出れば、門のところに見覚えのある男が立っている。
トクマンだ。
数年前に死んだ男が、ずいぶん若い姿で目の前にいるので、おれはあやしんで肩を叩いた。「いて。テジャングン。おれが何か粗相をしましたか」
この言いぐさ、まさにトクマンだ。
「テジャングン……大丈夫ですか? 傷が癒えていないのでは。出仕はおやめになっては」
「行くつもりだったらしい。ならば、行こう」
「はあ」
「案内せよ」
首をかしげながら、トクマンは先を行く。
高麗という国の名は同じでも、その姿は所々異なっている。
知り合いは皆生きている。
再会を喜ぶのもおかしい。彼らにとっては、おれは昨日も会ったチェ・ヨンなのだ。
あいつは、戦で死んだ。
あいつは、病で。
……あいつは、殺された。
立ち止まって声をかければ、ひどく恐縮されるか、戸惑われるかだ。
おれが気安く挨拶をするのが、そんなにおかしいのか。
チェ・ヨンは取っつきやすい男だったとは言えない。
夢の中だろうと、変わらないらしい。
しかし、夢は夢だ。
王にまみえたとき、たいへんがっかりした。
立派な衣がさっぱり似合わない初老の男で、両隣に妓生をはべらせ酒を飲んでいた。
だらしのない王の周りには、必ず奸臣がいる。
国の主として居住まいを正すべきだとたしなめもせず、欲望を引き出し湯水のように与え、溺れさせ、政治を取り上げてしまう。初めは王らしく振る舞おうとするが、容易いところへ流れていくのが人の常だ。
キ・チョルはおれを見て、鼻を鳴らした。
「運良く命を拾われましたな。さすがは高麗の守護神チェ・ヨン」
王を操るのはこの男だろう。
どの世界でも、敵になるのがさだめらしい。
おれは黙っていた。出方を見るためだ。
「そろそろ産み月ですな、喜ばしいことだ。祝いの品は何がよいかな」
おれの子を産む妻がいるらしい。
「どのような顔をしているか、楽しみです」
キ・チョルはそれを聞き、眉毛をぴくりと動かした。
「それはそうと、狩りで狐の親子を捕らえましてな。とても美しい赤毛の狐なのですよ」
ぴんときた。赤毛の狐が何を指しているか。
そういえば、ユ・ウンスは異世界の高麗でキ・チョルに追われていたという。
そのとき、彼女の夫は戦場におり、弓で射られた。
死んだとの噂は国中に広まっていたと。
おれがあいさつをすると、皆青ざめ、泣くものもいたのは、もしやそのせいか。
(ここは、どこなのだ)
ユ・ウンスがもといた世界なのか。ならば、朝に見た彼女は、夫のもとに戻れたということか。それにしては、下女の格好などおかしいではないか。
夫はどこだ。
そこまで考えて、おれは胃の腑が揉み絞られたように苦しくなった。
(まさか)
「天女が姿を消し、もう半年。よほど案じておられるに違いありませんな」
「天女?」
キ・チョルの顔を、おれは呆然と見返した。
「なぜおれがそのようなものの心配などする必要が?」
「医仙も薄情な男を選んだものだ」
医仙といえば、酒の好きな笑い上戸の爺さまだ。
(……いや、まて)
この世界では、ユ・ウンスこそ医仙だったのではないか。
「姿を消したというならば」
おれはたずねた。
「天に帰ったのでは。地上はたいそう住みにくい」
キ・チョルはあごひげを一なでし、何も言わず背を向け去って行った。
じつに傲岸な振る舞いだ。
(生意気な若造め。短い髭をこれみよがしに)
おれはあごに手をやったが、何もない。胸元まで伸びた髭を、孫がよく編んでくれたものだが。いままでとんと忘れていたが、ないと気づくと落ち着かないものだ。
(医仙……天女か)
たぶん、この世界の医仙は、ユ・ウンスだ。あの男は赤毛の狐を手に入れたなどとうそぶき、「チェ・ヨン」が動揺するか試したのだ。ユ・ウンスを見失い、焦っているのはあちらのほうだろう。
王宮を歩けば、様々な話が耳に入ってくる。
キ・チョルが豪商たちを招き、自身の館で開こうとしている宴のこと。
元国との商売に税をかけないかわりに、キ・チョルの懐に金が入るという寸法だ。
そこへ招かれようと、こそこそ相談し合う者たち。うまい汁を一滴でもよいからなめたいと必死なのがあさましい。
