- Analogies/Masha Qrella
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I translated some German and English articles about Masha Qrella.
Nowadays, I've got forgiveness from herself to translate the articles about Masha Qrella.
(マーシャ・クレラに関するドイツ語と英語の記事を翻訳します。最近、クレラさん自身から翻訳の承諾を得ました!(*^ワ^*) )
◎マーシャ・クレラ自身による自己紹介
(Eventful.com、2006年の秋ごろの投稿)
http://eventful.com/performers/masha-qrella-/P0-001-000034444-4
私はミーナやコントリーヴァといったバンドで1996年から演奏活動を始めました。
数枚のEPやLPを録音してリリースして、ヨーロッパを単独で、あるいはステレオラブ、サラリーマンやステレオ・トータルといったバンドと一緒にいっぱいツアーしました。
そして、2002年に初めてのソロ・アルバム「ラック」は2002年をリリースしました。ミーナやコントリーヴァはインストゥルメンタルバンドとして知られていたので、私を知っているひとたちにとっても、私にとっても、私が作詞・作曲をして歌を歌うのはちょっとサプライズだったようです。
たくさんの人々がそのアルバムを気に入ってくれて、本当に嬉しかったです。キャレキシコは、2002年のヨーロッパツアーのサポートアクトに私を選んでくれました。たくさんのお客さんの前で、私はCDプレイヤーとギターを持って、私の曲を一人で演奏しました。
とにかくそれはとても素敵な経験でした。それから私は次のソロアルバムの構想を練り始めました。2002~2003年にはソロライブを行い、またコントリーヴァの活動も続け、ドイツの映画「Kleinruppin Forever」の曲を書いたり、NMFarnerという別のバンドを結成したりしました。NMFarnerはドイツのパンクロックバンドで、私はギターを弾きました。
空いた時間には、Rechenzentrumや、ISO 68、Henrik Johannson、Knarf Rellom、Kollossale Jugend、Erobique、Kissogrammといったアーティストのミキシングや製作を手伝いました。
時間があるときや新しい曲ができたときに、私は次のソロアルバム用にその曲を録音してきました。そして(セカンドLP)「アンソールヴド・リマインド」は2004年にリリースされました。
ファーストアルバムよりちょっとだけ重い音でよりエレクロニックな作品だったので、私はライブ活動のコンセプトを変えて、他のミュージシャンを招いてソロライブ活動を行うようになりました。
私はコントリーヴァのバンド仲間、リーケ・シューベルティ(Rike Schuberty)にギターを弾いてもらうように頼みました。ミヒャエル・ミュールハオス(Michael Muehlhaus)にはキーボードをお願いしました。私たちはヨーロッパツアーを行い、とうとう2005年12月には小さなアメリカ・ツアーも実現させました。
そして2006年。私はブライアン・フェリーの「ドント・ストップ・ザ・ダンス」とコメイトの「サタデー・ナイト」のカヴァーシングルを録音しました。知的な若いドラマー、アンディ・ハベール(Andy Haberl)と知り合ってバンドに入ってもらうようにお願いしました。4人編成となって9月からツアーを実施。10月にはリーケと一緒にアメリカに行き、演奏したり、友達のチェシー(Chessie)をたずねたりしました。コントリーヴァとチェシーはよく以前から曲を一緒に作ったりしていたのです。
ドイツに戻ってきてから、私はヨー・ラ・テンゴ(Yo La Tengo)のサポート・アクトを3回つとめました。ずっとヨー・ラ・テンゴのファンだったので、お呼びにかかり大変光栄でした。11月はコントリーヴァのニュー・アルバムのプロモーションライブをやっています。来年(2007年)の3月にはツアーが始まると思います。
ぜひライブの日付をチェックしてくださいね! 冬のあいだ私は次のアルバムのために数曲録音したいと思っています。
◎マーシャ・クレラ:新アルバム発表5月ツアー
(Music live and more.comでのライブ告知記事)
http://www.music-liveandmore.de/2012/03/19/masha-qrella-mit-dem-neuem-album-im-mai-auf-tour/
