日本映画1989
日本映画のターニングポイントを1989年に置く見かたがあるのはいいだろう。
北野武の『その男、凶暴につき』、阪本順治の『どついたるねん』、塚本晋也の『鉄男 TETSUO』と、その後の日本映画を代表する監督たちのデビュー作が一斉に封切られ、新しい胎動を実感させた年である。
前年ににっかつ(日活)ロマン・ポルノが18年間の歴史に幕を下ろして、プログラム・ピクチュアの時代が終わり、それと入れ替わるように東映がレンタルビデオ専用映画のレーベル「東映Vシネマ」を立ち上げて、日本映画の新たな局面がスタートした年である。
人によっては黒沢清が『スウィートホーム』でメジャーに挫折した年とするかもしれないし、押井守が劇場版『機動警察パトレイバー』を監督した年であるかもしれない。あるいは瀬々敬久が『課外授業 暴行』でデビューし、いわゆるピンク四天王が出そろって彼らの活躍が始まった年とする人がいるかもしれない。はたまた大森一樹の『ゴジラVSビオランテ』によってゴジラ復活が軌道にのった年……。
もうこのへんでいいだろう。しかし、ここにたったひとつの真実がある。1989年は勝新太郎の最後の監督作品『座頭市』が公開された年である。われわれはもう、けっしてこの映画作家の新作を観ることはできない。
勝新太郎が逝って今年で7年。そのあいだ、日本映画の構図は大きく変わった。とうに命脈が尽きていたとはいえ、細々と続いてきた撮影所システムの時代は完全に終わりを遂げた。撮影所の時代に引導を渡したはずの旧角川映画もすでになく、個々の映画は文字どおり、線や流れでなく、点でしか存在しえない。もはやなんでもありの曠野である。
「なんでもあり」ということは、誰もがひとしなみに映画をつくる権利を与えられたことであり、歓迎すべき傾向であるように思える。が、しかし。それはちがう。断じてちがう。「なんでもあり」ということは、誰もが殺到してメガフォンをとり、商品以前の映画とも呼べぬ代物を垂れ流すことではないし、観客不在のまま内輪褒めを推進させ、まるでここが日本映画の中心であるかのようなフリをすることではないはずだ。(そもそも、もはや中心など存在しない。)
こんな出鱈目な時代だからこそ、今になって勝新太郎の不在がボディブロウのように効いてくる。そう、勝新不在の日本映画なんて、もういらないよ。
勝新映画祭やDVDのリリースによって、往時を知らない若い世代に支持されていると聞いてうれしく思う反面、未だ勝新の映画世界の沃野が解明されたかどうか、いささか心もとない。ワン・アンド・オンリーの生きかたをおもしろおかしく取り上げてリスペクトする、あるいは芸能ジャーナリズム的興味とは無縁に、俳優として、監督として、プロデューサーとして、全身映画人というべきその仕事を仔細に検討すること。勝新の不在を通して、日本映画の現在とやらが見えてくるかもしれない。
本当に面白い映画のことだけを。プロデューサー、Kの仕事
「勝新前期」というべき大映時代はブロック・ブッキング制度が大前提であり、(三國連太郎や丹波哲郎といった「横紙破り」の剛の者を例外にして)映画俳優たちも各映画会社間で結ばれた五社ないし六社協定の下、映画会社と専属あるいは本数契約を交わすのがふつうであった。この結果、各社ごとのカラーが確立される反面、俳優や監督の会社の枠を越えた自由な共演や交流を困難にし、おもしろい企画の種を阻んできたといえる。
ブロック・ブッキング制が行き詰まった60年代後半に至って巻き起こったスター・プロの隆盛は、こうした協定下の不自由さの反動であった。三船敏郎の三船プロ、石原裕次郎の石原プロ、勝新太郎の勝プロ、中村錦之助の中村プロと、続々と大物スターたちが自ら主宰する独立プロで映画製作に乗り出し、会社の枠を超えた共演を実現させた。けれども、そうして作られるスター・プロ作品の大半が時代劇大作で、順列組み合わせ的な「豪華共演」が観客に飽きられるのは早かった。三船、勝新、錦之助、裕次郎と各スター・プロの盟主たちが一同に会した鳴り物入りの大作、三船プロの『待ち伏せ』(1970、稲垣浩監督)が興行的に惨敗したのは象徴的であった。
やがてスター・プロの動きも急速に終息し、各プロともリスクの小さなテレビ映画(フィルム撮影が主流だった当時、テレビ放映用に作られた作品をこう呼んだ)に活路を見出してゆく。そのなかでひとり、勝プロだけは映画製作に固執した。無論、その裏には映画作りにこだわり抜いた勝新の執念があってこそだろう。
確かにプロデューサーとしての勝新はこの時期、獅子奮迅の大活躍をみせている。三隅研次、安田公義、森一生ら旧大映生え抜きの監督たちと組んで時代劇の伝統を絶やさぬよう、『座頭市』シリーズをコンスタントに製作するかたわら、『新兵隊やくざ 火線』(1972)、『悪名 縄張〈シマ〉荒らし』(1974)と大映時代のヒットシリーズをリメイク。同2作や『御用牙 かみそり半蔵地獄責め』(1973)で増村保造を起用し、この異能の作家が半面、豪快な娯楽映画づくりの才能であることを証明したのも勝新だ。