王が妃を何人も迎えたので、後宮の財政が逼迫しているということ。
税は重くなり、民からは不満の声が上がっているとか。
大きく豪奢な門をひとたび出れば、貧しさにあえぐ民の声がそこかしこで聞こえるだろう。
あくびがでる。お粗末なまつりごとだ。
兵士の鍛錬を眺めながら、おれは息を吐いた。
国は腐り、いずれ滅びるだろう。
親の代はまだもつ。かろうじて。しかし、子孫のおいそだつ時、国が形を成しているかはだいぶ怪しかった。愚王を討ち取ろうと謀反が起こるか、民の怒りが王宮に押し寄せるか。
腹が鳴った。気づけば、昼を過ぎている。
持たされた小さな包みを開けてみると、握り飯がはいっている。
焼いた肉に塩で味がつけてある。
階段に腰を下ろし、おれは握り飯を口に入れた。
味は、悪くない。
足音が聞こえた。おれの背後で立ち止まり、咳払いをひとつする。
「元気そうだな、ヨンア」
振り返れば、なつかしい叔母の姿があった。
「叔母うえ、か?」
おれの顔を見て、チェ尚宮は面食らった様子だった。
「おい。なにを泣いているんだ、ヨンア」
石でぶたれたような固いげんこつ。厳しい叱責や素っ気ないがあたたかな、なぐさめ。
なつかしく、恋しく思ったことが何度あったか。
そのたびに、亡き人がしのばれた。
「やはりもとの調子とはいかぬな。今日出てくることはなかったのだぞ、無理をせんでも。せっかく助かった命を粗末にするな」
「ああ」
おれは苦笑した。
今ここにいるのは、老い先短い翁には望外の夢だ。
「叔母うえ。聞きたいことがある。王宮は今どうなっている? キ・チョルはなにを企んでいる。すべて聞かせてくれ」
「ふうん」
叔母は含み笑いをした。
「死んだ魚の目が、今日はどうしていきいきしているじゃないか。面白いな、一矢報いてやる気持ちでもでてきたか?」
月を思い出す。
草木の香りが風に乗って漂う春の夜にふさわしい、大きな月だ。
かかる雲も無く、まばゆく輝いていた。
あの女人のようだ。
光に包み込まれれば、おれは己を見いだすことができる。
何かしゃべるたび、突飛な行動を起こすたびに。
驚くほど様々な感情をあぶり出されるのを知った。
それも悪くはないと思えるほど、おれの心に入ってきてしまった。
いつのまにか。止めるひまもないほどに。
おれを見て、泣きそうな顔をする。
苛立ちがつのり、わけを訊ねたくなったものだ。
なぜおれを、切なげに見るのか。
おれが何かしたか? と。
どうしたらおまえは笑うんだ。
怒った声、冷たい声、温かい声。名を呼ばれるたびに、胸が痛むのだ。
あのときは知らなかった。
これが恋情というものだとは。
この世に残したものはない。
ただ未練だけは持っていこう。
老いた身に薄紅の花びらが降り注ぐ。
目を閉じれば、あの人がそこにいる。
夜闇の中、船はゆっくりと都を目指し進んでいた。
船上に突如として現れた異様な物体は突然まばゆい光を放った。
目をくらまされ、動けなくなった人々を押しのけ、おれは進み出た。
くまなく調べたがまったくわけがわからない。つるつるとした外装は堅く、剣では斬れない。丸い輪が四つついているが、この箱を引く馬はいない。
車、と呼ばれたその箱は、望みのままに動かすことができる。そして馬より速く駆けることができるのだ。飲み物が入った透明な筒や、見たことのない衣装の数々。光る馬牌は楽の音を奏で、箱から出てきた男女の身につけた衣は羽衣のように軽く、鮮やかだ。
短すぎる裳に、体にぴったりと沿う下着めいた着物を着たあの女人は、おれを見るなり唇をぎゅっと結び、涙をこらえた。恐怖ではない、喜色が浮かんで、消えた。
それが不思議でならなかった。
おれはあのとき、敵とも思い、剣を向けたのだから。
異国の使者を迎えたが、大切な品物が奪われた。
倭寇の襲撃のどさくさに、誰かが持ち出したのだ。キ・チョルの仕業にちがいない。
交易船をこの港に呼び寄せた張本人、盛大な歓迎の宴は商談の場だった。
商談は決裂したが、その晩に倭寇が押し寄せてくるなど、できすぎた茶番だ。
船から人を引き離し、そのすきに宝は奪われてしまった。
取り戻す術を考えねばならなかった。
