ちょこっと関西歴史たび 興福寺 中金堂工事現場公開 ─ 平成27年9月19日 ─ | タクヤNote

タクヤNote

元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

シルバーウィークの奈良入りは興福寺でした。今回のお目当てはJR西日本キャンペーンの『ちょこっと関西歴史たび』の特別公開です。

過去にはこのキャンペーンとしては、昨年(2014年)2月16日に、法隆寺上御堂特別公開に行ったことがあります。その時のことも2014年2月25日のブログ記事に書きましたが、今回の興福寺はちょこっと関西歴史たびの二回目となります。

 

今回は興福寺でのちょこっと関西歴史たびでは3つの特別企画が行われています。https://www.westjr.co.jp/press/article/2015/05/page_7159.html

 

 1. 国宝 北円堂 特別公開

 2. 特別法話と国宝 北円堂 特別案内

 3. 中金堂再建工事現場現場特別見学

 

 

なぜだかポスターは、今回の特別公開とは無関係の阿修羅像が飾っております。

興福寺に行ったのは9月19日(土)で、その時はこの3つの中から、北円堂特別公開と、中金堂再建工事現場特別見学に行って来ました。この記事ではそれを紹介したいと思います。

今回のちょこっと関西歴史たびの期間は7月1日からで、中金堂の特別見学も8月から始まっていました。本当のことを言うと8月~9月の前半くらいには行きたかったのですが、希望に反して特別見学期間も終わりに近づいたこの日となってしまいました。

今回の中金堂の見学は予約制となっていたのですが、その予約が殺到していたようなのです。6月くらいから予約の電話を入れたのですが、すでに8月前半の予約はいっぱい。今回もスケジュールの調整をしながら早めに電話をして、やっとこの日に予約が取れたという感じでありました。

こういうイベント企画は、本当は早めに行って「見学会はこんな様子でしたよ」と、まだ見学していない人に紹介するみたいな記事にしないといけないところだったのですが、結果的に記事のアップが遅くになってしまったのでありました。

 

見学開始時間は午後2時からということで、少し早目の1時半に興福寺に着きました。中金堂の見学はまず工事現場の東側に設けられている、プレハブの中金堂再建勧進所で受付をします。受付で名前と予約番号を名乗り、確認をしてもらいます。

 

 

勧進所では中金堂の御朱印も書かれておられたので、小生も戴いて来ました。中金堂の御朱印は二種類で、そのままの『中金堂』というものと、もうひとつは『令興福力』(りょうこうふくりき)というものです。
ちょっと珍しいと思ったので、ここでは『令興福力』の方を戴きました。

 

 

これは興福寺創建の藤原不比等が信仰していたという『維摩経』の第二章の方便品の中の一節で「福力を起こさしむ」というありがたい文言であります。

興福寺の寺号の語源とされ、祈念祈祷で国家鎮護をする興福寺というお寺の根本を言い得たこの文言を、興福寺では中金堂本尊の釈迦如来の宝印とされているということでした。

 

p>ご朱印も戴きまして、受付で聞きました集合時間の1時50分には中金堂の再建工事現場へ。

 

南大門、中金堂、講堂と境内中央を成す主要伽藍がことごとく失われていた興福寺は、今までは東西にぽつぽつと仏堂が建っているだけのガラーンとした様相となっていました。それが中金堂の再建となって、その境内の中央には中金堂を隠す覆屋があまりに大きく、興福寺全体を圧倒しているという状況となっているのです。

 

 

p>勧進所で教えていただいた再建工事現場の入口は、北円堂となりの西側ゲートで、集合時間の1時50分には既に多くの見学希望者が集まっていました。

 

 

 

ゲートの中でまず迎えて戴いたのは、学芸員の女性と興福寺の僧侶の方。多川と名乗られていたので、おそらく多川俊映貫主のご子息の方ではと思います。

 

 

しかし、今回の西金堂再建現場特別見学の主な現地説明をされたのは、後からご挨拶をされた、実際に西金堂再建工事を行った奈良の宮大工の会社、『瀧川寺社建築』の宮大工のこの方でした。この時の参加者に、腰に付けた拡声器で説明をされていました。