マーシャ・クレラはロシア人の物理学者の父とドイツ人の睡眠診断士(SleepResearcher)の母の娘として産まれ、多感で自由奔放な少女時代をすごした。
(撮影:Queen About Music)
マーシャは同時代(訳注:1990年代)の音楽、シカゴのジム・オルークやロンドンでのステレオラブ、デュッセルドルフのマウス・オン・マーズに影響を受け、ベーシスト兼サウンド・エンジニアのノルマン・ニーチェの協力の下、ベルリン市パンカロー区の、とある地下室でベルリンのポスト・ロック音楽を作り始めた。
ミーナやコントリーヴァといったバンド活動を経て、彼女の小さなスタジオ、”クレラ邸(=ヴィラ・クレラ)”はイギリス、アメリカ、日本など世界にはば広く知られることとなった。
2002年には1stソロアルバム「ラック(Luck)」をリリースして、ついに女性ヴォーカリストとしてもソングライターとしてもポピュラー・ミュージックシーンで認められることとなった。
その後、クルト・ヴァイルとフリーデリッヒ・ロウの歌曲カバーによる名盤「スピーク・ロウ」など2枚のアルバムを経て、今、期待を背負って『アナロジース』とともに彼女の新しいキャリアが始まる。
フォーク、インディーロック、現代ヒット曲などをめぐる、ベルリン市パンカロー区の彼女の旅が産み出した完璧なポップ曲集が、いままさに世界に姿をあらわし、5月のライブで人々を驚愕させることになるだろう。
◎「旅行にあう音楽は?」マーシャクレラ「Too Many Birds(Bill Callahan)」
インディー・アーティストのQAインタビューにて 2012年3月12日
http://www.conciergequestionnaire.com/ur_here/story.php?id=32&page=12
「ドライブをしているときに初めてこの曲を聴いたの。曲のおわりで彼(ビル・キャラハン)は同じフレーズを何回も何回も繰り返すの。
『もし…
もし僕が…
もし僕ができるなら…
もし僕がとめることをできるなら…
もし僕が僕の力でとめることができるなら…』
みたいに。わあ、この曲っていったいどう終わるのかな?って思ったわ。
それから、なんて素敵な曲の終わらせかたなんだろう! って。
もしもその曲を初めて聴いたのが車のなかではなかったら、違うように感じたかもしれないけどね」
2002年、マーシャ・クレラはソロアルバム『ラック』をリリースして、シンガー・ソングライターとしての活動を開始した。その後2枚のアルバムを発表するがとりわけ2009年リリースの『スピーク・ロウ』ではクルト・ヴァイルとフレデリック・ロウの素晴らしい解釈を行った。そして2012年5月マーシャは『アナロジーズ』という新アルバムをリリースする。そこにはフォーク音楽とインディーズ・ロックと過去のポップミュージック史にまたがった彼女のポップミュージックのエッセンスが詰め込まれている。
◎ANOSTのMasha Qrella"Analogies"レビュー
著者:モーリス・サーメン(Maurice Summen, Staatsakt)
http://www.anost.net/en/Music/CD/CD/Masha-Qrella-Analogies.html
【第一章】クレラの神話
誰もがそれを知っているつもりだったが、すべてを本当に知っているものはいなかった。物語の一部を知っているふりをして詮索するだけだった。時をへて、それはベルリン音楽シーンにおける「チャイニーズ・デモクラシー」になったのだった。
ついにマーシャ・クレラのニュー・アルバムがリリースされる。
2005年に彼女のスタジオアルバム、「アンソールヴド・リマインデド」が発表されてから実際、5年以上が経過する。唯一の例外は、クルト・ヴァイルとフレデリック・ロウを解釈した美しいカヴァーアルバム「スピーク・ロウ」(2009年リリース)。いまだにこの神話的な作品はマーシャの音楽の方向性に関して賛否両論を生んでいる。とにかく、噂話をするには十分な時間が過ぎたということだ。
マーシャの新作「アナロジース」が2012年5月4日にリリースされる。ちょうどいいタイミングだ。古臭いきめ台詞のように聞こえるかもしれないが、本当にそうなのだ。待った価値があった。
【第二章】クレラの音
すべての情報が氾濫しているディジタル文化の現代においては、
絞首刑にあわないかぎりいい作曲するのは簡単だろうし、インスピレーションの赴くまま、ミュージシャンは面白いバイオグラフィーを書きあげていくのも容易だろう。そんな時代に音楽神話を”でっち上げる”ってことは、果たして冒険的なのだろうか?
