1)ファンタジー:テキスト紹介
http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10137108250.html
2)ファンタジーの定義について:心界の表現:イギリス・ファンタジーとケルト的精神
http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10189013846.html
3)ファンタジーへの視点:近代合理主義と想像世界と境界=Media:《風》を例にとって
http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10059642154.html
4)シェイクスピアと『夏の夜の夢』の粗筋
http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10137219774.html
鑑賞したDVD:以下、amazon.comから
追記:上記の2と3で述べられていることは、不整合である。何故なら、2では、ファンタジーとは心界(心の世界)の表現であると言い、3では、それは近代合理主義と想像世界(つまり、心界)との境界における表現であると述べているからである。これは定義に関わるので、重大な矛盾・齟齬であると言えよう。 端的に、どちらが正しいのか。それとも、別の考え方が正しいのか。
思うに、2と3は言葉上矛盾しているが、実質はそれほど異なってはいないと考えられる。つまり、2で述べられている心界と3における想像世界(心界)を同じものと捉える必要はないのである。2の心界とは、3における境界を含んだものとして、捉えることができるからである。
だから、想像世界=心界というのは、間違いなので、訂正して、想像世界≠心界とする。
結局、心界の方が想像世界よりも包括的な概念なのであり、心界とは、近代的世界と想像世界との境界の領域であると見るのが適切であることになる。言い換えると、心界とは、一方では、近代的世界を見ているのであり、他方では、想像世界を見ているのである。つまり、両面(ヤヌス)的なのである。
心界を哲学的に言い換えると、超越的主観性の世界と言うべきと考えられる。(ここで、超越論的主観性と言うと、フッサール現象学の用語となるが、少し、違いを説明する必要がある。ファンタジーの心界は、超越性を含むと見る方が適切である。もし、超越論性にすると、それは確かに、超越性を含むが、例えば、構造的な超越性という意味にも取られるのであり、そうすると、構造主義と受け取られる可能性がある。しかし、ファンタジーの心界とは、構造を越えた超越性をもつと見るのが、正しいと考える。この点の証明は長くなるので、今は指摘するに留める。)だから、プラトンのイデア論に近い発想をもっていると考えられるのである。これは極めて重要であると思うが、この点の解説はまた詳述が必要なので、ここでは控える。
とまれ、以上からファンタジーの定義とは、近代的世界と想像世界の境界の世界である心界、即ち、超越的主観性の世界の表現であるということになる。超越的主観性の世界とは、近代的世界を包摂する世界であるから、境界をもちつも、近代的世界を超越した世界であるということがより正確であると言える。
http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10137108250.html
2)ファンタジーの定義について:心界の表現:イギリス・ファンタジーとケルト的精神
http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10189013846.html
3)ファンタジーへの視点:近代合理主義と想像世界と境界=Media:《風》を例にとって
http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10059642154.html
4)シェイクスピアと『夏の夜の夢』の粗筋
http://ameblo.jp/gaikokubungaku/entry-10137219774.html
鑑賞したDVD:以下、amazon.comから
真夏の夜の夢 [DVD]
出演: ルパート・エベレット
, キャリスタ・フロックハート
監督: マイケル・ホフマン
内容紹介
ミシェル・ファイファー、ソフィー・マルソー、キャリスタ・フロックハート、ケビン・クライン他、豪華キャストのアンサンブルで華麗に彩られた、シェークスピア原作の不滅のロマンティック・コメディ!
<キャスト&スタッフ>
オベロン…ルパート・エベレット(森田順平)
ヘレナ…キャリスタ・フロックハート(石塚理恵)
ニック・ボトム…ケビン・クライン(安原義人)
ヒポリタ…ソフィー・マルソー(山崎美貴)
タイターニア…ミシェル・ファイファー(高島雅羅)
パック…スタンリー・トゥッチ(牛山 茂)
監督・脚本:マイケル・ホフマン
製作総指揮:アーノン・ミルチャン
原作:ウィリアム・シェイクスピア
撮影:オリバー・ステイプルトン
音楽:サイモン・ボスウェル
●字幕翻訳:松浦美奈 ●吹替翻訳:武満真樹
<ストーリー>
舞 台はイタリア、トスカーナ地方。親に結婚を反対されて森に駆け落ちした恋人同士と、その二人を追いかける男女。そんな4人を見かけたのは森に棲む妖精の王 オベロンだ。愛し合う2組のカップルを誕生させようと魔法がかかった愛の媚薬を手に入れたまではいいが、お供の妖精パックが使い方を間違えたために、予定 外のカップルが誕生してしまい、人間と妖精が入り乱れた“一夜の恋の空騒ぎ”が幕を開けることに──!