不審な来訪者に対し、厳しい対応になったことは否めない。
港に着き、水菊館に身柄を預けた。
男女と幼い子。彼らは家族だという。
ユ・ウンス、ハン・チルウ、ジスという幼子。
王様は報告をお聞きになると、しばらく考え込まれていた。
「チェ・ヨン。そなたはどう見る? 彼らは敵か」
おれは迷わず、否と答えた。
よく分からぬ存在ではあるが、斬って捨ててよい人々ではない。
「彼らは素人です、王様」
王様はおれをご覧になり、ふ、と笑みをこぼされた。
「そなたが困り顔をするなど、ずいぶん稀なことではないか。心引かれるものがあったか?」
すぐに浮かんだ面影に、おれ自身驚いた。
なぜあの女人なのだ……。
※
碧瀾渡の賑わいをすりぬけ、水菊館へやってきた。
「ようこそお越しくださいました」
長のソウンだ。
「行首(ヘンス)、あの者らはどうしている」
ソウンはくすり、と笑う。
「つつがなくお過ごしですよ。逃げる心配などなさらなくともようございましたね」
見張らせたが、たしかに怪しい様子はなかった。
「こちらとしては、いつまでだって居ていただきたいくらいですわ。腕のいい医員がここにいる、というので人もひっきりなしです。酒は売れませんが、薬が売れますの」
商売がうまい。なにがなんでも儲けに結びつけるのだから、頭が下がる。
ユ・ウンスは病人を看て、ハン・チルウは貴族の夫人相手の商売を手伝っているとか。彼の見立てはすばらしく、流行を逃した衣も、合わせる装身具によって飛ぶように売れるのだという。
「ほう」
「こーでぃねーと、という技術なのですって」
何はともあれ、環境に適応する力は見事なものだ。
「あらまぁ先生、今呼びに行くところでしたのよ」
ユ・ウンスがぼうっとした顔でおれを見た。
おれは一歩近づき、名乗った。
すぐに顔色が変わる。青ざめ、うつむいた人はこぶしを握りしめている。
剣を向けたことを後悔しても遅い。
こわがらせてしまったようだ。
衣のあわせがゆがんでいる。
着方も知らないなんて、どこからやってきたのか。
「カバンが欲しいの」
顔を上げ、おれをまっすぐに見た。
この人の目は、不思議だ。
おそれたり、恥じらったり、怒ったり。
今は、挑むようにおれを見ている。
「オンマ!」
小さな子が走ってきて、ユ・ウンスの袖をひっぱった。
おれを見て、「アッパ」と聞く。行首が吹き出した。
「ジスや。父さんはここだぞ」
ハン・チルウが子どもを抱き上げる。
並ぶとたしかに家族にしか見えず、おれは危うく忘れるところだった役目を思い出した。
彼らを王宮に連れて行かねばならない。
チョン・ジョウォンと彼らが知り合いだった。
これは、どういうことか……。
おれはいささか、混乱した。
ジョウォンは王妃様のお命を救った希有な医員だ。
なすすべもなく消えようとしていた命の灯火を、守り抜いてくれた。
王様がどれだけ感謝しているか。おれにもわかる気がする。
もしも王妃様が亡くなっていたならば、王様は王位を守れず、キ・チョルの奸計に破れていただろう。キ・チョルの私兵との戦いで、おれは瀕死の重傷を負った。
王妃様を手にかけようとした賊の剣を受けたのだ。
おれもまた、本当なら、死ぬはずだった。
ジョウォンがいなければ。
恩をかえさねばならないが、何も受け取る気はないようだ。
つねに静かに気を揺らさず、息をひそめている。
医仙と呼ばれる名誉(ただの面倒、だと言ってのけた)を人に渡し、己はただ医員としての仕事を続け日々を過ごしていた。
あの人が来るまでは。
ユ・ウンスと会ったときのジョウォンは、あきらかに浮かれていた。
笑顔など、初めて見た。
ひげを子どもにひっぱられ、苦笑するも、やはり笑みは崩さない。
そして、ユ・ウンスへの態度は打ち解けて、ただただ嬉しそうだった。
まるで犬が尾を振るように。
彼らが帰ってからは、ぼうっとして何も手に着かぬ様子で、かといって放心しているわけでもなくときおり思い出し笑いなどしていた。
ジョウォンは、ユ・ウンスに懸想しているとみえる。
夫も子もいるのだが。異界の人にとっては、小さなことなのだろうか?
