ここはどこだろう。ここに私はずっといたい。外へは出たくない。でも、いったいここはどこなのか。

これから、まったく無構想で、思いつくまま、小説を書いてみたい。おそらく、続かない可能性が高いが。

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久しぶりに投稿。
思うに、文学や芸術は、生活の余裕が必要である。今日のように、生存のために、日々切迫された状態では、文学や芸術を味わったり、創作することがきわめて困難である。
しかしながら、逆に言うと、根源的な文学や芸術が必要とされていると言えよう。

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    塔の上のラプンツェル | ディズニー映画


    ラプンツェル - Wikipedia


    ラプンツェルRapunzel)は、グリム童話 (Die Kinder und Hausmärchen)に収録されている作品(KHM 12)。髪長姫と訳されることもある。


    塔のラプンツェルを発見する王子

    注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分 が明かされています。免責事項 もお読みください。


    グリム兄弟が童話集から性的な要素を省いた例としてよくあげられるストーリー。

    初版では主人公が夜ごと王子を部屋に招き入れて逢瀬を重ね、結果として妊娠。それがばれてしまったため放逐されたプロセスを詳細に書いているが、後 の版では逢瀬シーンが最小限に、さらに性行為の暗示は全てカットされ、放逐の理由も外部の人間である王子を招き入れ、恋仲にまでなっていることをうっかり 言ってしまったためとされ、後に自分が生んだ子供と暮らしている描写が挿入されることにより「妊娠」が発覚、という版に改変された。

    ラプンツェルは「ちしゃ」と訳されることがあるが、本来はキク科のレタス (ちしゃ)ではない。ラプンツェルと呼ばれる野菜はオミナエシ科ノヂシャキキョウ科Campanula rapunculus など複数存在する。妊婦が食べるのによいとされる植物である。

    あらすじ [編集 ]

    あるところに夫婦がいた。長年子供がなかった2人だが、ある時やっと子供を授かる。妊娠した妻は隣に住む魔女の庭のラプンツェルを食 べたくてたまらなくなる。食が細ってやつれた妻に「ラプンツェルが食べられなければ死んでしまう」と懇願された夫は、妻と生まれる子のために魔女の敷地に 忍び込むとラプンツェルを摘み取りにかかるが、魔女に見つかってしまう。しかし夫から事情を聞いた魔女は、好きなだけラプンツェルを摘んでもいいが、子供 が生まれたら自分に渡せと言う。

    やがて妻が生んだ女の子は、即座に魔女に連れて行かれる。ラプンツェルと名付けられた娘は、森の中に築かれた入り口のない高い塔に閉じ込められる。魔女はラプンツェルの見事な長い金髪をはしご代わりに、窓から出入りしていた。 そんなある日、森の中を歩いていた王子が美しい歌声に引かれ、塔の中に閉じこめられたラプンツェルを発見。魔女と同じ方法を使って塔に登る。はじめて男性との性交渉を知ったラプンツェルは驚くが、やがて愛し合い、魔女に隠れて夜ごと王子を部屋に招き入れて頻回に性交渉を行う。その結果ラプンツェルは妊娠する。

    その事実を知って激怒した魔女はラプンツェルの髪を切り落とし、荒野へと放逐する。 一方、何も知らずラプンツェルを訪ねてきた王子は待ち受けていた魔女から罵られる中で全ての顛末を知って絶望し、塔から身を投げて失明する。

    7年後、盲目のまま森をさまよっていた王子は、男女の双子と暮らしているラプンツェルとめぐり会う。うれし泣きするラプンツェルの涙が王子の目に落ち、王子は視力を回復する。王子はラプンツェルと子供たちを伴って国に帰り、皆で幸せに暮らす。

    映画 [編集 ]

    ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ が、ディズニープリンセス 映画の新作として、本作を題材にした『塔の上のラプンツェル 』を2010年冬にアメリカ合衆国 で公開した。当初は原作と同じく『ラプンツェル』(Rapunzel)という題だったが、商業的戦略のため『タングルド』(Tangled)に変更された。

    作品はアニメーション映画史上第3位の興行収入を記録するヒット作となり、第84回アカデミー賞 の歌曲賞にノミネート。

    外部リンク [編集 ]