 

 

こうして見学者はいよいよ再建工事現場へ。50人の参加者が2人くらいがやっと通れるほどの狭く急な作業用スロープで登るので、高齢者の方も多かったのでかなり難儀される様子も見られました。

いよいよ特別見学となるのですが、小生にとってここで思っていなかったことが。

 

 

今回の再建工事現場特別見学では、一部の撮影ポイントを除いては撮影禁止となっていたのです。

正直、今回の特別見学では写真撮影は出来ると踏んで参加をしておりました。なぜかと言うと、今年、興福寺西金堂再建工事現場公開が企画されるのはこれが二度目でして、一回目は春、4月6日~19日の二週間行われていたのです。

小生はこの時には行かなかったのですが、でも知人などがこの特別公開に出向かれていて、その多くがブログで再建現場の写真を載せていたのです。それを見ていたので、小生は今回も写真撮影出来るだろうと踏んでいたのであります。

 

ということで、現場ではほとんど写真を撮ることが出来ませんでした。やもうえないので、こちらのブログでは4月の特別見学に行かれた、同じアメーバブロガーで小生も読者とさせていただいております、盧舎那仏さんの『奈良、好きなブログ』の4月13日のブログ記事、レインボーパパさん『ナラんちゅレインボーパパのゴーリキ招来!』の5月8日のブログ記事から、画像も合わせて引用させていただきます。

http://ameblo.jp/naralover/entry-12013273597.html(盧舎那仏さんブログ、4月13日記事)

http://ameblo.jp/nara-ongeki5191551552/entry-12015682103.html(レインボーパパさんブログ、5月8日記事)

 

今回、画像引用を快諾していただいた、盧舎那仏さん、レインボーパパさんありがとうございました。

 

見学者はまず、スロープを登ります。覆屋の中には三層鉄パイプに渡された木板のデッキへ。現地説明をされていた宮大工さんの会社、瀧川寺社建築は平城宮跡大極殿再建や、東大寺三月堂(法華堂)修復工事などにも携わっている所です。

 

中金堂は建物としては平屋建築ではありますが、その外観は二階建ての様になっています。勧進所に置いてありました完成模型の写真(小生撮影)で中金堂の外観を紹介しますと…

 

 

 

二層になっている屋根の一階屋根のように見えるのは『裳階』(もこし)と呼ばれる飾り屋根です。再建工事現場の足場は、この裳階部分と上の大屋根の部分にそれぞれ木板デッキが設けられていました。

見学者がまず案内されたのは、この裳階の高さに設けられた二層目デッキでした。私たちが立ったデッキ床はこの、裳階の軒がひざ下の高さくらいという高さに設けられていました。まず、今年4月の時点での裳階の様子を、盧舎那仏さんのブログから画像を引用します。

 


盧舎那仏さん『奈良、好きなブログ』より

 

この時には裳階には瓦が葺かれておらず、下地のコケラ葺きの状態だったのですね。それから5か月、小生が見学した時には、ほぼ瓦葺きが終わっていました。4月の写真では茶色だった裳階は、9月には一面がグレーの瓦で埋め尽くされていて、発掘調査で見つかった天平の軒丸瓦や、軒平瓦も見事に復元され、軒先を飾っていました。覆屋が外されれば、この瓦も太陽の光を浴びて銀色に光り輝くことでしょう。

 

 

 


中金堂 軒瓦(画像上、軒丸瓦 画像下、軒平瓦)
興福寺国宝展(平成17年 大阪市立美術館) 図録より

 

この二層デッキ床からは裳階だけではなく、その上の大屋根を支える壁も見えていました。こちらはレインボーパパさんのブログから画像を引用しますが、この写真に見える一部白いしっくいの塗られていない壁は、小生が行った時も同様に土色のままになっていました。

 


レインボーパパさんブログ『ナラんちゅレインボーパパのゴーリキ招来!!』より

 

上の画像では、裳階の壁寄りの所に白木の角材のようなものが立っていますが、小生が再建工事現場を見学した時にも、瓦の上に同じように白木の建材がまるで目印のようにこの場所にありました。説明によると、この場所に『高欄』…つまり、バルコニーのような手すりが造られることになっているのだそうです。瓦はすでに葺き終えられていましたが、高欄はまだ造り出されていませんでした。

