故あって銀座を歩いておりましたですが、
中央通りからはちとひと筋、ふた筋入ったあたりでしょうか、
ギャラリー、画廊の類いが結構あるのですよね。


ですが、こうしたところは基本的に作品の売買が本来業務ですから、
もちろん一見でふらりと覗いて何も悪いことはないですし、
お店の側でもそうそう次々売れる商品とは思っていないはず(と思う)でしょうし、
覗くだけでも気にしてはいないとは思ういますが、やっぱり敷居が高いような。


一方で、銀座には企業のメセナ活動の一環でしょうか、
自社スペースを部分的に利用してギャラリーとしているところもまた多い。
こちらは必ずしもその場での売買が想定されているわけではありませんから、
画廊に比べると入りやすい…はずなんですが、どうも…。


だいたいからして、その企業というのがエルメスやらシャネルやらと言われてしまうと、
全くもって(休みの日にはラフな恰好(決してカジュアルではなく…)しかしてない者には
なかなか入りにくいものでありますよ。


まあ、元々銀座にはどうしてもそこでなくてはやってないような映画を見に行く以外、
あまり出没しない土地柄ではあるんですが、たまたまここなら平気だなと入ってみましたのが、
「ggg」(Ginza graphic gallery)というところ。


ギャラリーの元は大日本印刷ですから(本や雑誌という形で購買者ではありますし)、
さほどの精神的障壁を感ずることなく入り込めるわけですね。
開催していたのは「So French」(ミシェル・ブーヴェ ポスター展)でありました。

「So French」(ミシェル・ブーヴェ ポスター展)@ggg


ヨーロッパに行きますと、街角の広告塔みたいなのが健在で

そこに大判のポスターがばしばし貼ってあるのを見かけます。


ああした一過性の製造物は、資源がないというか、もったいない精神というか、
日本ではだいたいデジタル系の表示形態に変わっているか、
あるいはあっても彼の地ほどに大判のものをべたべた貼り付ける形ではありませんですね。


それが、資源の無駄遣いとかもったいないとかいうあたりのことはここでは措いてときまして、
かかる大判ポスターの伝統、それを作品として見、中には芸術として見るという伝統もまた
取り分けフランスを中心に残っているということになりましょうか。


大どころの先駆者としてはロートレックやミュシャがおり、
後にもカッサンドル やサヴィニャックといった個性が競われた世界。
ポスター芸術が息づいているのでありましょう。


そして、その系譜上にあるリアルタイム現代の作家のひとり、
それがこのほど見てきたミシェル・ブーヴェということなのかもですね。

しかしまあ、大判、大判と言いましたけれど、改めて間近で見ると大きな媒体でありますなぁ。
これが日本に定着しなかったのは単に貼り出すスペースの問題なのかも。


芸術とはいえポスターには告知する使命がありますから、
広くあまねく見る人に「何だか分からんなあ」というものでは困ってしまう。
かといってありきたりではアイキャッチにならない。
そこのところのさじ加減が思案のしどころでしょうか。


手がけたものの中にはオペラ公演や芝居の公演の告知ポスターが多くありましたけれど、
展示会場のVTRで作者本人も言っていたように、
作品の内容、意図するところが伝わらなくては意味がないところから、
「考えてんなぁ…」という気がしないでもない。


中には「どうして?」という悩みに陥るものもないではないですが、
例えばヴェルディのオペラ「リゴレット」ではこんな具合。


「リゴレット」公演ポスター(展覧会フライヤーより) 「ファウスト」公演ポスター(展覧会フライヤーより)


ごちゃごちゃさせずに、ストレートに愛憎の果ての悲劇を「記号」として
伝えているわけですね。グノーのオペラ「ファウスト」もまた同様かと。


完成作と同時に、

作品内容から思いつくままに描いたと思われるいくつかのラフが展示してあって、

多くは最終的に完成作に至るデザインを選んだのには「なるほど」という気がしてきます。


そういう点で面白い展示だったなと思ったのですけれど、
プッチーニの「マダム・バタフライ」では、「こりゃあ、日本のイメージではないのでは?」と。


「マダム・バタフライ」公演ポスター


今でもやっぱり中国 や韓国と区別がつきにくいのでしょうかね。
まあ、反対に考えれば、日本人がどれほどにドイツとフランスとの違いを示せるか…
ということでもありましょうけれど…。