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引用参照:仏教・法華経ノートetc→こちら


まず仏教の経典についてですが、お釈迦様の説かれお経の種類は膨大に有るのです。

※例えば、大乗経典の「般若心経」は真言宗で有名ですよね。


今回はその膨大な経典の中の大乗経典という枠組みの中から、特に法華経についてお話ししたいと思います。


【法華経とは何か?】大乗経典の一種
因みに法華経」とは略した呼び名で・・・
正式には「妙法蓮華経」といい二十八品(ぽん)から成り立っています。


【何故日蓮がこの経典をとても大事にしたか?】

因みに、法華経といえば日蓮宗が有名かと思うのですが、何故日蓮がこの経典を非常に重要視していたか以下の内容を見れば合点が行くと思うのです。


【答えはお釈迦様が特別な意識を持って居たお経だから】

釈尊は成道後、四十年余り色々なお経を説かれましたが、法華経を説かれる直前に無量義経で次のように宣言されました。


釈尊「悟りをひらいた仏陀として仏眼で一切の諸法をみると一言では言うことはできない。なぜかというと、人々の性質・欲望はそれぞれ不同である。性質・欲望が不同だから色々に方便をもって説き導いた。それゆえ四十余年いまだ真実を説いていない。」

法華経以外のお経は随他意のお経といって、相手の機根に合わせて説かれたお経です。


法華経のみが随自意のお経として、つまり釈尊のお悟りそのものを相手に合わせるのではなく、釈尊の御心のままに説かれました。


さらに法華経において

「世尊は法久しくして後、かならずまさに真実を説くべし。」

「正直に方便をすてて、ただ無上道を説く。」

「わが説くところの諸経、しかもこの経において法華最も第一なり。」………等、


つまり法華経は釈尊の悟りそのものであり、そこには最高の真理が説かれているわけです。



さて、この釈尊自身が自ら第一なりとおっしゃられた『法華経』ですが、この経は28の章(品)から成り立っていて

16章の「如来寿量品」が『法華経』の真髄とされています。


そこには、「法身の釈迦」について説かれています。「法身の釈迦」とは、人間の釈迦ではなく、時空のあらゆるところに存在し、真理(法華経)を説く釈迦のことです。


もう少し、わかりやすく言うと、過去未来、宇宙全体のいつでもどこにでも存在して、真理(法華経)を説く存在です。


それでは実際に16章の「如来寿量品」が『法華経』 訓読を見て行きましょう(*^^)v


 これは、仏教のお経なので、仏教に余り興味がなく難解に思われる方は下の方の【意訳】の所までスクロールして下さい。


漢字には意味が有ると思って居るので、そのまま載せているだけなので・・・・・




【妙法蓮華經如來壽量品第十六(法華経)】


自我得佛來 所經諸劫數 無量百千萬 憶載阿僧祇

じがとくぶつらい しょうきょうしょうこつしゅ むりょうひゃくせんまん おくさいあそぎ

常説法教化 無數億衆生 令入於佛道 爾來無量劫

じょうせつぽうきょうけ むしゅおくしゅじょう りょうにゅうおぶつどう にらいむりょうこう

爲度衆生故 方便現涅槃 而實不滅度 常住此説法

いどしゅじょうこ ほうべんげんねはん にじつふめつど じょうじゅうしせっぽう


我常住於此 以諸神通力 令顚倒衆生 雖近而不見

がじょうじゅうおし いしょじんつうりき りょうてんどうしゅじょう すいごんにふけん

衆見我滅度 廣供養舎利 咸皆懷戀慕 而生渇仰心

しゅけんがめつど こうくようしゃり げんかいえれんぼ にしょうかつごうしん

衆生既信伏 質直意柔輭 一心欲見佛 不自惜身命

しゅじょうきしんぶく しちじきいにゅうなん いっしんよくけんぶつ ふじしゃくしんみょう

時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅

じがぎゅうしゅそう くしゅつりょうじゅせん がじごしゅじょう じょうざいしふめつ

以方便力故 現有滅不滅 餘國有衆生 恭敬信樂者

いほうべんりきこ げんうめつふめつ よこくうしゅじょう くぎょうしんぎょうしゃ

我復於彼中 爲説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度

がぶおひちゅう いせつむじょうほう にょとうふもんし たんにがめつど

我見諸衆生 没在於苦海 故不爲現身 令其生渇仰

(がけんしょしゅじょう もつざいおくかい こふいげんしん りょうごしょうかつごう)