この新アルバム「アナロジース」は的確にその疑問に答えてくれる。
このアルバムは自分自身のルーツと音楽的体験に正直であることの大切さを教えてくれる。どんなに時間が経って、あらぬ方向に行ったりしたとしてもだ。
本アルバムにおける結論としての音、自信と卓越した作曲技法。そしてポストロック研究とチラチラと見てとれるフォーク・ミュージックの影響、素晴らしく美しいポップなフレーズは、あきらかにインターネットで簡単に見つかるような音楽ではない。
それらは、長いあいだ音楽を演奏し音楽に息吹を与えてきた生身の体験から生まれた結果なのだ。その点が際立っていることを、このアルバムのすべての音色、すべてのメロディから感じるだろう。
【第三章】クレラのポップ定義
1990年代初頭からのベルリン音楽シーンにおいて、マーシャ・クレラ(および彼女のバンド、ミーナ)はベルリンのアバンギャルド音楽の重要な箇所を占めていた。しかしそのとき彼女は、ポップ音楽のコアであり心臓である”歌そのもの”にしっかりと目を向けていた。
だから、マーシャの音楽と類似する音楽や、比較できる音楽が語られるとき、ポップ音楽の歴史全体にまんべんなく散らばった音楽的祖先や”魂の同類”が引き合いに出されるのである。
彼女が過去ポストロック音楽を演奏していたときはステレオラブの実験音楽に似ていると言われたし、ザ・キュアーの王道的なメランコリズムに近いとも言えるだろうし、フリートウッド・マック「アルバトロスの翼」のもたらす音波にも喩えられる。
「アナロジース」を聴いて、私はスティーヴィー・ニックスとロバート・スミスを想いだした。
レティシア・サディエール(訳注:Stereolabの女性ヴォーカリスト)とマーシャは美しく静寂なベルリン市パンカロー区の街をたまに一緒に散歩するらしい。
ブルガー公園のベンチに腰掛けて、いつも別れ際は手を振り合って。
自分がちょっと客観的でないことを書いていることは承知であるが、この種の時間を越えた美しい話は、なかなか成り立たないものである。
【第四章】クレラを待ちわびて
さて、別の視点から見てみよう。他にマーシャの音楽との比較とか類似性を考える意味がある比較対象はなんだろうか?
植物? 確かにベルリンに植物園が造れるくらの価値がある植物があったとしたら、それはクレラ・フラワーに間違いない。蕾がふくらむまで時間がかなりかかったし、いったいその花はいつ咲くのだろう? いや、それを問うのはよくない。私たちを惹きつける魅力を損ねてしまうから。安っぽいジェット族やバックパッカーなど文化に群がるハイエナたちは、いつも農場のぶどう酒を通じて情報を手に入れる。
うんざりだ!ゴーラムの指輪のように、私はこの貴重な植物を守っていきたい。この光のもとで、おそらく噂や神話や伝説には終章がないかたちでケリがつけられて、また秘密が生じないかぎりは誰も口にしないであろう。
非常に稀有な植物だ。このアルバムは本当に巨大、といえる。「アナロジース」には10曲のヒットシングルがある、と言ってもいい。「10曲しか収録されていないのに?」と疑うひともいるだろうが、これも本作品のリリースをめぐる神話のひとつと思ってもらえればよい。
マーシャ・クレラに関してもっと知りたい人は、マーシャ・クレラ自身に問いかけてみてほしい。これ以上に私は知っていることはない。ああ、だめだ。友人と釣りにでも行くか(※訳注:マーシャの新作のテーマ曲とも呼べる「fishing with my buddies」にかけている)。
◎マーシャ・クレラ 2009年
ミュージック・ザッツ・オールの2009年ごろの記事
http://www.visitberlin.de/en/article/masha-qrella
ステージ上の彼女はジーンズとTシャツ姿で、あたかもリハーサルであるかのようにリラックスして彼女の歌の世界に浸っていた。過剰なジェスチャーも、ステージアクションもなく、マーシャ・クレラはとてもシャイに見えた。
「ずっと昔は、わたしたち聴衆に背中を向けて演奏していたのよ」と彼女。
「ずっと昔」とは1990年代中盤のことで、マーシャ・クレラが音楽活動を始めたころの話しだ。彼女はさまざまなバンドでギター、ベース、キーボードを演奏していたが、その後ソロ・シンガー活動を開始した。彼女の歌は飾り気がなく儚げでほんわかしていて、エレクトロニカとインディー・ロックを融合した感じだ。果たせなかった願望や、恋愛がもたらす幸せと不幸が歌われる。