プロダクションを主宰するオーナーとしては、その映画作りはソロバン勘定のみが優先するのではないことは、勅使河原宏との異色のコラボレーションを実現させた『燃えつきた地図』(1969)や、初監督に乗り出し、その勅使河原も顔負けの堂々たるアヴァンギャルド映画を実現させた『顔役』(1971)を見れば明らか。当時の日本映画界を覆っていた即物的に刺激を求めるエロ、グロ、ヴァイオレンス志向の企画には目もくれない一方で、実話に基づいた「元祖にんげんドキュメント」のような地味な映画『片足のエース』(1971、池広一夫監督)を作らせてしまうのだから推して知るべし。
骨太の時代劇『人斬り』(1969)ではフジテレビと組んでテレビ局の映画進出の先鞭をつけている。作家の三島由紀夫を引っ張り込み、彼が自作自演の『憂國』(1966)につづいて切腹をする場面のあるこの映画の翌年、三島がほんとうに割腹したのも何かの符号だったのか。
『人斬り』は監督にテレビ映画『三匹の侍』で評判になった五社英雄を迎えたが、撮影の森田富士郎、美術の西岡善信ら崩壊寸前の旧大映京都撮影所のスタッフたちが底力をみせた。彼らの仕事ぶりに感激した五社は以後、西岡や森田らとコンビを組んで『鬼龍院花子の生涯』(1982)をはじめとするヒット作を連作する。これも勝新の触媒としての磁場の強さの証だろうか。
『無宿〈やどなし〉』(1974)で東映の看板スター、高倉健を引っ張り込むことに成功し、「日本のクロード・ルルーシュ」こと斎藤耕一を監督に招き、ボクシング界の枠を超えたスーパースターの姿を追ったドキュメンタリー『モハメッド・アリ 黒い魂』(1974、リック・バックスター監督)を作り、沈滞する映画界に何とか話題を提供しようとするエンターテインメント精神。
新しい才能を発掘する才能にも長けていた。ふだんから意識してアンテナを四方に張りめぐらせるタイプではなく、人と人との出会いから生まれる偶発的な異分野探知能力。岩波映画出身で、ドキュメンタリーとフィクションのはざまで活動していた映画作家・黒木和雄がなぜか勝新に気に入られ、『座頭市』や『警視-K』で斬新な演出を見せたのも偶然ではない。黒木の『キューバの恋人』(1969)で現地のカーニヴァルの模様をとらえた場面で、座頭市のコスプレで仕込み杖を振り回す男が一瞬映ったが、たぶん、このときから「必然」は始まっていたのだ。
勝プロ製スプラッタ時代劇の影響
ジャーナリスティックな嗅覚も本物。『男一匹ガキ大将』(1971年、村野鐵太郎監督)で手を染めた劇画の映画化は、兄・若山富三郎主演の『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』(1972、三隅研次監督)と自らの『御用牙』(1972、三隅研次監督)に結実、大ヒットを飛ばした。
当時、斜陽の坂を真っ逆さまに下っていた日本映画界では、目先の刺激だけを追い求めたエロとグロとヴァイオレンスが覆っていた。血しぶきを上げ、首や腕が飛び、人体が真っ二つになる荒唐無稽な殺陣と妖艶なエロティシズムが売り物であった勝プロの残酷時代劇群も一見、こうした流れに乗った企画と大差ないようにみえる。だが、三隅研次をはじめとする娯楽映画づくりのプロフェッショナルたちの仕事は、当時隆盛を迎えていた劇画のエナジーを借りつつ、疲弊しきった時代劇映画にもう一度、理屈ぬきの面白さとパワーを取り戻そうとする試みだったのだ。
『子連れ狼』以前から若山は東映の時代劇『賞金稼ぎ』シリーズ(1969―72)でアイディアマンぶりを発揮していた。斬られた足首だけが地面に残る描写、まんまマカロニウエスタンの銃撃戦といった要素がすでに見られるのが興味深いが、小沢茂弘や工藤栄一の泥臭い演出もあって、必ずしも成功したとはいいがたい。大映京都撮影所で独自の映像美学を追求していた三隅研次と若山が勝プロの『子連れ狼』シリーズで本格的に出会ったのは、両者にとってまさしく僥倖(ぎょうこう)だった。(両者が初めてまみえたのは、若山が城健三郎と名乗っていた大映時代の『新撰組始末記』1963である。)
勝プロ残酷時代劇という「蛮勇」が正しかったことは、両作が大ヒットしてシリーズ化され、『女囚さそり』シリーズや『影狩り』シリーズ、『修羅雪姫』シリーズをはじめとする追随作を生み、日本映画界に劇画原作映画のブームを呼んだことで証明された。
いっぽうで、切れ味鋭いモンタージュ、アクロバティックなアクションといった大映時代の『座頭市』や勝プロ時代劇を特徴づける刻印は汎アジア的な広がりをみせ、遠く海を渡ってアジア武俠映画の祖ともいうべきキン・フーをはじめとする香港・台湾の武俠映画へと流れ込んでいった。
そのDNAはアン・リーの『グリーン・デスティニー』(2000)やチャン・イーモウの『HERO』(2002)といった作品にも脈々と受け継がれていることがわかる。かのウォン・カーウァイでさえ、怪作『楽園の瑕〈きず〉』(1994)で『子連れ狼 三途の川の乳母車』の殺陣をマニアックに再現してみせるのだから、その影響力たるや恐るべし。
アジア圏だけではない。アメリカではB級映画の怪人ロジャー・コーマンの手によって『子連れ狼』シリーズの第1、2作が再編集され、『SHOGUN ASASSIN』(1980)と題して公開されて大ヒット。即物的な残酷描写が大いに評判を呼び、'80年代のスプラッタ映画ブームの呼び水となった。
