プファルツ選帝侯宮殿
から町なかへと踏み出して一本目の路地を左へ。
しばし進むと、このように大きな建物が見えてくるのですね。
このイエズス教会は宮殿造営の一環、選帝侯の宮廷教会として建てられたものでして、
それだけにこれまたバロック的な印象を入口から見せてくれておりました。
ですが、外見はまだ可愛いもので、堂内へと入ってみればそこに広がるバロック世界。
先に宮殿を見たときにシュパイヤー大聖堂のロマネスク
と比べて云々と言いましたですが、
宮殿は世俗の建物ですからあるじの趣味でいかように飾ろうと構わないものの、
同じ教会でも違うものだなと改めて思うところではなかろうかと。
天井を見上げていると、修復された東京駅
のドームを思い出してしまったりして…(笑)。
ところで、この教会にもモーツァルト
が訪れたことを示すプレートが外壁にありましたけれど、
マンハイムでの学芸振興は音楽に限った話ではありませんので、モーツァルトと同世代で
ドイツの文学者としては広くその名を知られた人物もまたマンハイムゆかりであるのですなあ。
上に出したイエズス教会が見えてきたという写真の右下隅にひとつ、
標識が見えましょう。この部分をちと拡大してみますれば、このように。
「Schillerplatz(シラー広場)とあるからには、この木立の一角にでも
必ずやフリードリヒ・フォン・シラーその人の姿を発見できようと踏んだところ、やっぱり。
見たところ、マインツ やヴィースバーデン で見かけたシラー像に比べて、若いですなあ。
その分?少々美白しすぎたような姿になってしまってますが…。
と、シラーがマンハイムゆかりと、さも訳知りのように言いましたけれど、
実は後付けでして、広場から程近い路地裏で不意にこのような看板に出くわしてから
じわじわと「関係…あり…?」と。
シラーハウスとあって、もしかして見学できるのかもとは思ったものの、
ぱっと見では研究所のようで、通り過ぎてしまったですが、残念したな…とは後のことです。
シラーが生まれたのは1759年、マールバッハ・アム・ネッカー(ネッカー川沿いですね)。
シュトゥットガルトのちょいと北にある小さな町ですけれど、
なまじ幼少のみぎりから才能を発揮してしまったせいか、
領主であったヴュルテンベルク公の目に止まり、英才教育の道へ。
これがシラーの意には沿わぬものだったのでしょうかね、
法律やら医学やらを学びますが、本人としては文学に志を抱いていたのではないかと。
1781年に処女作となる戯曲「群盗」を匿名で発表。
領主様に見つかってはまずいということだったかもしれませんが、
翌1792年初演の舞台となったのがマンハイムであったというのも領地外だからかも。
ヴュルテンベルク公から「領地外に出ること、まかりならん」と
申しわたされていたシラーですが、どうしたって初演は見に行きたいでしょうなあ。
で、やっぱり出かけたことがばれてしまい、一時期は「外出禁止!」的な処分を受けるも、
「群盗」の成功はシラーを大いに勇気付けたことでしょう、
他国(ドイツは領邦国家でしたから)での亡命生活へと入っていくのですね。
その始まりもまたマンハイムであった…というのが、シラーとマンハイムのゆかりであるようで。
どうにも天才は苦労を強いられるというべきか、苦労を強いられて磨きがかかるのか…。
やがてはマンハイムからも立ち退くことにはなりますけれど、
故郷を離れたシラーにひとときの落ち着きをもたらしたのがマンハイムだったのでありますなあ。
イエズス教会のあたりもシラーが詩作しながら歩き回っていたかもですね。