マーシャ・クレラの本名はクレル(Kurell)で1975年に東ベルリンに誕生、ロシア語とスペイン語の通訳になるための教育を受けた。2009年彼女は3rdアルバム『スピーク・ロウ』をリリース。ここにはクルト・ヴァイルとフレデリック・ロウのよく知られたブロードウェイ・クラッシック曲の新しい翻訳(訳注:「通訳になるための教育」にかけていると思われる)がある。
とうとうクレラはそれらの名曲に彼女自身の刻印を残すことに成功したのである。
自制と驚くべき集中力に支えられた音楽である。
◎2006年9月25日(月)のライブ告知
http://www.cairo.wue.de/seiten/veranstaltungen.html
マーシャ・クレラは彼女のバンドコントリーヴァ、ミーナ、NMファルナーの活動や、その才能に比して十分な賞賛を得ていない存在として知られています。そんな彼女は、昨年素晴らしいセカンド・アルバムをリリース。
彼女の歌では、さまざまな想い出や希望や失望や友情や後悔が彼女なりに噛み砕かれて、個性的で私的な音世界を創造しています。
マーシャ・クレラの音楽では、エレクトロニカであることと、アコースティックであることが対極にあるものではなくなってしまうのです。それら(訳注:音楽ジャンルの区別など)は表現するための方法のひとつに過ぎないのですから。
彼女ならではの様式美を持っている、もっとも興味深い女性ソングライターの一人であるマーシャ・クレラの音楽を楽しみましょう!!
◎コントリーヴァ(Contriva)とプロイセン人のソウルミュージック
2007年2月2日:ディー・ヴェルト(Die Welt)誌の音楽評論家ミヒャエル・ピルツ氏(Michael Pilz)によるコントリーヴァ批評。
http://www.signandsight.com/features/1169.html
(訳注:マーシャがロシア系ドイツ人であること、ベルリンの壁が崩壊したその場所にてまさに新しい音楽を生み出していることを、的確に分析し描いた素晴らしい評論です! 社会と音楽について大変考えさせられます。。
ヴァン・モリスン、U2、ポーグス、フェアポート・コンヴェンションを「カレドニアン・ソウルミュージック」と定義した名著を想起するように、いま、ベルリンの「プロイセンソウル」が熱いのだ!!!!)
ミヒャエル・ピルツ氏はコントリーヴァを絶賛している!
コントリーヴァは東ベルリンのごった煮文化を象徴していると。
ベルリンに関する一般的なジャーナリズムは、ベルリンの砂漠に立つ4本の柱について語るだろう。その4本の柱とは、
・好戦的な市民性
・総体的な文化の欠如
・老朽化した共同体
・社会主義者の悲哀
のことである。
新聞のコラムだけではなく、さまざまなテクストで都市の破綻が語られている。
しかし、1990年代初頭の不機嫌なトーンは私たちのプライドを試す試金石だったと考える。生粋のベルリン人に限ることなく、メディアは地元を見直し始めている。心配には及ばない。もし君がこの荒れきった東ドイツでなにかができるなら、どこにいっても生きていけるのだ。
その土地を去った息子や娘たちのことを家族は多少心配し、かつ誇りに思うだろう。それが、毎週末、プレンツベルク(=プレンツラオアーベルク:以前の東ベルリンで一番ヒップだった地区)が内気な”新”ベルリン人と彼らの南ドイツの知人たちで溢れていた理由である。
日和見していてはいけない。彼らとコミュニケーションをとらないと、文化的な膠着は進むだけだ。確かに理想のフライブルクからの道のりは長いのである。
ベルリンで生活する人々、そしてかつてこの地域がまぎれもなくベルリンとプロイセンに属していたころから暮らしてきた人々のジレンマは、悪化していく時代/ムードの変化への不満である。そんな彼らは、クリスマスの絵葉書に「東ベルリン時代に戻って欲しい!」などの反抗的な文句を書くことで自らを慰める。そして南ドイツや西ドイツからの電車の運行について文句をいう。これらは一例にすぎない。
確かに、それらの地域からの移民たちも同様の東ベルリンへの不満を語る。根本的には、観点が異なっているのだが。果たしてそれらが音楽にもたらす影響は何だろうか?
