ナザレのイエスは神なる救世主か?
「前述したように、古代の予言者が活躍していた当時のユダヤ人は、はりつけの刑を知らなかった。にもかかわらず、彼らは救世主のはりつけについてこと細かに描写しているのだ。
救世主が十字架にかけられることは予言されていたが、救世主の身に起こってはならないことがひとつあった。骨を折られることである。救世主の死を千年以上前に予言したイスラエル王ダビデは《骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる》(詩編34編20節)と書いている。
ローマには、十字架にかけた罪人の脚の骨を折る習慣があった。これは罪人が息を吹きかえし、そのために死の苦悶がふたたびはじまることがないようにするための慈悲深い行為だという説もあるが、そもそもはりつけは慈悲深い処刑方法ではないし、ローマ人も慈悲深い民族として知られていたわけではない。見物人が退屈しはじめ、十字架にかけられた罪人が意識を失ってぐったりしたときに、罪人の脚を折って罪人が死んだのかどうかを確かめた、というほうが説得力のある説明だろう。理由はともあれ、はりつけの刑の締めくくりとして罪人の脚を折る、というのが決まりだったのである。
予言者ダビデ王が予言したとおり、イエスのからだの骨は一本も折られなかった。
そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男の足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
ヨハネによる福音書 19章32,33節
これはちょっと見よりずっと重要な出来事である。遠い昔の過越しの祭りの羊と同様に、救世主は国に対するいけにえの“羊”になるだろう、と古代の予言者たちは告げているのだ。そういうわけで、洗礼者ヨハネはイエスを見たときに《見よ、世の罪を取り除く神の小羊を》(ヨハネによる福音書1章)と叫んだのである。
過越しの祭りの羊に関する決まりのひとつに、骨を一本たりとも折ってはいけない、というものがある。イスラエル人は過越しの祭りをとり行う際にはこの決まりを守りつづけていた。だれ、あるいは何のせいで、ローマ人たちはナザレのイエスの場合だけ、無意識のうちにイスラエルの過越しの祭りの決まりに従ってしまったのだろう?
人類を救済するために人の姿で降臨した神の福音(メッセージ)を広める目的で創設された組織が、いま懸命にその福音を否定しようとつとめているのは、皮肉としか言いようがない。
もちろん、人の姿をした神という考え自体、人の知性と相容れないものである。だが、かつては人の知性と相容れないと思われていたことが結局は真実であった例を、いまのわたしたちは数多く知っている。
もしも“存在”、あるいは大いなる“宇宙精神”、それとも“神”が古代の予言者を通じて人類と接触したのでなければ、どうして予言どおりの年に生まれた人物が、予言者の予言を次々と成就させる人生を歩んだのだろう?ナザレのイエスはほんとうに“肉をまとった”大いなる“宇宙精神”だったのだろうか?それとも、史上最も謎にみちた人物にすぎないのだろうか?」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より
感想
>前述したように、古代の予言者が活躍していた当時のユダヤ人は、はりつけの刑を知らなかった。
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12042190386.html
確かに「手足を貫かれて死ぬ」ような事が書いてあり、磔刑と解釈できるがはりつけの刑と具体的に書いてある訳ではなくシンクロニシティーレベルだろう。
>救世主が十字架にかけられることは予言されていたが、救世主の身に起こってはならないことがひとつあった。骨を折られることである。救世主の死を千年以上前に予言したイスラエル王ダビデは《骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる》(詩編34編20節)と書いている。
原文は「正しい者には災いが多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。」旧約聖書「詩篇第34篇19節,20節
刺し殺されていて、骨が折られないもないだろう。つまり、シンクロニシティーレベルという事。
以前にも述べたが、預言を実行する(現実化させる)事が大事らしい。http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-12042577775.html
>これはちょっと見よりずっと重要な出来事である。
当時の彼らが預言を実行していた(現実化しようとしていた)という事は非常に重要な事だと思われる。
>人類を救済するために人の姿で降臨した神の福音(メッセージ)を広める目的で創設された組織が、いま懸命にその福音を否定しようとつとめているのは、皮肉としか言いようがない。
従来のキリスト教会の事?
おまけ