参考資料750 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

激しい渇き
「十字架にかけられたイエスは激しい渇きを覚えた。わたしはエルサレムの街を歩きまわったことがあるが、健康なわたしでさえ、冷たい飲物をがぶ飲みしたものだ。ましてイエスは暑い盛りに十字架に釘付けにされていたのだから、どれほど喉が渇いたことだろう。ダビデはこう予言していた。

 舌は上顎にはり付く。
詩編 22編15節

 焼けつくような渇きを表す、これほど生き生きとした表現がほかにあるだろうか?
 けれども、ダビデはこれでは不正確だと思ったらしく、さらにこう記している。

 渇くわたしに酢を飲ませようとした。
詩編 69編21節

 これらの予言から千年後ナザレのイエスの身に何が起こったのかを、イエスと同時代の記録を読んでみよう。

 こののちイエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「わたしは渇く」と言われた。そこには、酸っぱいぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々はこのぶどう酒をいっぱい含ませた海綿を、イエスの口もとに差し出した。
ヨハネによる福音書 19章28,29節」
「Ⅴ・ダンスタンの終末大予言(上)」ヴィクター・ダンスタン著・幸島研次訳より

感想
>渇くわたしに酢を飲ませようとした。
詩編 69編21節

原文を調べてみると、
「彼らはわたしの食物に毒を入れ、わたしのかわいた時に酢を飲ませました。」(口語訳)
やはり、聖書預言もシンクロニシティーレベルだろう。ぶどう酒と酢は違うものね。現代みたいにぶどうの酢なんてないだろうから普通の酢でしょ。

ただし、イエスが自分が神の子(救世主)と自認して預言を実現化しようとしていた節がある。
というのは、今までは磔刑になった時に「わが神、わが神、何故我を見捨てたもうた」(エリ・エリ・レマ・サバクタニ)と叫んだと聞いて「天空から来た者」に「神の計画」を知らされていなかったから天を呪ったと思っていたが、旧約聖書の詩編第22編1節に「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか」とあるからである。
たまたま、裏も取れた。「ヨハネによる福音書」第19章28節に「そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった」とあり、つまり、旧約聖書にそんな言葉が載っていなかったらイエスもそんな事は言わなかったという事だろう。以前から思っていたが、予言とはそういう種類のもので人間が実現させていくものなのだろう。決して運命には勝てませんよ的なものではないと思う。

ノストラダムスの予言集の1巻48番の詩の4行目「その時(彼は)私の予言を実現させ終わらせる」も納得出来る。
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11248447742.html
ただし、「ヨハネによる福音書」第19章30節~37節にあるように1人の力ではなく1948年のイスラエル建国のように複数の力によらなければ到底実現されないだろう。

「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべて終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
 さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願って、足を折った上で、死体を取りおろすことにした。そこで兵卒らがきて、イエスと一緒に十字架につけられた初めの者と、もうひとりの者との足を折った。しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたのを見て、その足を折ることはしなかった。しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。その人は、自分が真実を語っていることを知っている。それは、あなたがたも信ずるようになるためである。これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。」

おまけ