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    D. H. ロレンスの思考は複雑怪奇である。
    王冠哲学で、光(一角獣、「子[キリスト]」)と闇(獅子、「父」)との闘争を描き、その超克として、王冠=「聖霊」を説くのである。
    「父」=闇は母権的自己と見ていいだろうが、「子」=光が難しいのである。思うに、それは、近代的自我における「愛」、自己同一性的「愛」のように思える。それは、他者を同一性化しているであり、押し付けの「愛」になると考えられる。ロレンスが批判するキリスト教的「愛」の精神はそのようなものと思われる。
    つまり、近代西欧において、キリスト教的精神は、自我、同一性自己を介した「愛」の精神になったということである。
    本来ならば、他者は差異であるが、それが、自我、同一性自己を介しているために、他者が同一性化されているのであり、そのために、「他者」への「愛」が押し付け(暴力)になっているのである。
    もっとも、ロレンスは非自己の精神としてのキリスト教的精神を捉えているが、それは、間違っているのではないだろうか。非自己ではなく、自我化した精神だと思う。
    ロレンスは近代キリスト教的精神の発現が科学や機械と見ているが、そのように見る為には、やはり、自我化した、同一性化した「愛」が必要であろう。何故なら、自我のもつ同一性精神こそが、物質を認識するからである。
    だから、ロレンスのキリスト教認識は誤りであると見ることが可能である。
    しかし、近代西欧におけるキリスト教は確かに、ロレンスのように見ることはある意味で正しい。何故なら、近代西欧は、デカルト哲学でわかるように、自我化しているからである。つまり、近代的自我が形成されたからである。その自我における「愛」の精神なので、当然、本来の、差異的な他者への「愛」ではなく、同一性化された他者への「愛」であり、押し付けになるのである。
    では、問題は、ロレンスが何故、近代西欧におけるキリスト教精神を非自己的と呼んだのかである。いわば、自我的な「愛」をどうして、非自己的と考えたのか。
    そう、同一性的な「愛」とは、どういうものなのか分析してみよう。
    思うにそれは一種の情感、ないし、感情であるのは確かであろう。また、意識化されているものであるから、単なる感情ではなく、やはり、自我意識が入るのである。
    本来、非自我(内的他者)主導ならば、自我意識、同一性意識は入らないと考えられる。
    しかしながら、もし、自我的要素が、まったく否定されると、それは、神秘主義になるだろう。反合理主義になるだろう。自我的要素は、いわば、ゼロになる必要がある。それは、自我的要素が抑制された様態と考えられる。
    近代西欧において、キリスト教精神は、非自我性を自我意識、同一性自己意識の下に取込んだものではないだろうか。本来は、自我意識を抑制して、非自我的精神を主導化すべきであると考えられる。
    では、自我意識、同一性自己意識の下にある非自我性、非自我的精神とはどのようなものであるのか。
    これは、単なる同一性主義とは異なる。何故なら、同一性主義は、非自我(内的他者、差異)を否定するからである。
    自我意識の下の非自我性とは、同一性形式の下における非自我性ということである。そう、それは、量的な非自我、同質的な非自我である。あるいは、同一性で覆われた非自我である。
    それは他者(内的他者)の自我化であり、自己所有化である。そう、「愛」ではなく、他者所有性である。ある意味で狡猾な、他者支配形式である。
    意識では非自我的であるが、実際は同一性自己、自我的なのである。
    だから、ロレンスが近代キリスト教精神を非自己的と呼ぶの間違いであるということになろう。
    しかしながら、複雑なのは、ロレンスは自己を無意識的なものと捉えていたことである。ロレンスの無意識は、自我と非自我の極性が
    あるのである。
    だから、無意識の自己に対して、自我意識に下の同一性化された非自我的精神が非自己と呼ばれるのは、ロレンスの論理では整合的である。
    これで謎が解けた。
    ロレンスが近代西欧的キリスト教的「愛」の精神を否定するのは、以上のような意味からである。実は、それは、本来のキリストの「愛」の精神ではないと言えよう。
    しかしながら、本質的な問題は、近代における同一性の支配である。それが、キリストの「愛」をいわば偏向させているのである。
    とまれ、ロレンスの混乱、錯誤は、リーダーシップ小説期において、ロレンスの無意識のもつ自己、父権的自己主義が支配的になって、母権・女性原理に対して、否定的、攻撃的になったことである。
    実は、ロレンスの無意識は、深層が母権・女性原理であり、表層が父権・男性原理であり、自己矛盾的なのである。
    そして、リーダーシップ小説期において、両者が危機的に分裂化して、また、激突していると考えられる。しかし、優位になっているのは、表層の父権・男性原理である。
    ロレンスの攻撃目標である近代キリスト教精神であるが、それが、ロレンスにおいて、また、聖母崇拝あるいは、マグナ・マーテル支配と結びつけられている。つまり、近代キリスト教精神と女性・母権原理が結びつけられているのである。
    ロレンスの混乱、錯誤の一つの大きなポイントはここにあるだろう。
    つまり、ロレンスにとり否定すべきは、近代キリスト教精神であるが、それが、女性・母権原理と結びつけられているのである。そのために、ロレンスの意識においては、女性・母権原理を否定するように志向したのである。
    しかしながら、上述したようにロレンスの無意識の自己とは、深層が女性・母権原理であり、表層が男性・父権原理なのであるから、女性・母権原理の否定とは、自己自身の否定となるのである。
    結局、本質的には、ロレンスの無意識の自己矛盾が問題である。それは、私見では、本来は母権的自己なのである。それが、表層化すると父権化するのである。つまり、母権的自己とは母権と父権の矛盾をもつ自己様態と考えられるのである。
    ジュディス・ルーダーマンは、前エディプス期の「貪り食らう母」の概念でロレンスの父権主義を説明しているが、前エディプス期とは、母権的自己様態と考えられる。これは母権原理と父権原理の連続体ないしは未分化様態であり、超克されるべきものである。
    実際は、ロレンスは最晩年の『逃げた雄鶏(死んだ男)』において、両者を絶対的に区別して、両者の共立を表現したのである。
    今はここで留める。


