先に「マンハイムは商工業都市として発展してきた」てなことを書きましたですが、
ちょうどライン川 とネッカー川の合流点に近く水運上の要衝でもあったからですね。


で、そのことに目をつけたのは何も近代の話ではなく古くからあったものの、
ことさらマンハイムに目をつけたのはプファルツ選帝侯カール3世フィリップであったそうですな。


プファルツ選帝侯の居城はもともとハイデルベルクにありましたけれど、
これが三十年戦争やらプファルツ継承戦争やらを通じて何度もぼこぼこにされてしまっていたと。


ネッカー河畔の山腹にある城を修復したところで、
市域の狭いハイデルベルクでは今後の発展を見込めないと踏んだか、
平坦な土地が広がり、しかもライン川、ネッカー川両方の水運に期待できる
マンハイムの方を選んだということになりましょうか。


1720年、カール3世フィリップは宮廷をハイデルベルクからマンハイムに移すことして、
新宮殿の建設に着手したのだそうです。全体の完成は1760年と次代に引き継がれ、
カール3世フィリップが目にすることはできませんでしたが、
全体像はこのようであったというから、豪勢ですなあ(宮殿入口前の案内看板より)。


造営当時?のマンハイム宮殿


ヴェルサイユに次ぐ広大さとも言われたらしいですが、
この辺りはフランス国境に近い場所柄、ルイ王朝への敵愾心でもありましょうかね。


今では多くの建物が居抜きで(?)マンハイム大学に使われているらしく、
朝方のひとときに正面の広場を行き交う人が多かったのは授業へ向かう学生だったのかも。


プファルツ選帝侯宮殿@マンハイム


しかしまあ、中央の建物を見ても「う~ん、バロック!」と感じられるような宮殿は
大きな観光要素であろうと思うところながら、10時を過ぎるとひと影まばら。
Schloss-museum(博物館)に入っていく観光客はほとんどいませんでしたですよ。


博物館入口


内部は撮影禁止(撮影料を払えばOKだったようですが)でしたので写真は無いのですが、
前の日にシュパイヤー大聖堂 でロマネスクの静謐さを感じてきた後なだけに
装飾たっぷりとも言えるバロックのありようを目の当たりにする気がしたものです。


建物の壁面に飾られたカール・テオドールの胸像


時にこの宮殿が完成したカール4世フィリップ・テオドールの時代、
マンハイムは学術芸術が振興されて、その方面では束の間の光芒が放たれていたそうな。
束の間と申しますのは、やがてカール・テオドールがバイエルン選帝侯の跡継ぎになったため、
1778年に宮廷をミュンヘンへと移してしまうからなのですね。


とまれ、いっときにせよ輝きを放ったひとつの例が音楽でありまして、
マンハイム楽派という言葉は音楽史の片隅に必ず登場するところではなかろうかと。


カール・テオドールが各地から著名な音楽家を招聘して作り出した宮廷楽団には、
今でもわりと知られる名前としてはヨハン・シュターミッツ、その息子のカール・シュターミッツ、
そしてクリスティアン・カンナビヒといった音楽家たちが名を連ねていたという。

“Das Orchestre ist sehr gut und starck.”

マンハイムを訪ねて宮廷楽団の演奏に接したモーツァルト
「このオーケストラはとても素晴らしく、また強靭な演奏をする」てなことを
父親への手紙に書き綴ったそうでありますよ(綴り字は現地の解説板のママ)。


マンハイム宮廷礼拝堂壁面の解説板


と、この解説文があったのは宮殿正面に向かって右手側、
入口の際にある宮廷礼拝堂の壁面でありまして、モーツァルト自身、
ここでオルガンを弾いたりもしたのだそうでありますよ。


マンハイム宮廷礼拝堂


「交響曲第31番パリは、マンハイムのオーケストラの管楽器の編成に
影響を受けて作曲した交響曲である」とWikipediaに記載がありますけれど、
あわよくばマンハイムの宮廷お抱えという仕事を…との願いは叶わなかったモーツァルトですが、

音楽の面ではマンハイム楽派からの影響を受け、またウェーバー家と知り合うことになったのは
後にコンスタンツェと結婚する伏線とも言えましょうから、後のモーツァルトには関わり大。
そうしたことの舞台となったのが、マンハイム宮殿でもあったのですなあ。


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