ベルリンの現代ポップミュージックは、第一に1980年代後半の状態を甦らせようとしている。老朽化したビルディングの狭間で、さまざまな運動が起きていた時代だ。荒々しいエレクトリックミュージックを奏でたグループ、レッヒエンツェントルム(Rechenzentrum)を思い出す。バーバラ・モルゲンシュテルン(Barbara Morgenstern)はフェルモーナ社のキーボードを愛用していた。ノイエ・ドイチュ・ヴェレ(Neue Deutsche Welle:訳注「ドイツ・ニューウェイヴ」の意)のベテランたちは2raumwohnungというデュオを結成した。
1990年代に入ってからの面白いイベントといえば、プレンツラオアーベルクや狭苦しいクラブや地下室、クロイツベルクの壁の下などでの、詩人やパンクのライブだった。ボヘミアンたちがいっぱいだった。
これが、プレンツルベルクの歴史。10年前(訳注:1995年ごろを指している)にマーシャ・クレラが彼女の目で見た歴史だ。やっと本題にたどりついた。
当時、マーシャは20歳でさまざまな楽器を演奏していた。彼女のバンドはシナモン(Cinnamon)と呼ばれていたが、同名のバンドがあるため、コントリーヴァ(Contriva)に変名した。1996年コントリーヴァの4人組はデビューシングルレコードを製作、立て続けに「Kuschel XTC」、「Introduce Me To Someone Really Cool」をリリースした。
2000年の彼らのファーストアルバム「テル・ミー・ホェン(Tell Me When)」リリース当時、ペーター・E・ミュラーはベルリナー・モルゲン・ポスト誌において、このように書いている。
「この音楽は、ベルリンの壁が崩壊する前の(西)ベルリンでは、絶対生まれなかった音楽である。壁がなく、人が往来する広いベルリンでのみ生まれることができる音楽だ」
コントリーヴァ評としてこれ以上に妥当なものを見たことがない。
ひとこと付け加えるならば、壁が崩壊しないかぎり、東ベルリンにおいても同様にこの音楽は生まれなかっただろう。
コットブス(Cottbus)やポツダム(Potsdam)、ノイブランデンブルク(Neubrandenburg)などの地道なムーブメントはあったものの、閉塞感はずっと残っていた。マーシャ・クレラとコントリーヴァは、静かで極私的な反抗精神と古典性を、音楽に想い出させ、それを保全したのである。全世界に通用するようなかたちでは決してないが、その可能性も完全には否定することができないだろう。
書き忘れていたが、クレラは最近セカンド・ソロ・アルバムと4枚目のコントリーヴァのアルバムをリリースした。「セパレート・チェンバーズ(Separate Chambers)」には人懐こいギターフレーズ、ギターの弦の運指音、むき出しのリズム隊の音が収められていて、リードギターの音色はカトリックが誇大宣伝するロック・ミュージックと言うよりはむしろダンス・ミュージック(訳注:おそらくファンクにおけるリズム・カッティングの技法との類似性を筆者は書きたかったと思われる。あるいは、クレラの音楽とギター奏法にはロシア系ユダヤ人のクレッツマー音楽など民族舞踏系フォークの影響も見られると思う)に近い。
マーシャ・クレラ特有の(褒め言葉としていうのだが)鼻声が。シャイなヴォーカルと歌心溢れたベースラインを引き立てている。それは、1988年のベルリンのバンドよりも、むしろ20年前(訳注:1987年ごろを指している。ニューオーダーやザ・スミス、オアシス、ハッピーマンデーズがそれにあたる)のマンチェスターのバンドのものに近い。
ベルリン特有の島国根性から脱却できた人にとっては、「北京の秋」などと呼ばれていた地元バンドよりはニュー・オーダーようなストレートなメッセージのほうがよかったのだ。
再び歴史を振り返ると、ベルリン市民は自らの手でヒステリーとパッションを取り除く必要があった。午後10時から午前2時のあいだの、壁の崩壊という狂乱から。そして1990年の夏、物資と文化が枯渇した街で、若者には「何でもできる」という思いがあった。その後、社会の体制は安定し固着した。
これが、クールで、悲観的で、メランコリックで、肩がすくまるような歴史的背景である。腐敗しきったドイツ社会主義統一党=SED(以前の東ドイツの共産党)が、台頭するベルリンの歴史的経緯である。
このような醜悪なものが消えたら、喜ばしい。パンカロー行政区の幹部たちは一人として、南ドイツからやってきたプレンルベルク人が暴行事件を受けたとしても、共和国の崩壊に危機感を抱いたりしないのだ。(訳注:勉強不足で何の事件を指しているか知りません)