    思うに、文学は確かに衰退している。また、読みたい文学作品は古典であり、近年のものではない。
    私はD. H. ロレンスに言及するが、彼の作品はきわめて映像的である。作品世界が目の前に彷彿と浮ぶのである。
    また、彼は若い頃、模写したり、風景画を描いていたし、晩年は絵画制作を突如行なった。
    そのようなことを考えて、彼の文学、言語作品を言語アートと呼ぶのがいいのではないかと思った次第である。彼自身は文学をspeech art(いわば、発話アート)と呼んでいたのである。(それは彼自身の文学によくあてはまる。何故なら、会話が多いし、また、彼の文体が口語的であるからである。)
    そして、それを一般化して、文学自体を言語アートと捉え直した方がいいのではないかと思うのである。そのように理解することで、「文学」が生まれ変わるのではないだろうか。
    思うに、神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、神話のイメージ性を説いていた。だから、神話も言語アートに当然入るだろう。
    そうすると、逆に、アート(芸術)の領域が拡大し、アート自体も生まれ変わるだろう。
    では、言語アートを包括したアート(芸術)とは何か。端的に、それは、知的アートということである。単に感性だけではない、そう、認識的アートということである。あるいは、哲学的アートということである。
    後で更に検討したい。

    Alice>THE NURSERYALICE”/おとぎの“アリス”/子供部屋のアリス



    The Nursery "Alice"

    From Wikipedia, the free encyclopedia
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    The Nursery “Alice”  
    Nursery-alice-1890.png
    First edition cover of The Nursery “Alice”
    Author(s) Lewis Carroll
    Cover artist E. Gertrude Thomson
    Country United Kingdom
    Language English
    Genre(s) Fantasy novel
    Publisher Macmillan
    Publication date 1890
    Media type Print (Hardback )
    Pages 312 p.
    ISBN NA

    The Nursery "Alice" is a shortened version of Lewis Carroll 's, alias Charles Lutwidge Dodgson, Alice's Adventures in Wonderland , adapted by the author himself for children "from nought to five" with twenty of Tenniel 's illustrations from the original book coloured and enlarged.

    It was first published in 1890 by Macmillan , 25 years after the original Alice, and featured a new cover illustrated by E. Gertrude Thomson , who was a good friend of Dodgson.

    [edit ] External links


    学生の頃、よく読んだ(読もうとした)。原詩といっしょに読むといい。再読するとまた当時とは違う読みに当然なるだろう。

    荒地
    T.S.エリオット 作
    岩崎 宗治 訳
    ■赤258-2
    ■体裁=文庫判・並製・カバー・324頁
    ■定価 882円(本体 840円 + 税5%)
    ■2010年8月19日
    ■ISBN978-4-00-322582-0

    「四月は最も残酷な月……」と鮮烈な言葉で始まる『荒地』は,20世紀モダニズム詩の金字塔である.本書には,『プルーフロックその他の観察』から『荒 地』までのT.S.エリオット(1888-1965)の主要な詩を収録し,その前期の詩作の歩みをたどれるようにした.難解な詩を味読できるよう詳細な訳 注を付した文庫決定版.

    荒地/ T.S.エリオット

    荒地 - Wikipedia

    亰雜物的野乘: T・S・エリオット『荒地』(岩崎宗治訳,岩波文庫


    外国文学(イギリス文学他)

    The Waste Land and Other Poems (Penguin Classics) [ペーパーバック]
    T. S. Eliot (著), Frank Kermode (編集)

    Peter Porter 1929-2010

    peter porter Australian-born poet whose moving, elegiac work was seen as among Britain's finest