<ポイント>
●封入特典:特製フォトカード
● 永遠のストーリー・テラー、シェイクスピアの戯曲の中でも最も親しまれ、何度となく演じられてきた「真夏の夜の夢」をオールスター・キャストで華麗に映画 化。ミシェル・ファイファー、キャリスタ・フロックハート、ソフィー・マルソーなど豪華女優陣の役どころも興味深い一本だ。
●恋人たちを迷わせる
秘密の目薬、妖精たちの恋の鞘当て、間違いから生まれた本当のロマンス…。イタズラなスピリットが愛の世界をひっかきまわし、華麗な夢を作り上げ、マジカルでファンタステックな物語を展開させている。
内容(「キネマ旬報社」データベースより)
シェイクスピアの戯曲をミシェル・ファイファー、ソフィー・マルソーほか豪華キャスト共演で映画化。舞台はトスカーナ地方。妖精・パックの手違いで、人間と妖精が入り乱れる一夜の恋騒動が起こる。“ミニシアター特選”。
内容紹介
ミシェル・ファイファー、ソフィー・マルソー、キャリスタ・フロックハート、ケビン・クライン他、豪華キャストのアンサンブルで華麗に彩られた、シェークスピア原作の不滅のロマンティック・コメディ!
<キャスト&スタッフ>
オベロン…ルパート・エベレット(森田順平)
ヘレナ…キャリスタ・フロックハート(石塚理恵)
ニック・ボトム…ケビン・クライン(安原義人)
ヒポリタ…ソフィー・マルソー(山崎美貴)
タイターニア…ミシェル・ファイファー(高島雅羅)
パック…スタンリー・トゥッチ(牛山 茂)
監督・脚本:マイケル・ホフマン
製作総指揮:アーノン・ミルチャン
原作:ウィリアム・シェイクスピア
撮影:オリバー・ステイプルトン
音楽:サイモン・ボスウェル
●字幕翻訳:松浦美奈 ●吹替翻訳:武満真樹
<ストーリー>
舞 台はイタリア、トスカーナ地方。親に結婚を反対されて森に駆け落ちした恋人同士と、その二人を追いかける男女。そんな4人を見かけたのは森に棲む妖精の王 オベロンだ。愛し合う2組のカップルを誕生させようと魔法がかかった愛の媚薬を手に入れたまではいいが、お供の妖精パックが使い方を間違えたために、予定 外のカップルが誕生してしまい、人間と妖精が入り乱れた“一夜の恋の空騒ぎ”が幕を開けることに──!
<ポイント>
●封入特典:特製フォトカード
● 永遠のストーリー・テラー、シェイクスピアの戯曲の中でも最も親しまれ、何度となく演じられてきた「真夏の夜の夢」をオールスター・キャストで華麗に映画 化。ミシェル・ファイファー、キャリスタ・フロックハート、ソフィー・マルソーなど豪華女優陣の役どころも興味深い一本だ。
●恋人たちを迷わせる
秘密の目薬、妖精たちの恋の鞘当て、間違いから生まれた本当のロマンス…。イタズラなスピリットが愛の世界をひっかきまわし、華麗な夢を作り上げ、マジカルでファンタステックな物語を展開させている。
内容(「キネマ旬報社」データベースより)
シェイクスピアの戯曲をミシェル・ファイファー、ソフィー・マルソーほか豪華キャスト共演で映画化。舞台はトスカーナ地方。妖精・パックの手違いで、人間と妖精が入り乱れる一夜の恋騒動が起こる。“ミニシアター特選”。
追記:上記の2と3で述べられていることは、不整合である。何故なら、2では、ファンタジーとは心界(心の世界)の表現であると言い、3では、それは近代合理主義と想像世界(つまり、心界)との境界における表現であると述べているからである。これは定義に関わるので、重大な矛盾・齟齬であると言えよう。 端的に、どちらが正しいのか。それとも、別の考え方が正しいのか。
思うに、2と3は言葉上矛盾しているが、実質はそれほど異なってはいないと考えられる。つまり、2で述べられている心界と3における想像世界(心界)を同じものと捉える必要はないのである。2の心界とは、3における境界を含んだものとして、捉えることができるからである。
だから、想像世界=心界というのは、間違いなので、訂正して、想像世界≠心界とする。
結局、心界の方が想像世界よりも包括的な概念なのであり、心界とは、近代的世界と想像世界との境界の領域であると見るのが適切であることになる。言い換えると、心界とは、一方では、近代的世界を見ているのであり、他方では、想像世界を見ているのである。つまり、両面(ヤヌス)的なのである。
心界を哲学的に言い換えると、超越的主観性の世界と言うべきと考えられる。(ここで、超越論的主観性と言うと、フッサール現象学の用語となるが、少し、違いを説明する必要がある。ファンタジーの心界は、超越性を含むと見る方が適切である。もし、超越論性にすると、それは確かに、超越性を含むが、例えば、構造的な超越性という意味にも取られるのであり、そうすると、構造主義と受け取られる可能性がある。しかし、ファンタジーの心界とは、構造を越えた超越性をもつと見るのが、正しいと考える。この点の証明は長くなるので、今は指摘するに留める。)だから、プラトンのイデア論に近い発想をもっていると考えられるのである。これは極めて重要であると思うが、この点の解説はまた詳述が必要なので、ここでは控える。
とまれ、以上からファンタジーの定義とは、近代的世界と想像世界の境界の世界である心界、即ち、超越的主観性の世界の表現であるということになる。超越的主観性の世界とは、近代的世界を包摂する世界であるから、境界をもちつも、近代的世界を超越した世界であるということがより正確であると言える。