因其心戀慕 乃出爲説法 神通力如是 於阿僧祇劫

いんごしんれんぼ ないしゅついせっぽう じんつうりきにょぜ おあそうぎこう

常在靈鷲山 及餘諸住處 衆生見劫盡 大火所燒時

じょうざいりょうじゅせん ぎゅうよしょじゅうしょ しゅじょうけんこうじん だいかしょしょうじ

我此土安穩 天人常充滿 園林諸堂閣 種種寶莊嚴

がしどあんのん てんにんじょうじゅうまん おんりんしょどうかく しゅじゅほうしょうごん

寶樹多華果 衆生所遊樂 諸天擊天鼓 常作衆伎樂

ほうじゅたけか しゅじょうしょゆうらく しょてんきゃくてんく じょうさしゅぎがく

雨曼陀羅華 散佛及大衆 我淨土不毀 而衆見燒盡

うまんだらけ さんぶつぎゅうだいしゅ がじょうどふき にしゅけんしょうじん

憂怖諸苦惱 如是悉充滿 是諸罪衆生 以惡業因縁

うふしょくのう にょぜしつじゅうまん ぜしょざいしゅじょう いあくごういんねん

過阿僧祇劫 不聞三寶名 諸有修功德 柔和質直者

かあそうぎこう ふもんさんぽうみょう しょうしゅくどく にゅうわしちじきしゃ

則皆見我身 在此而説法 或時爲此衆 説佛壽無量

そくかいけんがしん ざいしにせっぽう わくじいししゅ せつぶつじゅむりょう

久乃見佛者 爲説佛難値 我智力如是 慧光照無量

くないけんぶつしゃ いせつふつなんち がちりきにょぜ えこうしょうむりょう

壽命無數劫 久修業所得 汝等有智者 勿於此生疑

じゅみょうむしゅこう くしゅごうしょとく にょとううちしゃ もっとししょうぎ

とうだんりょうようじん ぶつごじつぷこ にょいぜんほうべん いじおうしこ

當斷令永盡 佛語實不虚 如醫善方便 爲治狂子故


實在而言死 無能説虚妄 我亦爲世父 救諸苦患者

じつざいにごんし むのうせっこもう がやくいせぶ くしょくげんしゃ


爲凡夫転倒 實在而言滅 以常見我故 而生憍恣心

いぼんぶてんどう じつざいにごんめつ いじょうけんがこ にしょうきょうししん

放逸著五欲 堕於惡道中 我常知衆生 行道不行道

ほういつじゃくごよく だあくどうちゅう がじょうちしゅじょう ぎょうどうふぎょうどう

隨應所可度 爲説種種法 毎自作是念 以何令衆生

ずいおうしょかど いせつしゅじゅほう まいじさぜねん いがりょうしゅじょう

得入無上道 速成就佛身

とくにゅうむじょうどう そくじょうじゅぶっしん

~以上~




【意訳】

私(お釈迦様)が仏になってからというものは、数えきれないほどの永い永い歳月が経っている。(久遠実成の仏陀)


ずっと遠い昔より仏として法を説いてきた。そして無数億の数え切れないほどのたくさんの者を教化して仏道に入らしめた。そうしてその時以来無量劫である。


衆生に本当の感化を与えたいが故に、方便で涅槃を現じた。しかし、実には滅してはおらず、常にこの娑婆世界でずっと法を説き続けているのである。


私(お釈迦様)は今も常に娑婆世界に居るけれども、諸々の神通力で、心がひっくり返った(自己を中心に物事を見る)衆生には仏が近くに居ても私が見えないようにしている。


しかし、私(お釈迦様)が居なくなってみると、仏の慈悲の広大であったことを思い出し、私に恋慕の心を抱いて逢いたいという心が起きる。そこで仏骨を集めてそれに供養する。