正当な映画史から零れ落ちたボンクラたちの映画史へのリスペクトを欠かさない映画オタク、クエンティン・タランティーノは日本映画のプログラム・ピクチュアのファンとしてつとに知られるが、共にゲストに招かれたゆうばりファンタスティック映画祭で勝新に遭遇。宅録派のカヴァーアルバムみたいな映画『キル・ビルVol.1』(2003)でKatsu
Shintarouの名前を挙げ、『三途の川の乳母車』の殺陣を再現した人体解体ショーをやってのけた。勝新の映画の遺伝子はいまもワールドワイドにアディクトを増殖させている。
ノイズとリアリティ。カツシン流のキャスティング術
勝新の大映時代の作品と勝プロ設立以降の作品を比べてみると、(撮影機材やフィルムの感度、粒状性の向上といったテクノロジーの問題を別にしても)画面から受ける印象は明らかに異なる。はっきりと「肌ざわり」がちがうのだ。 「勝プロ以後」をもっとも象徴するのは、勝新の嗜好を反映したキャスティングの変化、あるいはこだわりに顕著だろう。1960年代後半になると、五社協定の枠組みが崩れ、俳優の専属制度も無効になって、旧来の「映画俳優」たちがテレビや舞台へ活動の場を求めるいっぽうで、手薄になった俳優の層を埋めるべく、新たな人材が演劇界から映像の世界に飛び込んできた。
勝新はこうした異分野からの参入組のパーソナリティを本能的に察知する能力に長けていた。名前を列挙するだけでじゅうぶんだろう。岸田森、草野大悟、石橋蓮司、蟹江敬三、原田芳雄といった猛者たち。ベテランでは小池朝雄、西村晃、大滝秀治、江幡高志といった面々が重用されていくのも勝プロ作品の際だった特徴だ。いずれ劣らぬ、ひと癖もふた癖もある男たちばかり。清冽ささえ感じさせる大映時代の作品群と異なり、ひとたび彼らが画面に登場するや、明らかに「濁り」が生じている。存在としてのノイズ。
岡本喜八や実相寺昭雄ら個性派監督の作品で知られる怪優、岸田森と勝新の出会いは岡本監督の『座頭市と用心棒』(1970)から。短銃を持つ不気味な殺し屋・九頭竜を演じて強烈な個性を放ち、海外ではカツシンやミフネよりも評判になったという。以後、勝新や若山富三郎に愛され、勝プロ作品に欠かせない俳優のひとりとなり、勝新主宰の演劇学校、勝アカデミーの講師を務めるまでに至った。
岸田の盟友であった草野大悟は、ときに軽妙に、ときにずる賢い小悪党を演じさせたら天下一品。『御用牙』(72、三隅研次監督)では蟹江敬三ともども、勝新演じる同心・板見半蔵の下働きを務め、コメディリリーフぶりが笑いを誘う。
勝新、若山作品でいつも献身的な助演ぶりをみせる石橋蓮司(恐らくは勝プロ作品最多出演者だろう)はいうに及ばず、粘着質の演技で厭味な悪役に扮して凄みと滑稽味を交互に滲ませる西村晃や小池朝雄にしても、勝好みの俳優たちは日本映画界きっての超個性派と呼ぶのがふさわしいが、と同時になんともいいようのない色気の持ち主ぞろいでもある。清濁併せ呑む勝新の広大な包容力が海千山千の男たちを包み込み、個と個が衝突して火花を散らしたとき、ほかの作品でみたことのない顔をフィルムに刻んでいくのだろう。
包容するのはむろん、男たちだけではなく、むしろ女優を描いたときにこそ、その目の確かなことがあらわになる。テレビ版『座頭市』(1974―1979)の「心中あいや節」における、はなれ瞽女を演じた吉永小百合と市の雪の中の情交と別れ。『警視-K』(1980)の「いのち賭けのゲーム」でのバスルームで会話する原田美枝子の長回しのシークェンス。あるいは同じ番組の「オワリの日」で松尾嘉代の横顔をとらえた何げないショットの美しさ。女性を撮ることにかけては、凡百の監督の敵うところではない。勝新太郎はほんとうに女性映画の手練れであった。
撮影現場でのライヴ感を重視する勝新のリアル志向は、既存の俳優ばかりでなく、新しい人材を積極的に発掘・育成する方向へ向かったのも当然である。
『警視-K』のレギュラーの刑事役のキャスティングは異色と言っていいだろう。小柄だがやけにガタイのいい谷崎弘一はそれもそのはず、『がんばれ!! ロボコン』の着ぐるみ役者。相棒の水口晴之は元クールスのヴォーカリスト。音楽担当の山下達郎のプロデュースでソロ・アルバム『BLACK OR WHITE』を発表したばかりだったので、そのセンからの起用だろうか。しょぼくれ課長の北見治一にしてもエリート風を吹かす金子研三にしても、この手の番組ではあまりお目にかかれない地味なキャストである。
勝アカデミーの卒業生たちを勝プロ製作の番組に起用するのは当然の配慮だろうが(『警視-K』のエピソード「LiLi」では、勝アカデミー出身のルー大柴が大柴亮介の名でちらりと姿をみせる)、ふつうの刑事ドラマならお茶の間へ色目を使って、レギュラー陣くらいは親しみやすい人気者をキャスティングするところだが、勝新はそうしなかった。谷崎も水口もお茶の間での知名度とは関係なく、刑事をみごとに演じた。いや、刑事そのものとして作品のなかに息づいている。