 

 

バルコニーの手すりと言っても、実際にここに人が登るような構造にはなっていないので、実用的な意味は無い装飾となるそうです。しかし江戸時代に描かれた、室町時代の中金堂の地割図などの記録にも、高欄に関する記述が見受けられるところから、今回の再建にも高欄が設けられることになったそうです。

そして、その上には大屋根を支える構造物が。和様の柱の上には肘木と斗が組み合わせた“手先”が三重に重ねられた『三手先』が(大仏様建築では柱の横に差し込まれていますが、和様式では柱の上に組み物が乗っています)。さらにその上に乗っている、屋根の下を斜め下に長く伸びている工材が『垂木』です。

 

 

レインボーパパさんブログ『ナラんちゅレインボーパパのゴーリキ招来!!』より

 

これらの構造は江戸時代中期、享保2(1717)年に焼失した、室町時代に建てられた先代の中金堂を元に設計されました。先代の中金堂は焼失しましたが、しかし江戸時代前期、延宝3(1675)年に室町時代の中金堂の詳細な測量図面である『興福寺建築諸図 金堂地割』という図面が残されているのです。現在は東京国立博物館の所蔵となっているこの図面が、今回の中金堂再建の一番の資料となりました。

 

興福寺建築諸図 金堂地割  興福寺国宝展(平成17年 大阪市立美術館) 図録より

 

しかし、この図面を見ると、奈良時代の建物とは違う、中世以後の建築様式が明らかに覗えます。今回の中金堂は創建期の建物の再建を目的としているので、室町時代の建築様式は出来る限り奈良時代の様式に変更されました。

図面によると三手先の上にはさらに垂木が三重に重ねられて屋根は高くなり、屋根の勾配も大きくなっています。今回の再建では垂木は一本で、大屋根の勾配もゆるやかなものに。屋根の高い中世以後の様式から、おおらかな雰囲気の天平様式に直されました。

奈良県内には奈良時代に建てられたという建築物が数多くありますが、そのすべては後世の修復や改修が行われており、それぞれの時代の建築様式がどうしても色濃く反映されているのです。

奈良時代に建てられて以来、当時の建築が全く手つかずで残されている遺構を参考にしないと、奈良時代の建物の忠実な再建は出来ません。奈良時代に造られたまま、まったく修復無しで現在に伝えられている遺構。そんな条件に白羽の矢が立てられたのが、元興寺の五重小塔でした。

興福寺の中金堂は東京博物館が所蔵する実測図を元に、元興寺の五重小塔を参考に修正されて設計されたのです。

 

五重小塔(東京国立博物館 日本国宝展図録より) 画像引用:http://ukiyobanare.com/?p=8361 

 

建築基準法では本来このような木造の大型建築物を新築することは出来ません。しかし同法の第三条四項には次のような歴史的建築物新築に対する免除条項があります。

 

四  第一号若しくは第二号に掲げる建築物又は保存建築物であつたものの原形を再現する建築物で、特定行政庁が建築審査会の同意を得てその原形の再現がやむを得ないと認めたもの

 

つまり、限界まで古建築を忠実に再現をしないと、法律上建てることすら出来ないということなのです。しかし、いくら歴史的建築物であっても、地震や風水にあまりに弱い建築物では、官庁の許可は下りません。実際に奈良時代の平城京に建てられた建物の多くが築後間もなく風雨で倒れたという記録もあり、奈良時代の建築は構造上決して強固とは言えなかったのです。

現地説明では、初層の壁と天井に古建築には無い修正が設計に加えられたとありました。初層は『連子』という風光を取り入れる窓に一面なっていますが、これでは建物を補強する壁が無いということになってしまいます。再建中金堂では、壁に連子を取り付けるという方法を取り、連子は装飾となって光や風は堂内に取り入れる役にはならないということに。