*****************************
マーシャ・クレラも、この失われた秩序の腐臭のなかで育ったひとりである。
彼女の祖父、アルフレッド・クゥエラ(Alfred Kurella)は、シーレジア(訳注:ポーランドのワルシャワあたりの地域のよう)の精神科医で民族理論学者であるハンス・クゥエラ(Hans Kurella:参考リンク
)の子供である。アルフレッドは、旧ソ連に亡命した際、ドイツ共産党のなかでもっとも際立った才能を持った人とみなされ、若きコミンテルン官僚として、ゲオルギ・ディミトロフ(Georgi Dimitroff:参考
)の秘書やジャーナリスト、芸術家としても活躍したエリートだ。ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)でもクゥエラはライプツィヒの文学研究所やドイツ社会主義統一党の文化の代表を歴任した。
その彼の邸宅は、今日「ヴィラ・クレラ」と呼ばれており、鮮やかなミントグリーン色に塗られてパンカローに建っている。そこでは一人の天体物理学者(訳注:マーシャのお父さんのことだろう)と神経科医(訳注:マーシャのお母さんのことだろう)と彼らの子供たちが暮らしている。防空壕として利用されたであろう地下室は、今アルフレッド・クゥエラ氏の孫娘とボーイフレンドの音楽スタジオとなっている。
ここでマーシャ・クレラのバンドのコントリーヴァやミーナ、NMファルナーの音楽が創られたのだ。
ベルリンの地元のミュージシャンが多かれ少なかれ自分をアピールしたくてしょうがない一方で、マーシャ・クレラはステージでもアルバムジャケットでも、いつも髪で顔を隠している。インタビューで彼女は、好んでそうしていると答える。
「よくわからないけど」、彼女の口癖である。
「生まれついてのパフォーマーじゃない」。
そんな彼女は、すべての事象を慰めるような詩、映画や風景、古着やウールのタオルに関する歌を世界に発信するのだ。
ブランデンブルク州ベルリンに国家の壁を突破していくようなカントリー・ミュージックがあるとしたら、それはコントリーヴァの音楽のように響くのだとおもう。
その音楽は、ロック音楽の過去の歴史を顧みつつ、一方で静寂と平静に頭を向けているアコースティック感溢れるフォーク音楽だ。
プロイセンのソウルミュージックは、質素でクールでラフ。
このような音楽を奏でる人々は、失われた古い美徳、質素であること、距離感を大切にすること、静寂を大切にしている。今日のベルリンはイライラすること、ずうずうしさ、そして騒音を求めているように見える。そうした生活をやめて、もっと静かに、この民間伝承を大切にして、失われた文化的風景を取り戻そう。 弁証法で言う止揚のように。
プレンツルベルクはマーシャ・クレラに感謝すべきだと思う。
◎Masha Qrella バイオグラフィー:1994~2005
(LOK-MUSIK BERLINのページより)
http://lok-musik.net/masha_qrella/
(訳注:1994年から2005年にいたるマーシャの活動が時系列で詳細に紹介されています)
1994~95年ごろバンド、ミーナ(Mina)とコントリーヴァ(Contriva)を結成してベルリンでライブ活動を開始。同時期にSpiraxやJeff Tarlton、David Hullといったアーティストとコラボレーションも行う。
1995年にベルリンのフンボルト大学でロシア語、ドイツ語、スペイン語を専攻。
96年にミーナのデモ・テープ「ヴァケイション(Vacation)」と、コントリーヴァのシングル「ツィムト(訳注:シナモンあるいはつまらないもの、の意)」を録音。LOKムジークはこれらの録音をリリースするために設立されたのだ。
97年から98年にかけては「ベルリン-東京ギャラリー」に参加して、ミーナはパリとアムステルダムで数多くの演奏を行う。この時期にLok Musikで製作されたシングル盤「ミーナ(Mina)」と「イントロデュース・ミー・トゥ・サムワン・リアリー・クール(Introduce Me To someone Really Cool)」ではJoe Tabuと共演している。
99年ミーナのデビューアルバム「クリプトーニテ(Kryptonite)」をリリース。イギリスの音楽雑誌でも好評で、ミーナはディー・シュテルネ(Die Sterne)やザ・ノートヴィスト(The Notwist)、キャレキシコ(Calexico)などのバンドとともに、イタリアからアイルランドにかけてのヨーロッパツアーを行った。