水菊館は商館でありながら、妓房を兼ねている。
商談に酒と歌舞はつきものだ。
表にはでないが、刃傷沙汰も多い。
用心棒はいるが、身分が高い相手だと泣き寝入りするしかない。
助力を願われ騒ぎの場に駆けつけた。
妓生が、うずくまっている。白い裳には、血しぶきが飛んでいる。
男は刀を抜いていた。怒りに正気をうしなっている。
背中がざわりとした。
弱い者に平気で手を上げ、蹴り転ばそうとも少しも胸を痛めない。
それが貴族様だ。へどが出る。
そこへ、妓生をかばうように立ったのは、ユ・ウンスだった。
「待ってください、落ち着いて」
顔を真っ赤にした客は、いまにもつかみかからん剣幕で怒鳴った。
「そこをどけ。妓生ふぜいが、わしを笑いものにするなど許せん!」
「まあまあ、笑ってなんかいませんよ。お客様をばかにするわけがないでしょう」
ユ・ウンスはひるむことなく、腹の据わった態度で言い返した。
「大事なお客様ですもの」
言葉はやさしいが、目つきは厳しく、そのうえ冷たかった。
「妓房で悪さをすれば、鬼が来ますよ。そうそうにお帰りください」
「鬼か。来るなら来い。妓生一人手打ちにしたところで、何も言わせぬ」
男はユ・ウンスの手を引き、抱き寄せた。刀身を首に当て、ひげ面をゆがめて笑った。
「そちはなかなか麗しい。わしの相手をするなら、こたびの件は許してやろう。わしを奮い立たせられれば、千両やろう」
ユ・ウンスはにっこりと笑った。そのまま、耳元で何事かをささやいた。
男は水を浴びたかのように、さっと青ざめた。
そして急にわたわたと落ち着きなく室を出て、よろけながら帰って行った。
何をしたのか?
