前から読んでみようと思いながら先延ばしになっていた本、
折しも先月にはバッハのマタイ受難曲 にじっくりと耳を傾けてみて感じ入る…てなこともあって思い出し、
ようやっと読んでみることにした「音楽家はいかに心を描いたか」という一冊。
何でも元は放送大学のテキストであったそうでありますよ。


音楽家はいかに心を描いたか--バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト (放送大学叢書)/笠原潔


期せずして取り上げられている音楽家とはバッハモーツァルトベートーヴェンシューベルト の4人、
しかもバッハの項ではまさにマタイ受難曲に焦点が当てられているではありませんか。


好んでクラシック音楽を聴くものの、そしてかつて楽器をやっていて譜面が読めないということはないものの、
本書に書かれているようなのが「楽曲研究」でもあろうかと思うところでありますね。


歌詞のある曲の場合、とにかく歌こそがメインであってと思うわけですが、これに寄り添う曲の方も、
歌詞の意味するところを最大限に引き立たせるような音楽が添えられるというばかりでなく、
曲(伴奏?)と思しき部分だけを取り出してみた場合にも、

そこだけで歌詞のイメージにマッチするようなテクニカルなことが行われているといいます。


例えば「マタイ受難曲」第12曲、ソプラノのレチタティーヴォ。

オーボエ・ダモーレが三連符の連続でもって波の揺らぎにも似た音型を奏でますけれど、

これは歌詞の中の「私の心は涙の中を泳ぐ」に呼応しているもので、

緩やかな揺らぎ感は「泳ぐ」ことによって生ずるの波動のイメージなのだとか。


でもって「楽曲研究ってはこういうことまでするんだぁね」と思いますのは、

泳ぎのイメージをよりクリアにするために、泳法の歴史のようなものをひも解いて、

バッハの時代にはクロールもバタフライも無し、つまりは平泳ぎであろうと推測するわけです。


当時としても犬かき的なものはあったかもしれないものの、

心が涙の中を犬かきでせわしく泳いでいるよりは、やはり平泳ぎでゆらゆらと…でしょうなぁ。

こうしたことで聴衆に対するイメージ喚起を促している、音楽がすっと入って来やすくしている

と、言えましょうか。


モーツァルトではオペラを取り上げておりました。

歌劇「フィガロの結婚」からは第1幕のケルビーノのアリアです。


フィガロが仕えるアルマヴィーヴァ伯爵の小姓であるケルビーノは

恋に恋するような多感な頃合いの少年で、女性と見るやときめいてしまって

「なんだかもう、どうしていいのかわからないよぉ」的な気持ちを歌うところでありますね。


そわそわせかせか、心情を制御もできずに吐露し、やがてそんな自分に気付いてうち沈む…

これまでぼんやり聴いていてそんな印象でもあったかと思いますが、

ここでモーツァルトもテクニカルなことをやっているという。


伴奏にぶつかるようにつんのめった感じで歌いだしてしまうこと、

そしてその歌い出しの音は、実は伴奏の音とぶつかってしまうこと(半音の音程差だそうで)、

こうしたことを意図的に書いているとは、漫然と聴いてるような者(自分のことですが)には

気付きもしませんですよ。


また「ドン・ジョヴァンニ」では村娘ツェルリーナが籠絡されていくその手管の程を

音楽が全面的にバックアップ(?)していることが紹介されて、

神童と言われたモーツァルトがともするくいつまでも子供っぽい大人だったように思われているも、

実のところは人間の心理の機微にも通じて音楽にすることができた人であったとしています。


「譜例1」と「譜例2」とか出てくる本が苦手の方もおいででしょうけれど、

元が放送大学のテキストでもあり、研究書然としないだけですぅっと読めてしまうものですので、

この後にベートーヴェンやシューベルトに関してどんな話が展開するのか、

全部に触れておくのはやめておくとしましょう。


ビギナー向けとは言えないものの、

クラシック音楽に興味はあってもう少し何か…という辺りに佇んでいるとしたら、

面白いと思われる内容ではなかろうかと思いますですよ。