先に西伊豆の井田松江古墳群 のことを書いて思い出し、
また埋もれそうになりかかった録画を見ることにしたわけでして、
「解明!中国兵馬俑の謎」というナショナル・ジオグラフィック・チャンネルの番組でありますが、

古い時代の墳墓絡みとはいえ、井田松江古墳群のことから引きあいに出されたのでは
始皇帝もあの世で怒り心頭やもしれませんですねえ。


兵馬俑と言いますと、
大きな埴輪のようなものがずらりと並んでいるさまをすぐにイメージするところでして、
これは秦の始皇帝が亡くなった際にその墓陵近くに埋められた、いわば副葬品にも当たるもの。


それまでの春秋戦国時代に区切りをつけた秦は紀元前221年に統一王朝となりますが、
(世界史の年代暗記本によれば「221(ににい)が4(しん)の始皇帝」だったような)
それよりさらに古い時代には王が亡くなると、家臣ばかりか臣下の民までも含め、
王墓の周りに設けられた棺に入れられて行きながら埋葬されていたのだそうですね。


昔々の権力者にはありそうなことですけれど、
一緒に生き埋めにされる方はたまったものではない…と考えるのが自然と思いきや、
どうも実際には多くの者たちが喜んで来世に旅立っていったのだとか。


これは、死は終わりでなくって、場所を変えて続きがある…という考え方に基づくようで、
この世で栄華を極めた王さまに付いて行けば(つまり一緒に死ねばですが)
次の世でも同様にかの王さまの栄華の続きがあり、
その恩恵に浴せるというふうに考えられていたそうな。
(中には付いていきたくない王さまもいたでしょうに)


そういう習慣が廃れるのは
人道的な目覚めとかそういうことではなくしてもそっと現実的な問題だったようです。
ありていに申しますと、長らくの戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)の間に
切実な人口減少に陥ってしまい、労働力(つまりは生産力であって国力)に事欠くようでは
とても生き埋め要員など確保しておられないという事情だったのだそうでありますよ。


どんだけ凄まじい戦乱の世だったのか…と思う一方で、
日本でも戦国の世と言われる時代にどれほどかの人口減少が問題視されたのだろうか
てなことが気になったりもしました。


と、かような事情から、生きた人間でなくって
身代わりの人形を副葬することに転換していったようですが、
中国を統一した皇帝が亡くなったともなれば、それまでの誰もがぶっ飛ぶ副葬品が必要で、
まあ数としては7000体とも8000体とも言われる兵馬俑が作られたのでありましょう。


それにしても、その何千もの人型が並んでいる様子を写した画像を

見ているだけではわかりませんが、どうやらその中には、

ひとつとして同じ顔はないのではないか…と言われてもいるそうです。


数がたくさんなんだから、そりゃあ型をとって大量生産するくらいはしてたろうと思うも、
それでは皇帝に失礼!てなことになるんでしょうか。


作り方としては、粘土を撚って縄状にしたものを積み重ね、段々にかたちを整えていく方法で、
そのかたちを整える段階で一体一体が異なる服装や顔つきとなるようにしていくわけですが、
先に作った下の部分をある程度乾かしながら積み上げないと、

粘土の自重で崩れてしまうといいますから、数が数だけに

相当な時間を要する作業であったと思われますね。
(言ってはなんですが、そんなことに労力を割くなら、数人生き埋めの方がわりがいいかも…)


ところで、兵馬俑はその見た目からてっきり素焼きの薄茶色一色のものと思っていましたら、
どうやら作られた当時は極彩色(とは言い過ぎか)に塗りこめられていたそうなんですね。


残念ながら、発掘されたばかりには多少の顔料が残った状態であったものの、
空気中に掘り出されたとたんに、はらはらと顔料が剥離し、崩れ去ってしまうのだと言います。


この辺の研究をしているドイツの学者先生が

彩色を再現した像をミュンヘンの博物館に置いたところ、
「本当にこんな色してんの~?」と疑問ともブーイングともつかない声があったようで、
古いものではありますし、やっぱり誰にとっても素焼きのような感じがしっくりくるのでしょう。


とはいえ、彩色が施されていたことは紛れもない事実であって、しかもその中の

「チャイナパープル」と言われる顔料はもはや使われなくなって長い長い年月ながら、
その成分を科学的に解析してみると、超電導の今後に関わるような実験結果が得られたそうな。


いやあ、驚くべきことがざくざく出てくるとは、
さすがに何千年にもわたる歴史たればこそでありましょうかねえ。