気になってたまらずたずねれば、渋々教えてくれた。
「あの人は、最近側室を迎えました。でも、なかなか、その……うまくいかないようで」
「何がだ」
ちら、と目が合った。おれはどうしたことか、その一瞬がたまらなくうれしかった。
この女人は、ほとんどおれを見ない。
あごか肩あたりを見てしゃべっている。
「夜の……営みです」
ちゃんとおれのほうを見て、言った。
「一緒の布団に入っても、ダメだそうで。その話を聞いてつい笑ってしまったんですって。本人にとってしてみれば、笑い事じゃないでしょ。怒るのもわかる」
「そうか」
たしかに一大事だ。
しかし、あきれた話である。
そのようなことを気軽に話す男も男だし、笑うほうも罪がないとは言えまい。
ユ・ウンスは困った顔でおれを見た。
「わたしは医員ですから、鍼をつかえます。いかがですか、と聞いたんです」
「……それだけか?」
男のあの慌てぶりは異常だった。
「睾丸に鍼をうつ方法もあると伝えました」
顔がひきつる。
「まことか」
おれの顔を見て、ユ・ウンスは吹き出した。
「うそよ」
ほっとすると同時に、腹が立っておれはユ・ウンスの腕を掴んだ。
さっさと立ち去ろうとするので、仕方なく。
「さっきはうまく追い払えただろうが、今度はよくよく考えることだ。バカばかりではない。おまえより上手の狐もいるだろう」
「わたしは狐じゃあありません」
女人はまっすぐにおれをみつめた。
「どう見えてるか知らないけれど、わたしはわたしで自分にできることをやっているだけ。その結果がどうなろうと、甘んじて受けます」
「待て」
足音も荒く歩いて行く後ろ姿をにらみ、おれは息をついた。
なぜか、あの女人と話すといつも怒らせてしまうようだ。
※
ユ・ウンスらは王宮への自由な出入りを許された。
破格の待遇だ。彼らを正式な客人として遇することを王様はお決めになった。
ジョウォンのもとをユ・ウンスが訪ねれば、長くなる。
茶は冷めれば、また熱いのを注ぎ、それを日暮れまで繰り返す、ということを珍しくはない。
何をしているのか? 話だけかと。詮索する者も多い。
周りがうるさいので、おれはとうとうこう言った。
「放っておけ。チョン・ジョウォンがだれと茶を飲もうと自由だろう」
叔母は難しい顔で首を横に振った。
「それはちがうぞ。チョン殿はかねてより生国に帰りたいとお思いだ。そこへさらに知己が来た。しかもな。想い人だというじゃないか」
気が重くなる。一息つくごとに、苦しくなる。
「ここで暮らすことを決心し、この国の人となれば優れた医員を手放さずにすむ」
おれは言い返せなかった。その通りだった。
ジョウォンはユ・ウンスが残ると言えば、ここに残るだろう。
「ウンス。きみとジスはわたしが守るよ」
そう言ったのだ。あれは、はっきりとした告白だろう。
ユ・ウンスは、礼を言った。
ありがとう。と。
ありがとう?
夫がいるにも関わらず……。
夫は何をしているんだ。
ハン・チルウは妻を放任しすぎている。よほど信じているのか、興味がないのか。
夫婦というより、友人。
いや、おれには、関係ないことだ。
盗まれた宝石の件について、ハン・チルウが助力を申し出た。
これは幸いと言っていい。
裏をかける作戦を仕掛けることができれば、尻尾をつかめる。
宴の日に、天智玉のニセモノを見せびらかし、敵をおびきよせるのだ。
鉄の車のなかに積まれていた着物には、アマデオも感嘆していた。
ほとんど裸の上半身、広がった裳裾。
見たことのない着物だ。
とんでもない。
ユ・ウンスが身につけたものは、正直を言うと見るに堪えない代物だった。
うなじから背まですっかり見えている。
当の本人はうれしそうにはしゃぐものだから手に負えない。
ジョウォンなど鼻の下をのばしているじゃないか。
「芋がらを編んだのか」
できれば見ない振りをしたかったが、そうはいかなかった。
おれの精一杯の物言いに、案の定ユ・ウンスは怒っておれにかみついた。
「このせんすを理解できるわけないわよね、ボクネンジンに!」
せんすなどしらぬ。
おれに感想をもとめるほうが間違っている。
無骨者でもわかる。たやすく魅惑され、平静など保てぬ危険な装いなのだ。
しかし……夫のハン・チルウは全く興味が無い様子だ。
「似合うじゃない?」
などと、女子どうしのようにきゃっきゃと。
前々から思っていたが、どうもおかしい。
この夫婦には裏がある。
裏と言うほどのものでもなかった。
この件について、なんと言ったら良いものか。
ハン・チルウは女人の心を持っている。
女人ゆえ、男子が好きと言うことだ。
アマデオを慕うことについて、ユ・ウンスもすっかり了解している。
ユ・ウンスとは友人だということだ。
ほっとしたおれは、いかれている。
なにをどうすれば、安堵などという気持ちがでてくるのか?