そして教えを思い出しその教えによって信伏するようになり、心も柔軟で素直になると、一心に仏と同じ境界になりたいと身命をも惜しまないという決心がつく。


そういう人たちのためには、私(お釈迦様)は弟子とともに現れて、私は常にここに居ると語る。


私(お釈迦様)がいつでもこの世に居て、教えを説いていることがわかるのである。私は、時にはこういう者の為に仏の生命は限りないということを説くのである。


方便力によって、ある時は滅を現し、またある時は不滅を現すのである。また娑婆世界以外の場所でも誰かが仏を敬い、どうか教えを聴きたい、法を学びたいという者があれば、


私(お釈迦様)はまたそこにおもむいて無上の法を説くこともある。しかし君たちはこの法を聴くことなく、私が滅度したと思いこんでいる。


世間の人々を見ると、苦しみの海の中に沈んでいる。それで私(お釈迦様)は自分の姿を見せないで、仏の教えを得たいという渇仰の心を起こさせるのである。

(いつでも仏と逢っていると、いつでも教えを聴けると思い、なかなか一心に教えを求め、道を求めない。)


そうして、どうしても仏様に逢いたいと恋慕の心を起せば、すぐさま現れてその人の為に法を説くのである。仏の不思議な力はこの通りである。


実は阿僧祇劫という無限に永い年月の間、

私(お釈迦様)は娑婆世界及び他の国土に常に居て教えを与え、救いを与えているのである。

 

 この世の終りがきて壊れ果てる時代に入り、世界一面に火が起こって全てのものが焼き尽くされても、


この譬私の境界から見ればそのありのままが浄土であり、安穏な世界であり、常に天人で満ちあふれ、美しい花園の中の御殿は、皆種々の宝をもって飾っていて、


宝の樹木は華や実をいっぱいにつけた、衆生が楽しく遊ぶところである。天人たちは天の鼓を打っていろいろの音楽を奏し、


美しい白蓮の華を雨のように降らせて、仏や大勢の人々の上にふりかける。このような私の浄土は壊れないのであるが、大勢の人びとは焼け尽きて、 色々な憂いや怖れが充満した世の中であると見ている。


無明の人びとはその無明ゆえ悪業の因縁によって、

無限に永い歳月を経ても三宝の名も聞くことがない。


諸々の功徳を修して、心が柔和で素直な者は、



しかし、久しい時を経てやっと仏にまみえることができた人に対しては、仏に逢って仏の教えを聴くということはいかに難しいかを説く。私(お釈迦様)の智慧はこのように自由自在である。


私の智慧の光が無限に照り輝き私の寿命が無数劫の永きにわたるのは、私が久しいあいだ善業を積んで得た結果にほかならない。


 真に智慧のある者はこれを疑ってはならない永遠に無明を尽きさせるべきである。仏である私(お釈迦様)の言葉は真実であって、決して偽りはない。


例えば優れた智慧をもった医師が、自分の子供が毒にあてられて気が狂い、父の与えた薬を飲もうとしないとき、それを治す為に方便をもってしばらく遠くへ旅行し、実際は生きているのだけれども、お前の父は死んだと言って、子供に親を慕う心持ちを起させて薬を飲む気にさせ、その薬が効いて子供の病気が治ればまた帰ってきて親子の対面をしたとする。


この場合は、誰も父なる医者を嘘つきとは言わないであろう。そのように仏は世の父であり、色々な方便を用いて教えを説くのであるが、それは一切衆生を救おうという心から出ているのである


凡夫の心は転倒しているから実在していても滅すと言って仏に逢いたいとの渇仰の心を起させるが、また絶えず仏の姿を見ていると、凡夫はいつでも逢えると思って、わがままで自分勝手な心を起して、真剣に道を求め、教えを求めるという心がなくなり


放逸となり、五欲に執着し、地獄・餓鬼・畜生の境界に堕ちてしまうのである。仏はいつでも衆生が道を行じているか、行じていないかを知ってその相手の力に応じて法を説く。


いつもいつも何とかして衆生を無上の仏の道に入らせて、仏の境界に到達させてあげようと念じているのである

~以上~




さて・・・・ここから言える事は何でしょうか・・・・?


【過去未来、宇宙全体のいつでもどこにでも存在して、真理(法華経)を説く存在】


が有ると釈尊が明言されている事になりますね・・・・


そんな馬鹿な・・・・?

って思いますか・・・・・?


私は実はこれを数々の体験により信じているんです。


私個人のお話しだと客観性がないと思われる方もいらっしゃる方もおいでになると思うので、とある伝説というか、記録に残された物を次に御紹介したいと思うのです。


次の回は『空海が死んだ後にも会う事が出来る人が実在した』というお話しです(*^^)v





続きは→番外編その⑮