五島勉氏の「別のもの」 その10 | シフル・ド・ノストラダムス

シフル・ド・ノストラダムス

ノストラダムスの暗号解読

「ノストラダムスよ、あなたの詩の中には、そんなやりきれない未来をぶっとばす救いの予言、「日の国」がキリスト教文明を超えて進むことを裏づける、真の使命の詩はないのか?
 ある。「日の国」がキリスト教文明を超えて進む使命を示した、ノストラダムスの救いの詩はある。それはやはり、この『大予言』シリーズの初巻以来、彼の最後の予言としてご紹介してきたあの詩だ。
 私以外の研究者があまり取り上げたがらない、欧米の研究者たちもなぜか避けて通ろうとする、あの「別のもの」の詩だ。
「ああ、それなら知ってる。“1999年、恐怖の大王”が降るころ、“別のもの”が現われれば破滅は起こらない、とかいう詩でしょ。
 じゃつまり、もう解説ずみの材料ってことじゃないですか。それをまたここで出して、前の本と同じことを書くわけ?」
 あなたはこうおっしゃるだろうと思う。私の本を読んでくださる方の中には、こんなふうに、ものすごく眼力の鋭い方々がおり、ちょっと手を抜いたり古い材料を使ったりすると、とても敏感に反応する。
「別のもの」の詩についても、そうとう突っこんだ解読を、前に何度か書いたことがあるので、ナンだまたか、と思われるかもしれない。
 しかし、それでももう一度、ここであらためて取り上げるのは、そうしたいままでの解読の上に立って、とうとう私も究極のところまで到達できたからである。
 それは、この本で追ってきた、ありがたいようでじつは恐ろしいキリスト教原理を通過しなければ、けっしてわかってもらえない新しい解読だった。とくに「イエスの支配する年々」、西暦原理を知った上でないと、読んでもらっても理解されにくい解読だった。
 それをつぎに明かす。しかしその前に念のため、その「別のもの」の詩を確認しておきたい。それは『諸世紀』1巻48番に記されたこんな詩である。

Vingt ans du regne de la Lune passez,
Sept mille ans autre tiendra sa monarchie :
Quand le Soleil prendra ses iours lassez,
Lors accomplir & mine ma prophetie.
 
月の支配の20年間が過ぎ去る
7000年、別のものがその王国を保って(保持して・築いて)いるだろう
太陽がその時代に飽きるとき(その時代を放り出すとき)
わが大予言もついに完結(終了)するのだ

 つまりノストラダムスは、自分の大予言は実質的にはこの詩で終わりですよ、とここでさりげなく言ったのだった。
 そうなら、彼の全予言の締めくくりにふさわしい中身が、この詩に入っていなければならない。これがこの詩の第一の意味だ。と知った上で詩の一行目を見ると、そこに記された「月が過ぎ去る」の暗示が強く浮かび上がってくる。
 月が過ぎ去るのは明け方。方角でいえば西。したがってこの行は「西の支配の20年が過ぎ去る」の意味。ではどこの西かというと、これは巨大なユダヤ予言体系のおしまいの詩だから、当然、ユダヤ=イスラエルから見た西だ。つまり欧米のことだ。
 したがって、「欧米の20年間の支配が過ぎ去る」ということになる。しかもノストラダムスが、「20」とか「21」とか詩の文中で書くとき、それは世紀を示すことが多い。
 たとえば湾岸戦争で中東の石油輸出がストップしたのを、彼は『諸世紀』7巻40番で、「閉じられた港の前の21」と書き、的中させた。
 ここからも「月の支配の20年間が過ぎ去る」の20は、「欧米が支配する二十世紀(またはその最後の20年間)が過ぎ去る」と読んでいい。」
「ノストラダムスの大予言 残された希望編」五島勉著(1992年)より

感想
「別のもの」(autre)が多分「outre」の誤植なので「~を越えて」で訳すと、

月の天下の20年が過ぎ去った
7000年を越えて(彼は)その王政を保つだろう
太陽が残しておかれた日々を受け取るだろう時
その時(彼は)私の予言を実現させ終わらせる
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11935205567.html

「月」は「イスラム教」とか「反キリスト」とか解釈してきたが、「太陽」を男性・キリスト(聖書に「主」を「義の太陽」と表現する場所がある)と解釈すると「月」は女性・キリストを支えるものとも解釈できる。http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11937042665.html
そう考えると、20年かけて「キリストが再臨」出来る環境を「月」が整えるではないだろうか。
そうでなければ、「ペテロの第二の手紙」第3章の「終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう」というような状況には絶対にならないだろう。(現在の延長では。)
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11620565256.html

あまり関係ないが、「ほふられた小羊」と「イエス・キリスト」は別人の可能性が高い。その根拠の一つは、終わりの時に「小羊の婚姻」というのがあるがイエス・キリストはどうやら既婚者らしいからだ。
http://www.y-asakawa.com/Message2012-2/12-message92.htm
http://ameblo.jp/hitorinomeaki/entry-11701332507.html

おまけ