また、柱の上に横に渡され屋根を支える大梁は、江戸時代の地割図では大屋根の中に張られていましたが、これでは柱をつなぐ梁がほとんど無い、強度に問題のある構造となってしまいます。こんどの再建建築では、仏像が安置される天井のすぐ上、大屋根の下に室町時代の中金堂よりも太くて長い角材を、大梁として組まれることとなりました。裳階を前にされた二層デッキでの説明では、目の前の壁を指さして「この中に建物を支える大梁があります」と、説明をされていました。

 


再建 興福寺中金堂 断面図(現地見学会 プリントより)

 

 

桁行(横幅)36メートルもの巨大な仏堂は、幅44メートルの平城宮大極殿にも引けを取りません。屋根を間近に見ると、その威容は圧倒的でありました。二層目での説明が終わり、見学者の一行はさらに上の三層目へ。その前に今回の再建工事現場で、撮影の出来るポイントにも立ち寄りました。建築現場ではほとんどの場所での撮影は禁止。撮影出来たのは撮影ポイントとして特に設定された場所で、そこは再建建物と観るための場所というよりも、高い足場から興福寺境内を見下ろせる展望台という感じとなっていました。

 

 

東側には国宝の東金堂と五重塔を見下ろす風景が。見慣れているはずの東金堂と五重塔が、まるで可愛らしい模型のように見えてしまいます。
滅多に見ることの出来ない絶景と、多くの見学者が珍しそうに眺めたり、写真を撮ったりしていました。

 

 

そして、西側には北円堂や南円堂が。こちらもなかなか上から見下ろす俯瞰というのは、経験できない光景であります。

 

 

そして、説明会はいよいよ、大屋根が間近となる、最上部三層デッキへと移ります。またスロープを登ると、目の前には寄棟造りの大屋根が現れます。

 

レインボーパパさんブログ『ナラんちゅレインボーパパのゴーリキ招来!!』より

大屋根の瓦は、4月の特別公開の時には既に葺き終わっていたようです。小生が行きました9月の特別見学ではコケラ葺きであった裳階も、これと同様に全面瓦がしっかりと葺かれていました。もちろん、軒丸瓦と軒平瓦も、前に画像で紹介をしました発掘調査で見つかった奈良時代の瓦を忠実に再現されたものです。

 

盧舎那仏さん『奈良、好きなブログ』より

 

そして、特に目を奪われるが四隅の鬼瓦です。4月の段階では銅のバンドが棟瓦の上に巻かれているのが見えますが、小生が見学をした9月には、この銅製バンドの上にさらに長いリボンのような銅板が、鬼瓦から鴟尾までずっと渡らされていました。この銅製バンドは避雷針なのだそうです。

 

レインボーパパさんブログ『ナラんちゅレインボーパパのゴーリキ招来!!』より

 

この鬼瓦は、西金堂址から発掘された奈良時代の瓦を元に復元をされました。当初は元興寺五重塔の鬼瓦を忠実に再現しようと考えられていたそうですが、瓦職人から「あの葺き方をしたら、雨漏りがする」という指摘から修正がなされたそうです。現地説明では「奈良時代には、ここから雨漏りが落ちていた可能性もあります」と、ちょっと面白い説明もありました。

 

旧西金堂鬼瓦[奈良時代]  興福寺国宝展(平成17年 大阪市立美術館) 図録より

 

こちらで紹介をしましたレインボーパパさんのブログによると、4月の特別公開の時には、重量物を持ち上げるための天井クレーンがあったそうですが、小生が見たところではそのような機械は見当たりませんでした。おそらく重量物を機械で持ち上げるような作業も、もう終了していたということなのでしょう。

説明では建築の八割以上はもう既に終わっていて、現在は内部の細かい所の作業を残すところまで進んでいるというお話。これまでであれば、見学者もヘルメットを着用しないといけない状況であったのですが、ほとんど工事も終わっているということで、我々はヘルメットなどはかぶらずに見学することが出来ました。

 

そして、屋根の上を飾るのが鴟尾です。小生が見学した時も、この写真同様にうっすら透けているシートで覆い隠されていました。

 

盧舎那仏さん『奈良、好きなブログ』より

 