ジョウォンはおれにくぎをさしてきた。
「チェ・ヨン、彼女に冷たく当たるのはよしてくれ」
いつおれがいじめたというのか。
「おれのことは放っておけ。守ってやるのだろ、あの女人を見ていろジョウォン」
できればおれは、遠くにいたい。姿を見れば心が落ち着かぬから。
そうなのだ、心が乱れるから、離れていたい。
月は真っ暗な夜空に浮かんでいるから、目を引く。
しかし、触れられぬ。
当たり前のことだ。
取れぬから、欲しいとも思わない。
しかし、もしかして、と考えると、ため息が出る。
もしこの分けのわからぬ不分明な胸の内を明かし、万が一にも受け入れられることがあるとすれば。
おれはたぶん、自分にあきれ果てるほど喜んでしがみつき、特別にかわいがることだろう。
アッパとおれを呼ぶ幼子も、その母親も。
※
何を書けばいいのやら。
こうして筆をとってはみたものの、一文もしたためられぬ。
記さねばならぬことはあるはずなのに、いざ筆に墨を含ませても紙に置くのをためらう。それを何度も繰り返し、もう半時は経っている。
おれは、春の遠い、池に薄氷の張った朝に目覚めぬまま死んだ。
葬儀には大勢が集まった。おれの知った顔、知らぬ顔。
どの顔も涙に濡れており、おれはいささか戸惑った。
死を願われるほど憎まれることこそあったが、悼まれるなど思いもよらなかったのだ。
もちろん、部下や一族の者たち、子どもらには手厚く遇してはきたものの、真に心をこめて接していたかと言えば、わからぬ。
生前、人並み外れた幸運を得た。
亡き妻の産んだ娘は王の母になり、息子は臣下を束ねるほどの地位にまで上った。
悔いは無い。
ただ、孫の泣くのをあやせぬのが、つらい。
笑いがこみ上げてくる。
チェ・ヨンともあろうものが、泣く幼子には勝てぬ。
さあ、そろそろ旅立つ時が来たようだ。
腰を上げ、虹色に輝く空を見上げれば、一点だけ光が強く感じられる。
そこを目指し、おれは飛んだ。
なんとも身が軽い。羽虫にでもなったようだ。
「ちょうちょだ」
あどけない声が遠く聞こえた。
おれは飛び、空高く、光のなかに飛び込んだ。
鳥の声が聞こえる。
朝か。
……死にそこないの翁が、己の葬式を夢にでも見たか。
おかしさがこみあげ、目を開けた。
すると、かすみもせずはっきりと映る視界には、見慣れぬ天井が広がっている。
骨が軋む痛みもなく半身を起こせば、見知らぬ初老の女がおれに頭をさげた。
「旦那様。お顔を洗う水をお持ちしました。朝餉の用意もととのっております」
うやうやしく言うと、室を出て行く。
卓の上には、山盛りの飯と汁、おかずがいくつか並んでいる。
働き盛りでもあるまいに。
ため息をつき、身支度にとりかかると、おかしなことに気がついた。
手の平は肉付きがよく、張りがある。
腕をまくれば、木刀すらも手に余る細腕ではなく、日に焼けたたくましい戦士の腕が現れた。顔に触れれば、しわもない。
混乱するのも致し方ない事態であった。
姿を映せるものがないか。水盆がある。
おれはおそるおそるのぞきこんだ。
なんたることか! これは誰だ。
手元をあやまり、盆がひっくり返る。誰かが室にとびこんできた。
「ヨンア?」
頭に盆をかぶったままのおれに近づき、声の主はいぶかしげに言った。
「そんなものかぶっちゃって……兜でもあるまいし。悪い夢でもみたの」
盆をとりあげた人は、こぼれた水を拭きながら、おれを見上げ、笑った。
ユ・ウンスだ。
使用人の格好をしている。色あせた衣の胸元から手布をとりだすと、おれの顔をていねいに拭いた。
「なぜ……」
「びしょ濡れね、風邪をひかないうちにそれを脱いで。着替えてご飯を食べて。さっさとお仕事に行ってちょうだい」
夢の続きに違いない。