要するに、つくられた「うそ臭さ」に耐えられないひとなのだ。だからファミリーの絆を描いた『警視-K』では実の娘の奥村真粧美が娘を、別れた妻を中村玉緒が演じる必要があった。キャメラの向こう側とこちら側と境界はなくなり、あとには作品だけが残る。ノイズ志向とリアリズム志向は表裏一体のものだろう。
こうした勝新のキャスティング術は、最後の監督作『座頭市』でも遺憾なく発揮されている。緒形拳や田武謙三のような古い顔なじみから、実子・奥村雄大(現・雁龍太郎)やミュージシャン出身の陣内孝則や内田裕也、コメディアン出身の片岡鶴太郎、新人の草野とよ美まで、渾然一体、まさしくごった煮的な顔ぶれ。さまざまな履歴の人間たちがぶつかり合い、その渦のさなかにドラマを見出す勝新の映画は文字どおり、ジャムセッションの呼称がふさわしい、祝祭の場だった。
伝統からの逸脱。グルーヴィーな勝新の音楽センス
勝新太郎が長唄の杵屋勝東治の次男で、映画界入りする以前は二世杵屋勝丸を名乗っていたことはよく知られている。『座頭市』シリーズをはじめとする主演映画で聴かせる三味線の弾き語りは絶品だった。舞台『不知火検校』(1994)で三味線を手にノドを聴かせた瞬間、会場のセゾン劇場がしんと静まり返り、やがて興奮が沸点に達した瞬間を、今でも鮮やかに記憶する。あるいは日本ではほとんど類を見ない本格的なディナーショーを聴かせる豪快なエンターティナーとして。
タレントといえば、当節ではすっかり「無能」とイコールで結ばれるような存在となってしまったが、勝新は語の真の意味で「タレント」であり、「芸能」の道に生きた男だった。音楽の分野でも天賦の才に恵まれた勝新の「耳のよさ」が全開にされるのも、勝プロ設立以後の現象だ。
大映時代の勝新の代表作の音楽を手がけた作曲家は、バーバリズムと叙情に溢れる重厚な伊福部昭、あるいは劇的効果と情感の絶妙なバランスに秀でた斎藤一郎といったひとびとで、それぞれほんの少し聴いただけで、たちまち大映京都撮影所作品特有の色調で描かれた、土ぼこりの匂いが脳裡によみがえってくるような特徴的な曲調の持ち主であった。
『座頭市』シリーズの第一作『座頭市物語』(1962)から手がけ、勝新のイメージ形成に大きく寄与し、彼の世界と不可分な音楽を奏でてきた伊福部昭とは勝プロ以後も親交を深め、引き続き映画や舞台で仕事をしているが、映画作家・勝新太郎の個性が爆発したのはそれ以外の新しい作曲家の導入によるところが大きい。
その代表格が村井邦彦だろう。ゴールデン・カップス、モップスなどGSの作曲家として頭角を現し、フリーの音楽プロデューサーとしての活躍で知られる彼の参加により、勝新の映画音楽のグレードは新しい段階に突入する。低く忍び寄るベースの音色とリズムを刻むエレキのリフ、ハモンド・オルガンの音の厚みがファンキーな『顔役』のスコアはまさしくレア・グルーヴ。若山富三郎主演の『桜の代紋』(1973)でも村井が音楽を手がけているが、『顔役』の曲が一部流用されているシーンには、文字どおり兄弟のような二本の映画の関係ににやりとさせられた。
『座頭市物語 折れた杖』(1972)で与太者たちと対峙する場面で低く流れはじめるオルガンは血の匂いを予感させるクールなテイスト。あるいは豪快さとエロティシズムを増幅させる『御用牙』(1972)のファンク・ジャズふうアレンジ。村井プロデュースの縁だろう、『御用牙』ではモップスが熱唱する主題歌がつけられていたのも楽しいオマケだった。村井が同時期に、赤い鳥やガロや荒井由実などのプロデューサーとして試みていたソフトロック的なアプローチも随所に聴ける。
冨田勲は『座頭市あばれ火まつり』(1970)、『新座頭市 破れ!唐人剣』(1971)、『御用牙 かみそり半蔵地獄責め』(1973)、『悪名 縄張荒らし』(1974)の4作を担当。シンセサイザーを本格的に導入する直前の冨田音楽もまた、この時期の勝新好みのグルーヴィなサウンドで、従来の勝新の人気シリーズとは一線を画す。
桜井英顕も勝プロ作品の重要な作曲家。勝新出演作は『御用牙 鬼の半蔵やわ肌小判』(1974)だけだが、若山主演の『子連れ狼』シリーズ6作中5作を担当。山田流篳曲家という異色の経歴の持ち主で、邦楽をベースにした和のテイストとファンク/ロック的な要素が渾然一体となり、不思議なカッコよさを生み出している。まさしくクロスオーヴァー、フュージョン、ノンジャンル・サウンドだった。
村井、富田はテレビ版『座頭市』シリーズでも音楽を手がけ、ときには彼らの映画音楽や桜井の『子連れ狼』シリーズの曲も流用されている。いずれも従来の時代劇などの映画音楽では考えられない、破格のサウンド・プロダクション。明らかにオーソドックスな題材から逸脱しようとするプロデューサー、勝新の意思の反映だろう。
こうした勝新の音楽センスは、テレビドラマ『警視-K』で、山下達郎を起用するところにも現れている。シュガーベイブ解散後、ソロ活動を展開していた山下の音楽担当はもともと、番組にもレギュラー出演した勝新の娘、奥村真粧美が達郎のファンだったことから実現したという。当時の達郎は業界内外での一部の高い評価にもかかわらず、レコード・セールスに恵まれていなかったが、大阪のディスコから火がついて、各地のディスコでよくプレイされていた知る人ぞ知る存在だった。やはり娘のディスコ好きの反映なのか、やたらにディスコの描写の多いこの番組において、達郎の音楽がよくなじんでいるのもけっしてゆえないことではない。達郎のバックを務めた一流のスタジオミュージシャンたちが奏でるインスト曲は、いま聴いても古びていない。