説明によると「落慶の時に華々しく除幕が行われますから、それまでに露骨に見せてしまったら有難みが無くなってしまう。でも完全に隠したら見学者もつまらないだろうから、うっすら見えるレースを掛けました」と見学者の笑いを誘う話がありました。

鴟尾は高さ約2メートル。鋳物で造られていて、そこにうるしが塗られ金箔が貼られているそうです。興福寺には奈良時代の鴟尾の遺構は見つかっておらず、どのような鴟尾がどのような工法で造られたのか一切不明。

唐招提寺の屋根を飾る奈良時代の鴟尾は高さ120センチメートルの瓦で、興福寺の鴟尾も同様の瓦であったとも考えられましたが、瓦職人によると今回の大きさの鴟尾を粘土で作ろうとしたら、重さで形が維持できず作るのは不可能という指摘があり、やもうえず鋳物で造られることになったそうです。この鴟尾は固定されているわけではなく、支え木が二本中に入っているだけで屋根の上に乗っているだけなのだそうです。

その他、使われてる寸尺が平安時代以後まったくミリ単位で変わっていないことを指摘され、世界でも千年間も寸尺の基準が変わらずに使われて来た日本以外に無く、日本の大工の技術を受け継ぐ精神の高さには驚かされるという話。

また、柱などの朱に使われている酸化鉄の顔料の“ベンガラ”が、このような伝統建築などのために製造していた会社が、採算が取れないと製造を辞めてしまったという話もされ、このような歴史的建築物を維持する技術継承が心配であるという話もされていました。

 

こうして説明も終了した後、見学者は自由に現場を見て回り、そして最後に最下層の仏像が安置される須弥壇の所へ見学に行きます。

ここで紹介しました、盧舎那仏さんのブログによりますと、4月の特別公開の時には須弥壇の所へは行くことが出来ず、遠くから見るしか無かったということでしたが、小生が今回行った特別見学では、基壇の上を通って、須弥壇の近くまで行って見ることが出来ました。

 

盧舎那仏さん『奈良、好きなブログ』より

 

近くで見て驚きましたが、この時の須弥壇はコンクリートの打ちっぱなしだったのです。限界まで古代の建築を忠実に再現するという話だったので、その信仰の対象である本尊を安置する場所がコンクリートで造られているのをみて「それっていいの?」なんて気持ちになってしまいましたが、耐震・耐火を考えるとやむを得ないことなのかと複雑な心境となりました。

そして、上を見上げると、足場パイプの間から格子の組天井も見ることが出来ました。ここにも落慶までに宝相華の模様が描かれるのでしょうか。

 

こうして、ほぼ1時間で西金堂の見学は終了です。見学者はこの後は特別公開中の北円堂の拝観というのが順路。小生はこれまでに何回も拝観をしているので、見ようかどうかと思案しましたが「ただで拝観できる機会だから、見ておこう」と拝観して帰ることにさせてもらいました。

 

こうして日本のミケランジェロと言われる慶派仏師・運慶による肖像彫刻の頂点、無著・世親立像をまた拝観させていただきました。北円堂および、安置されている諸尊については、2013年4月17日の記事をご参照ください。

北円堂の拝観はこれまでとほとんど変わったところはありませんでしたが、一つだけ違ったところがあるとすれば、北円堂院周囲の回廊跡の整備が進んでいたことでしょうか。

 

 

興福寺というのは奈良時代に創建された、奈良時代の歴史の上でも重要な寺院ではあります。しかし現在の興福寺には奈良時代の建物は一宇も残っておらず、特に鎌倉時代の仏像彫刻が有名ということもあって、奈良時代創建でありながら、奈良時代の雰囲気があまり感じられない場所であったと言えます。

しかし、今度再建される中金堂は、小生も間近で見ることとなりましたが、非常に天平様式を色濃く再現された建物でありました。あまり奈良時代の雰囲気を持っていない、東金堂や五重塔の横にこの大きな天平風の建物が建つとなると、興福寺のこれまでの雰囲気が大きく変わることになるだろうと予想されます。

これからは“奈良時代の興福寺”というイメージが強くなるかも知れません。

 

アクセスカウンター
コーヒーメーカー通販ホームベーカリー通販デジタルブック