おれの髪は真っ黒ではなかったし、体は老いと病でやせ衰えていたし、ユ・ウンスは何年も前に国を去ったのだから。
「なぜここに」
たずねれば、ユ・ウンスは照れたようにつぶやいた。
「あなたの主治医だからよ」
「主治医」
彼女は目をみはると、苦笑した。
「さあ、ご飯を食べて。王宮に行くんでしょ」
年を取ると何か食べたいという気持ちも薄れてくる。
しかし、卓に並んだ朝餉を見ると、つばが口の中にわいてくる。
おれは座り込み、肉の焼いたのを口に入れた。
それを手始めに、山盛りの飯をたいらげ、おかずも残さず腹に収まってしまった。
「いい食べっぷりね。肉はわたしが焼いたのよ。おいしかった?」
油で汚れた口元を指でぬぐうと、おれの指を彼女は濡らした布で拭き取った。
されるがままになりながら、おれはなかなかよい夢だと感心した。
このような夢なら、悪くはない。自分の葬式よりは。
「なにがおかしいの? 旦那様。今日はご機嫌ね」
旦那様とは。落ち着かない。
おれの目をまっすぐに見て、そむけない。それどころか、笑んでいる。
そういえば、横顔か、うつむいた顔しか見たことがない。
おれは、憎まれ口しかきけなかった。
彼女はいつもおれを避けていたし、その理由は信じがたいことに「チェ・ヨンが夫であったから」だ。この広い世界で、なぜ何度も同じ顔に出会わねばならなかったのか、この女人は。言い換えれば、それほど縁が深いのやもしれぬ。
なぜ召使いのような姿をしているのか。気になったが、聞くひまもなく片付けをして出て行ってしまった。身支度をして外へ出れば、門のところに見覚えのある男が立っている。
トクマンだ。
数年前に死んだ男が、ずいぶん若い姿で目の前にいるので、おれはあやしんで肩を叩いた。「いて。テジャングン。おれが何か粗相をしましたか」
この言いぐさ、まさにトクマンだ。
「テジャングン……大丈夫ですか? 傷が癒えていないのでは。出仕はおやめになっては」
「行くつもりだったらしい。ならば、行こう」
「はあ」
「案内せよ」
首をかしげながら、トクマンは先を行く。
高麗という国の名は同じでも、その姿は所々異なっている。
知り合いは皆生きている。
再会を喜ぶのもおかしい。彼らにとっては、おれは昨日も会ったチェ・ヨンなのだ。
あいつは、戦で死んだ。
あいつは、病で。
……あいつは、殺された。
立ち止まって声をかければ、ひどく恐縮されるか、戸惑われるかだ。
おれが気安く挨拶をするのが、そんなにおかしいのか。
チェ・ヨンは取っつきやすい男だったとは言えない。
夢の中だろうと、変わらないらしい。
しかし、夢は夢だ。
王にまみえたとき、たいへんがっかりした。
立派な衣がさっぱり似合わない初老の男で、両隣に妓生をはべらせ酒を飲んでいた。
だらしのない王の周りには、必ず奸臣がいる。
国の主として居住まいを正すべきだとたしなめもせず、欲望を引き出し湯水のように与え、溺れさせ、政治を取り上げてしまう。初めは王らしく振る舞おうとするが、容易いところへ流れていくのが人の常だ。
キ・チョルはおれを見て、鼻を鳴らした。
「運良く命を拾われましたな。さすがは高麗の守護神チェ・ヨン」
王を操るのはこの男だろう。
どの世界でも、敵になるのがさだめらしい。
おれは黙っていた。出方を見るためだ。
「そろそろ産み月ですな、喜ばしいことだ。祝いの品は何がよいかな」
おれの子を産む妻がいるらしい。
「どのような顔をしているか、楽しみです」
キ・チョルはそれを聞き、眉毛をぴくりと動かした。
「それはそうと、狩りで狐の親子を捕らえましてな。とても美しい赤毛の狐なのですよ」
ぴんときた。赤毛の狐が何を指しているか。
そういえば、ユ・ウンスは異世界の高麗でキ・チョルに追われていたという。