番組では達郎の歌う主題歌「マイ・シュガーベイブ」が毎回流れてクロージングとなるが、最終回ではその曲の題名をタイトルに冠した。勝新が自分の「マイ・シュガーベイブ」たち=妻や娘や仲間たちに、丸ごとの自分、丸ごとの愛を捧げたこの番組の終幕に、これほどふさわしい音楽はなかった。
映画という名のいのち賭けの遊び
役者・勝新太郎から全身表現者・カツシンへの転換はいつ、どこで行われたのか。デビューいらい、大映という会社の下でずぶずぶの娯楽映画づくりに明け暮れていた男が、初監督『顔役』で鮮やかにみせたラディカルな映画作家ぶりは、果たしてどうやってなされたのか。今もって勝新史上最大の謎だろうが、ただひとつだけ、ある人物との出会いがそこに大きく関与していることだけはいえる。その名は勅使河原宏。いうまでもなく、「前衛」の親玉みたいな映画作家である。
たまたまバーで飲んでいた勅使河原宏に、勝新がすうっと近づいてきたのが出会いだという。その数歩の歩みの間に、勝新は役者の狭い枠を抜け出して、新しい世界に足を踏み入れてしまったのではないか。
『おとし穴』(1962)、『砂の女』(1964)、『他人の顔』(1966)と続いた勅使河原と作家、安部公房とのコラボレーションは第4弾『燃えつきた地図』(1968)において、勝新太郎を主演に迎えた。失踪者の行方を追う興信所の探偵がさまざまに奇怪な人間模様に巻き込まれ、都市のなかで次第に自らのアイデンティティーを見失っていく不条理な物語は、これまでの勝新の映画のどれとも似ていない。ことばよりも拳骨、思索よりもキックのほうが似つかわしい人物ばかりを演じてきた勝新はここで、都市の傍観者として漂泊するだけなのだ。
「『悪名』『座頭市』『兵隊やくざ』――こういうプログラム・ピクチャーというのかな、これは、ま、いってみれば拘置所で出てくるメシだナ。出てくるんだから、それを食べるよりしようがない。それで時どき、『燃えつきた地図』みたいなわけの分からないもの、やりたくなっちゃう」(「市川雷蔵とその時代」室岡まさる編・徳間書店)
フィルモグラフィでいえば、この映画の直前に公開されたのが大映作品『とむらい師たち』(1969)であることに注目したい。野坂昭如原作、藤本義一脚本のこの映画もまた、まことにけったいな異色作である。三隅研次には珍しい現代劇で、おびただしい死を商売にした男たちが巻き起こす狂想曲がけたたましく描かれる。ラストで勝新がこの世の終わりを覗く本作や『燃えつきた地図』のころ、勝新は明らかに大映の映画スターの枠組みから脱皮しようとしていた。
そして『燃えつきた地図』に出演した経験、ひいては勅使河原との出会いが勝新をして映画を撮らせる決意をさせたのだろう。テレビシリーズ『座頭市』の撮影現場を追った勅使河原演出のテレビドキュメンタリー『われらの主役』のなかで勝新は、インタビュアーでもある勅使河原にこう語っている。
「おれが映画を撮れると思ったのは、テシさん(のおかげ)なんだよね。(中略)こういう撮りかたなら、おれも映画が作れると思った。(中略)おれとテシさんじゃ、ものの見かたがまるで違う。おれにしてみりゃ、テシさんはなんてつまんないものに興味を示すんだろうと思う。おれはおもしろいものしか見ないからさ。でも、つまんないものを見なけりゃいけないんだよね」
『燃えつきた地図』の翌年、勝新は初めての監督作『顔役』(1971)を発表。規律破りのハミダシ刑事が、警察と癒着した暴力団の妨害に抵抗しながら、信用金庫の不正融資事件に挑んでゆく、というストーリーは一応ある。黒澤明の『野良犬』(1949)や村野鐵太郎の『闇を裂く一発』(1968)などの刑事ドラマの名作を書いた菊島隆三と勝新の手になる脚本は、このジャンルとしてはありふれたものだ。
だが、手持ちキャメラの不安定な映像が全編を覆う『顔役』において、物語は解体されつくす。広角レンズで捉えた登場人物たちの眼球の動き。水虫の足の指の股を狙う極端なクロースアップ。太陽の照りつける白昼の電車通り、腹を刺された男が血だまりのなか、ふっと崩れ落ちるロングショット。色の使い方、ガラスや鏡へのこだわりなど、『燃えつきた地図』の影響が色濃くうかがえるが、映像と音響の実験はそれ以上に大胆で刺激的だ。信金課長の藤岡啄也の運転する家族連れの乗用車が追突されて殺されるクラッシュ場面の描写を見よ。狙撃された暴力団組長(山形勲)の傷口から弾丸を摘出する手術のとき、刺青の入った肩からはごぼごぼと血が溢れ、メスと弾丸がカチャカチャ耳障りな音を立てるリアリズム。
リアリズムといえば、タイトルバックの冒頭の盆御座や、実兄・若山富三郎が特別出演するやくざの手打ち式をとらえたドキュメンタリー・タッチの描写には、見てはいけないものを見てしまったときの不穏な空気が充満している。これまでにやくざ映画で何度も何度も登場したシチュエイションだが、未だかつてこんなふうにヤバめに描いた映画はなかった。聞けばそれも当然で、勝新のリアリズム志向は、本職のアドバイザー(ボンノこと菅谷雅雄!)に協力を仰いだものだった。恐るべし。
