さて、ヴォルムス中央駅 を背にして町を歩き始めます。

駅前からは東のライン川方向へ真っすぐジークフリート通りという広めの道が通っていますが、

(ジークフリート通りという、その名に関わることはもう少し後に触れることにします)

その一本南側にあるヴィルヘルム=ロイシュナー通りという歩行者天国の道を進むことに。


ほどなくして、緑が滴り、花壇には花々が咲き競う緑地帯につきあたりますけれど、

おそらくはここがかつての帝国自由都市ヴォルムスを守っていた市壁のあったところになりましょうか。


アデナウアーリング@ヴォルムス


がしかしまあ、ヴォルムスもこのとおりですし、他の町でもたくさん花々にお目にかかりました。

こうした点への力こぶの入れようは大したものだなと。

(反面、街なかの清掃、そもそもの汚し方はどうよとあちこちで思いましたですが…)


と、そうした緑に囲まれた中に、

ヴォルムスが歴史にその名を刻む二つ目に関わる人物像が立てられているのですね。


ルター記念碑@ヴォルムス


かなり大がかりで群像をなしてもいるようながら、

中央にひときわ大きく高く立っている人物がマルティン・ルターなのでありますよ。


贖宥状(免罪符)のことなども含んで教会のあり方に疑問を持ったルターは

1517年に「95カ条の論題」をヴィッテンベルクの教会の扉に貼りつけ、問題提起をする。

これを契機とする「宗教改革」はその後長らくヨーロッパ世界を大きく揺さぶっていきますが、

当時における影響も非常に大きく、ルターの説教には大群衆が詰めかけたといいます。


宗教上の対立は帝国を揺るがすと考えた神聖ローマ皇帝カール5世は

1521年、ヴォルムスで開催する帝国会議にルターを召喚、

これまでの主張を翻すようルターに求めるも、ルターはこれを拒否。


かくてルターの説くところは異端とされて、ローマ教会から破門されることになった…

というのが、ヴォルムス帝国議会であったわけですね。


しかしながら、ドイツにおけるプロテスタントの広がりは

もはや押しとどめようがなかったということになりましょうか、ルターを異端とした会議開催地ながら、

むしろルターが毅然として自説を枉げなかったことを称揚して、こうした記念碑があるのですから。


記念碑の中央に立つマルティン・ルター


中央に立つルターは聖書を携え、やや上方を見上げているという

青雲の志かくやの印象(もっとも、当時ルターは30代後半ですが…)。


そして、ついでといっては何ですが、取り巻く人物たちにも目を向けてみることにしましょう。

ルターの台座の直下、その四隅にはそれぞれキリスト教の改革を訴えた4人が置かれています。


ヤン・フス ジョン・ウィクリフ


ピエール・ヴァルドー ジロラモ・サヴォナローラ


左上がボヘミア のヤン・フス、お隣はイングランド のジョン・ウィクリフ、

左下が(恥ずかしながら全く知らない人で後から調べたところ)フランス のピエール・ヴァルドー、

そしてそのお隣がイタリア の、というよりフィレンツェ のジロラモ・サヴォナローラ。

(最後のとこではちと「え!?」と思ったですが、宗教改革者ではあるのですな…)


周縁部の人物群の間、低い位置には

宗教改革に賛同した都市の紋章が並んでおりまして、例えばこんな都市が。


リューベックの紋章 ハンブルクの紋章 フランクフルトの紋章


他にもたくさんの都市の紋章レリーフがありましたですが、

これらの町をサンプルにしたはリューベックハンブルク はたまたま昨年訪ねた町で、

フランクフルト(A.M.はam Main、マイン川沿いのフランクフルトのこと)はこの後に訪ねる町

というそれだけの理由で特段の意味はありませんです、はい。


最後にもう一つだけ、ルター像台座のレリーフから、

ヴォルムス帝国会議での決定的場面をご覧いただくことに。


ヴォルムス帝国会議でのルター審問の場面


ルターが相対した神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、

カルロス1世としてスペイン王を兼ね(息子がフェリペ2世)、その植民地までを考慮すると

「太陽の沈まない帝国」の主だった人ですけれど、

その面前においてもルターは眼差し高く実に毅然とした態度で臨んでおりますね。


記念碑は1868年のものだそうですから、

後世の人の「こうであったろう」という思いが反映しているとは考えられるものの、

自説を覆さなかったのは事実でありましょうし。


とまれ、ゆかりの地に建てられたルター記念碑、見応えのあるものでしたですよ。

再来年の2017年は宗教改革500年となりますから、

この記念碑を前にしても何らか一大イベントが行われるやもしれませんですね。




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