そのとき、彼女の夫は戦場におり、弓で射られた。
死んだとの噂は国中に広まっていたと。
おれがあいさつをすると、皆青ざめ、泣くものもいたのは、もしやそのせいか。
(ここは、どこなのだ)
ユ・ウンスがもといた世界なのか。ならば、朝に見た彼女は、夫のもとに戻れたということか。それにしては、下女の格好などおかしいではないか。
夫はどこだ。
そこまで考えて、おれは胃の腑が揉み絞られたように苦しくなった。
(まさか)
「天女が姿を消し、もう半年。よほど案じておられるに違いありませんな」
「天女?」
キ・チョルの顔を、おれは呆然と見返した。
「なぜおれがそのようなものの心配などする必要が?」
「医仙も薄情な男を選んだものだ」
医仙といえば、酒の好きな笑い上戸の爺さまだ。
(……いや、まて)
この世界では、ユ・ウンスこそ医仙だったのではないか。
「姿を消したというならば」
おれはたずねた。
「天に帰ったのでは。地上はたいそう住みにくい」
キ・チョルはあごひげを一なでし、何も言わず背を向け去って行った。
じつに傲岸な振る舞いだ。
(生意気な若造め。短い髭をこれみよがしに)
おれはあごに手をやったが、何もない。胸元まで伸びた髭を、孫がよく編んでくれたものだが。いままでとんと忘れていたが、ないと気づくと落ち着かないものだ。
(医仙……天女か)
たぶん、この世界の医仙は、ユ・ウンスだ。あの男は赤毛の狐を手に入れたなどとうそぶき、「チェ・ヨン」が動揺するか試したのだ。ユ・ウンスを見失い、焦っているのはあちらのほうだろう。
王宮を歩けば、様々な話が耳に入ってくる。
キ・チョルが豪商たちを招き、自身の館で開こうとしている宴のこと。
元国との商売に税をかけないかわりに、キ・チョルの懐に金が入るという寸法だ。
そこへ招かれようと、こそこそ相談し合う者たち。うまい汁を一滴でもよいからなめたいと必死なのがあさましい。
王が妃を何人も迎えたので、後宮の財政が逼迫しているということ。
税は重くなり、民からは不満の声が上がっているとか。
大きく豪奢な門をひとたび出れば、貧しさにあえぐ民の声がそこかしこで聞こえるだろう。
あくびがでる。お粗末なまつりごとだ。
兵士の鍛錬を眺めながら、おれは息を吐いた。
国は腐り、いずれ滅びるだろう。
親の代はまだもつ。かろうじて。しかし、子孫のおいそだつ時、国が形を成しているかはだいぶ怪しかった。愚王を討ち取ろうと謀反が起こるか、民の怒りが王宮に押し寄せるか。
腹が鳴った。気づけば、昼を過ぎている。
持たされた小さな包みを開けてみると、握り飯がはいっている。
焼いた肉に塩で味がつけてある。
階段に腰を下ろし、おれは握り飯を口に入れた。
味は、悪くない。
足音が聞こえた。おれの背後で立ち止まり、咳払いをひとつする。
「元気そうだな、ヨンア」
振り返れば、なつかしい叔母の姿があった。
「叔母うえ、か?」
おれの顔を見て、チェ尚宮は面食らった様子だった。
「おい。なにを泣いているんだ、ヨンア」
石でぶたれたような固いげんこつ。厳しい叱責や素っ気ないがあたたかな、なぐさめ。
なつかしく、恋しく思ったことが何度あったか。
そのたびに、亡き人がしのばれた。
「やはりもとの調子とはいかぬな。今日出てくることはなかったのだぞ、無理をせんでも。せっかく助かった命を粗末にするな」
「ああ」
おれは苦笑した。
今ここにいるのは、老い先短い翁には望外の夢だ。
「叔母うえ。聞きたいことがある。王宮は今どうなっている? キ・チョルはなにを企んでいる。すべて聞かせてくれ」
「ふうん」
叔母は含み笑いをした。
「死んだ魚の目が、今日はどうしていきいきしているじゃないか。面白いな、一矢報いてやる気持ちでもでてきたか?」