特出しの舞台で艶然と微笑むストリッパーやゴミがぶちまけられた汚い街頭でぶつぶつ呟くホームレスもまたしかりだろう。河口のヘドロを浚渫(しゅんせつ)作業するパワーショベルをロングで、あるいは逆光も眩く俯瞰で捉えたショットがフラッシュバックで短く繰り返される場面が印象的だが、ゴダールの『彼女について私が知っている 二、三の事柄』(1966)で執拗に描かれる工事現場の描写にも似て、街の顔の秀逸なドキュメンタリーでもある。パリと大阪ミナミの共鳴。
キャメラ・イコール・万年筆どころではない。対象を捉えるキャメラはここでは勝新の眼そのものだ。勝新の研ぎ澄まされた五感がキャメラそのものとなっている。やくざの山崎努のニヒルなふてぶてしさ。その情婦の太地喜和子のときにおびえたように、ときにしどけなく誘う目つき。捜査会議中に不気味によろめく大滝秀治。役者たちの一挙手一投足を見逃すまいとする勝新の視線。キャメラは‘eye’であり‘ I’である。
『顔役』は大映、日活の両社が経営のいきづまりを安易な提携で解消しようとした配給機構、ダイニチ映配の配給で公開された。撮影所システムの終わりを予告していたダイニチ映配は時代の仇花にすぎなかったが、その終焉に至って『顔役』のような映画が現れたのは、なんとも皮肉な事態であった。娯楽映画ひと筋の役者が、既成の映画文体をぶっ壊すおもしろさ。しかし、これはただの役者の自己満足ではない。撮影の牧浦地志、美術の西岡善信、照明の中岡源権、編集の谷口登司夫と、大映京都撮影所の精鋭スタッフがサポートする勝新と仲間たちの真剣な遊びだった。
ふたりのK、勝と北野。あるいは暴力という主題
『顔役』で開花させた勝新の監督としての才能は、『新座頭市物語 折れた杖』(1972)でも遺憾なく発揮された。自家薬籠中のものである『座頭市』シリーズを初めて監督した勝新の演出は、伝統と前衛の幸福な結婚というべき斬新さをみせる。老婆(伏見直江!)が吊り橋から落ちるフラッシュバックのモンタージュ。一瞬で勝負がつく殺陣の凄みと、豪雨のなかで斬り結ぶチャンバラの醍醐味。きめ細かく描かれる登場人物たちの感情の振幅。
なかでも心惹かれるのは悪党どもの生態である。親分の小池朝雄、代貸の藤岡重慶、用心棒の高城丈二をはじめ、ちんぴらたちに至るまで、この映画に登場する悪役には遠慮というものがない。村人たちからいかさま賭博で金を搾り上げた挙句、借金のカタに押さえた舟に火を放ち、抵抗する村人たちはなますのように切り刻まれる。年端のゆかぬ子供とて容赦はせず、額から血を流した少年の亡骸は砂に埋もれる。悪徳商人と結託して漁村を一手に支配しようとする彼らの非道な振る舞いは、『座頭市』シリーズのなかでも比類のない酷さだ。時代劇の装いこそあれ、ここで勝新がまっすぐに見据えているのは、この世のなかの不条理な暴力そのものである。非情な暴力描写が過激さを増し、痛みを増すほどに、人間の汚濁や醜悪さが抉り出されてゆく。
ここで唐突に北野武の名が連想される。何も新旧『座頭市』の比較をするまでもなく、さりとて、内田裕也や片岡鶴太郎といった、まんざら因縁浅からぬ面々と並んで北野武ならぬビートたけしが’89年版『座頭市』に登場していても何の違和感もないというばかりではなく。
一貫して暴力を重要な主題に置く彼の諸作の相貌は、勝新の映画になんとよく似ていることか。北野武が初めて監督した『その男、凶暴につき』(1989)を観たとき、何やらデジャヴュを覚えたのは筆者だけではあるまい。ともに暴力刑事を主人公に据えた『顔役』と『その男、凶暴につき』は、既成の映画文体にとらわれない、自由な映画づくりという点で通底する。『顔役』は北野武が世界的な評価を受ける、撮影所以後の時代の到来を予告していた。たぶん、それがちょっと18年ばかり早すぎたのだろう。
老婆が吊り橋から落ちて死んだことに負い目を感じた市は、銚子の漁村に足を踏み入れ、女郎をしている老婆の娘(太地喜和子)を捜し出す。イカサマ博打で金をつくった市は女を身請けするが、よかれと思って助けた市の心の裡にある贖罪と裏腹の欺瞞を鋭く見抜いた女は、「それじゃ誰のためでもない、自分のためじゃないか」と言い放つ。旅を重ねるうちにいつのまにかスーパーヒーローとなってしまっていた市の慢心をえぐる言葉。
市はこのあと、悪玉一家の計略によって両手を銛で潰されるが、すでにこのとき、女の言葉によって受けた衝撃で、心の杖は折れていたのだ。市は血まみれになりながらも悪党どもを打ち倒すが、空虚な心を抱えたまま、あてどなく浜辺をさまよう市の姿でこの映画は終わる。正義と暴力、綺麗事と汚い暴力。シリーズの回を重ねるごとに超人と化していった市がもう一度人間として生き直すために、この映画は勝新にとってどうしても必要だった。
次作『新座頭市物語 笠間の血祭り』(73、安田公義監督)では久しぶりに故郷の笠間に戻った市は幼なじみ(岡田英次)の裏切りに遭い、手酷い仕打ちを受ける。これまでも友を、兄を、師匠を、自らの手で屠ってきた市は幼なじみを手にかけてしまう。この映画でいったん映画シリーズは終了し、ついに故郷までも失った市の流浪の旅は、テレビへと引き継がれていった。
