今月(2014年7月)初めくらいでしたか、ロンドンのオークションにかけられたフェルメール作品が

約11億円で落札されたという新聞記事を見かけましたですが、

この作品というのが「聖プラクセディス」というもの。


ヨハネス・フェルメール「聖プラクセディス」(部分)


元よりフェルメール作品は残された点数が少ないにも関わらず、

本当にフェルメールが描いたのかどうかがはっきりしていない作品も数点あって、

この「聖プラクセディス」もそうした微妙な一枚であったはず。


ですが、競売を請け負ったクリスティーズによりますと、

顔料の分析によってアムステルダムの国立美術館が真筆であると鑑定したと言っている様子。


だとすれば、競売以前に真贋論争の決着自体が報じられてもおかしくなかったのでは…

と思うところながら、ともかくこうした研究というのはどんどん進んで、

従来当たり前と思ってきたことが覆されたりするわけでありますね。


と、フェルメールの絵の話から入りましたが、このことを思い出したのは、

読響の演奏会でシューベルトの交響曲第8番を聴いてきたからなのでありますよ。


読売日本交響楽団第168回東京芸術劇場マチネシリーズ


個人的にはシューベルトの交響曲第8番と聞くと、

どうしても(今だに)「未完成」思い浮かべてしまうのですが、

聴いてきたのは俗に「ザ・グレート」と呼ばれるもの。

これまた個人的にはシューベルトの交響曲第9番と言われた方が馴染むところです。


とはいえ、この「ザ・グレート」と呼ばれる交響曲はその時その時の研究成果を反映して、

交響曲第7番→第9番→第8番と変遷を重ね、ようやく落ち着いている状況とのこと。

ここまで来ると、今後さらに変わるとまでは思いませんが、こういうこともあるのですなあ。


改めて聴いた「ザ・グレート」は、

埋もれていたこの曲に日の目を見せたシューマン が「天国的な長さ」と言ったように

当時の交響曲としては(ベートーヴェンの第九 を除いて)最長の部類であろうものながら、

全編に渡って流麗なメロディーに満ちた、いかにもシューベルトらしい曲。


歌曲王とも称される、歌心に満ちたシューベルトはベートーヴェンを尊敬するあまり、

深遠な世界に踏み込むつもりで未完成交響楽に手を染めた(?)ものの、

自らの素直な心情から浮かび出るメロディーとは折り合いをつけられなかったのか、

未完成は文字通り第二楽章までで放置されて完成を見ずじまい。


そこで、改めて着手したこの「ザ・グレート」こそ、シューベルトらしさをを最大限に発揮した

交響曲のまさに掉尾を飾るにふさわしい作品なのかもしれません。


何しろ31歳で早世してしまったシューベルトがこの交響曲を書きあげたのは

28歳くらいでありますから、漲る若々しさで多少冗長かとも思えるくらいで当たり前なのかもです。


直前に、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番という、

これまたベートーヴェンらしい武骨さが未だ洗練されるに至っていない時代の作を聴いた後には

シューベルトの曲が歌に満ち溢れたものと、つくづく感じたような次第でありますよ。


ところで余談ですが、この日の演奏会で最初に演奏された曲が

マルティヌーの「リディツェへの追悼」という作品。

ナチス・ドイツに包囲され、完全に破壊されてしまったチェコのリディツェという村の名は

「ナチスへの抵抗の証としてシンボル化」(演奏会プログラム)されていったのだとか。


この曲も当然にそうした経緯を踏まえて書かれているわけですが、

奇しくもレニングラード包囲 のことを書いた翌日にこの曲を聴くことになるとは。


シューベルトの「ザ・グレート」の天国的なところに触れて気分は平静を保っておりますが、

音楽をプロパガンダに使えるにせよ、そうした状況でないところで耳を傾けられてこそ

一人ひとりが平穏でいられると改めて思ったものでありました。