美と円熟と。テレビ版『座頭市』の世界
銀幕を舞台に紡いできた勝新太郎という題名の長い長い物語は、高倉健と共演した『無宿』とドキュメンタリー『モハメッド・アリ 黒い魂』の興行的失敗で、1974年を最後に途絶える。同じ年、テレビ版『座頭市物語』がスタート、1976年から1979年にかけて『新・座頭市』と題して毎年1シリーズが放映、実に4シリーズ、計100話にも及んだ。森一生、三隅研次、安田公義ら旧知の監督たちに混じって、勝新も精力的に演出を手がけた。
映画のシリーズと違って、テレビ版は毎回のゲストスターが主人公であり、市と彼らのふれあいが描かれる。石原裕次郎、浅丘ルリ子、植木等、吉永小百合、丹波哲郎、森繁久彌……ぜいたくなキャストの見せ場を用意し、劇場用映画に劣らぬクオリティの高さはテレビ作品であることを忘れてしまうほど。たまたま16ミリフィルムで撮られただけの、つまりは映画そのもの、時代劇そのものなのだった。
『顔役』や『折れた杖』でみせたアヴァンギャルドな要素は影を潜めるものの、代わりにゲストスターの表情や芝居を心ゆくまでフィルムに切り取ってやろうという意思が伺える。とくに女優を美しく撮るときの腕の冴えはちょっと比類がない。その成果のひとつが浅丘ルリ子主演の「心中あいや節」であり、原田美枝子主演の「不思議な旅」である。
『新・座頭市』の第3シリーズの最終の2話「虹の旅」「夢の旅」は勅使河原宏が監督。とりわけ、市の目が見えるようになる後者は、お茶の間よりも草月ホールでの鑑賞がふさわしいような大実験映画大会と化した。女優を美しくとらえる監督の目と、破天荒な実験をおもしろがるプロデューサーの目と。これに俳優の目が加わった勝新は、もとより単眼的思考とは無縁であり、いわば最強の知覚能力を持った稀有の表現者だったのだ。『座頭市』の旅を終わらせた勝新自身の旅はまだまだ続き、そして意外な道を辿る。
はだかの演技、はだかのことば。『警視-K』の到達点
黒澤明と勝新太郎。およそ交わるはずのないふたつの描線は、やはりついに交差することはなかった。『影武者』(1980)降板事件。日本映画の歴史を考えたとき、やはりそれは不幸なできごとだった。運命に翻弄される男を描いた巨大なプロジェクトから途中離脱した勝新が選んだのは、『影武者』とはまるで正反対のちいさなちいさなドラマだった。
『警視-K』が放映された「日本テレビ系・火曜夜9時」は、石原プロの『大都会』シリーズ(1976‐1979)、加山雄三主演『大追跡』(1978)、松田優作主演『探偵物語』(1979-1980)、藤竜也と草刈正雄主演の『プロハンター』(1981)など、男臭い刑事アクションが連綿と続いた伝統の枠。当然、この番組もそのセンで企画されたと思われる。新番組の予告編ナレーションに曰く、「悪い奴らが噂する、ガッツ警視に気をつけろ」。おそらくテレビ局側が期待したのは、毎回、勝新演じる主人公がチェーンのついた手錠(!)を投げて犯人を逮捕する、いわば『御用牙』シリーズの現代版のような刑事アクションだったはずだ。
しかし、勝新が選択したのは、これまでに誰も観たことのないドラマだった。主人公の警視は賀津(ガツと読む。通称ガッツ)勝利。警察の組織から自由な捜査をすべく、ガッツ部屋と呼ばれる部屋を与えられ、まるでちんぴらみたいな二人の部下がついている。ガッツは妻と離婚して愛娘とキャンピングカーに住んでいる。これは『影武者』出演が決まった勝が購入したものをそのまま使っている。問題の降板騒動があった日、車内で黒澤明と松の廊下紛いの騒動を演じたという、あのキャンピングカーだ。役名といい、つまりは丸ごとのおれ、丸ごとの勝新太郎を視聴者の前に放り投げている。(勝新の本名は奥村利夫。若山富三郎の本名は奥村勝〈まさる〉! 賀津勝利は自分と兄の名まえの合成というわけか。ちなみに『桜の代紋』の若山の役名は奥村昭夫。つくづくフィクションとリアルの境界を曖昧にする兄弟である。)
それだけではない。娘役は勝の実娘・真粧美が、別れた妻は中村玉緒がそれぞれ演じており、勝と真粧美の会話などは親子の日常生活をそのまましのばせるリアルなものだった。
そう、ここでもリアリティ。ノー・ライト、手持ちキャメラで自然光を多用した撮影は、逆光や夜間のシーンでは効果を発揮する反面、そこで何が行われているのかわからないこともある。語り口はぶっきらぼうで、省略と過剰がイビツなバランスを成し、視聴者の想像にゆだねられる部分も多い音声はシンクロ(同時録音)で、囁くような台詞はときに聴き取りづらい。紙に書かれた台詞のうそ臭さを信じない勝新は、即興演出で物語を刻んでいった。
『警視-K』に参加した監督の根本順善はこう記す。
「演出者としての勝さんは、役者の段取り芝居をもっとも嫌い、一方でシナリオライター泣かせでもあった。なぜかというと、撮影台本が出演者に渡っても、セリフを絶対に覚えるなといい、ライターが苦労して構築した各シーンの狙いだけを尊重し、書かれたセリフはすべて破棄し、あらためて現場でつくり直してゆく。」(「人と契らば濃く契れ 川谷拓三と僕」葦書房)
メソッド演技とかエチュードとかインプロヴィゼイションとは無縁に完成させた、勝新流の即興演出。そこから生まれたのは血の通った人間だった。石橋蓮司や川谷拓三や原田芳雄といったベテランたちが勝新の手によってこれまでの演技術を剥ぎ取られ、素っ裸にされてゆく。百戦錬磨の彼らが今までに見せたことのない表情と仕種をみせるその過程が実にスリリングなのだ。
ここではもう『顔役』のように、ワンカットごとに人を驚かせるようなテクニック上の実験など必要ない。俳優たちの演技を片時もキャメラは見逃さず、マイクは聴き逃さない。ドキュメンタリーとフィクションのあわいにこそ、真実は生まれる。
だから全13話中8話の演出を手がけた勝新の演出を除くと、2話担当の黒木和雄がもっとも親和性を発揮し、森一生の担当の回がいちばん「フツーの刑事ドラマ」のようにみえたのも納得がゆく。
こうした演出アプローチで描くのは、近代社会の都市の犯罪を通してみえる人間の実相だ。死体から血液を一滴残らず抜く猟奇犯罪や利己的な幸福のために虚言症にも似たシラを切りとおす青年といった、不穏な犯罪が日常の光景となった現在こそ実感を覚えるエピソード。子を思う親の心が生んだどうしようもなく哀しい犯罪。不条理なまでの現実をまっすぐに見据えるガッツの眼差しは勝新の目そのもの。
『燃えつきた地図』で主人公の別れた妻を中村玉緒が演じていたこと、あるいは『顔役』で妨害を受けて捜査が中止になったとき、主人公の呟く「スイッチ切れても動く機械、ないんかな」という台詞が『警視-K』の第10話「いのち賭けのゲーム」でかたちを変えてリフレインされることを思えば、ガッツはかつて『燃えつきた地図』で「傍観者」だった男が、『顔役』の「観察者」を経て、「当事者」となって帰ってきた姿なのかもしれない。不器用に正義を信じることしかできないガッツは、そのまま勝新の映画に対する姿勢なのだ。
だが、こんなにまで誠実におもしろさを追求した意欲作も視聴率の低迷にあえぎ、全26話の予定が途中で打ち切られてしまう事態に至った。これこそ理不尽な現実ではないか。しかし、テレビのフレームに持ち込まれた『警視-K』はテレビドラマの枠組みを超え、映画そのものの相貌を剥き出しにしたのもまた事実であった。ある意味、劇映画から遠ざかっていたこの時期のゴダールよりもずっと過激なことをテレビでやっていたのが勝新なのかもしれなかった。
翌年、勝プロダクションは倒産して勝プロモーションとしての再出発を余儀なくされる。壮絶なまでの映画的な死。
そして現在。誰もが勝新のいない風景に違和感を覚えなくなってきたようだ。座頭の市っつぁんのように、ふらりと旅から舞い戻ってくることはもうない。だが、勝新が残した映画の数々は、いささかも揺るぐことはない。オール・手持ちキャメラ、セット撮影や人工照明の禁止など、「ドグマ95」なる結社的映画運動体が自らに課したマゾヒスティックなまでの縛りに、現代の映画はここまで脆弱になっているのかと嘆息した。(しかも、けっこうオーソドックスなドラマを描くツールとして使われていたりする。)
そんなの勝新が『顔役』や『警視-K』で、とっくにやってるよ! しかももっと自由に、もっと大胆に、もっとおもしろく。
もう観ることのできない、北野武や三池崇史や阪本順治とのコラボレーションを夢想するより、勝新がうっかり置き忘れてしまったものの使いみちを考えたほうが、いまはちょっと楽しそうだ。
(初出 2004、「スロウトレイン」)
追記
このころ、勝新太郎のムックを企画してワークス・エム・ブロスという編集プロダクションに持ち込んだところ、紆余曲折があって本の企画は流れ、代わりに同社の運営する映画のWEBサイト「スロウトレイン」にこの文章を書くことになった。
東宝の勝プロ作品の映像ソフトの情報もジャケット写真とともに掲載していたが、DVDはまだ発売されておらず、VHSだけだったのは隔世の感がある。
執筆時期は覚えていなかったが、本文に「勝新太郎が逝って今年で7年」とあるので2004年だと思う。ちょうど今から10年前、映画を取り巻く状況も大きく変わった。(「旧角川映画も今はなく」という一節があるが、角川歴彦氏率いる新体制はこのころ角川大映映画であり、その後、角川映画、角川ヘラルド映画、三たび角川映画と変遷を遂げている。)
すでに川勝正幸氏や岸野雄一氏らが新しいアプローチを試みていたが、『警視-K』がDVDで観られる現在からすると、勝新太郎の評価はかなりちがっていた。
WEB媒体ということもあり、本格的な評論ではないが、〈勝プロ以後〉に焦点を絞って、映画作家としての勝新の世界を総花的に紹介しようとしたものだった。当時はまだソフト化された作品が少なく、気軽に見返せないこともあって、分析が甘いのはご容赦。
その後、サイトが閉鎖されたので読めなくなってしまった。(拙稿は於くとして、「スロウトレイン」には山田宏一さんや宇田川幸洋さんの貴重な連載があったが、それも読めなくなったのが惜しまれる。)
たしか、この頃はまだワープロでの執筆で、原稿を保存しておかなかったのが悔やまれた。と思っていたら、サイトからテキストだけをコピーしていたものがフロッピーディスクに残されているのを見つけた。今回再掲載にあたり加筆訂正している。