2000年1月にはコントリーヴァのデビュー・アルバム「テル・ミー・ホェン(Tell Me When)」をモニカ・エンタープライズからリリース。Lokムジークから発売されたコントリーヴァのシングルには確実な支持層ができた。2月にはアルバム発売ツアー開始。
2000年4月から5月にかけてプロデューサーにトービアス・レヴィン(Tobias Levin)を迎えてハンブルクのエレクトリック・アベニュー・スタジオでセカンドアルバムの録音を開始する。2000年の夏にはスペインのBenicassimフェスティバルでミーナは演奏。
2000年9月から2001年2月の半年間、彼女はマドリード・コンプルテンセ大学(訳注:参考リンク
)に留学。2001年の夏のベルリン・フンボルト大学の中間試験のあと、ミーナのセカンドアルバム「A+B」をブンガローレーベルからリリースした。その後、ステレオラブのヨーロッパ・ツアーのサポートアクトにミーナは選ばれて、9月から10月にかけてツアーに同行した。
2001年12月にミーナはステレオ・トータルとフランスツアーを実施。同月にはコントリーヴァのセカンド・アルバムのレコーディングも開始される。
2002年2月ノルマン・ニーチェと一緒にシットコム・ウォリアーズ(Sitcom Warriors)というバンドのデビュー・アルバムをプロデュース(リリースは2003年1月)。
2002年の1月から6月にかけてソロ・アルバム「ラック(Luck)」の録音をおこなう。
2002年の8月から9月はコントリーヴァの新アルバムのための第二期レコーディングに参加。
2002年9月にモニカ・エンタープライズからソロアルバム「ラック」がリリースされる。
2002年10月に友人のバンド、コーマイト(Komeit)とソロツアーを実施した。
2003年4月のキャレキシコの全ヨーロッパツアーの前座をソロアーティストとして務め、ソロ・アルバムの宣伝を行った。
この時期に、ノルマン・ニーチェと共同経営を行うスタジオ・クレラ(Kurella)(訳注:パンカローにある彼女のスタジオ、「Villa Qrella」のことだろう)の拡張工事を行い、NMFarnerという別のバンドを結成した。
2003年の9月から10月にかけて、ドイツ映画「クラインルッピン・フォーエヴァ(Kleinrupin Forever)」のサウンドトラックを作曲、プロデュースし、2004年9月にリリース。
2004年2月~3月にNMFarnerのデビュー・アルバムをヴィラ・クレラで録音。
2004年10月にはNMFarnerは「ディー・シュタット」をリリース。
2004年9月から10月にかけて、彼女自身のセカンド・ソロアルバム「アンソールヴド・リマインド」の最終レコーディングおよびミキシングをノルマン・ニーチェと行う。
2005年1月 NMFarnerはアルバムリリースツアーを実施。
2005年3月、「アンソールヴド・リマインド」がモール・ミュージックからリリースされた。
◎コントリーヴァ『セパレート・チェンバース』
ボブ・バーネットによる投稿
http://c60crew.blogspot.jp/2007/08/contriva-separate-chambers_04.html
チェシー(Chessie)ベン・ベイルズ(Ben Bailes)が僕にコントリーヴァの2006年の作品『セパレート・チェンバース』を紹介してくれたので、とても感謝している。
コントリーヴァはベルリンのバンドで、マーシャ・クレラ、マックス・プンクテザール、リーケ・シューベルティ、ハンネス・レーマンがメンバー。彼らは学生時代のころからの知り合いで、1997年にバンドを結成した。数枚の7インチ、10インチのシングルレコードとアルバム『テル・ミー・ホェン』(2000年)、『エイト・アイズ』(2001年)、『イフ・ユー・ハッド・ステイド』(2003年)をモニカ・エンタープライズやロック・ムジークからリリースした。
『セパレート・チェンバース』から、コントリーヴァは、タイド(Tied)やティックルド・トリオ(Tickled Trio)、B.フライシュマン(B. Fleischemann)、ラーリ・プーナ(Lali Puna)、アメリカン・アナログ・セット(American Analog Set)が在籍するモール・ミュージック・レーベルと契約することとなった。
彼らの抑制の効いたデリケートなポップ・インストゥルメンタル音楽の心地よさについて、僕はmyspaceで彼らから彼らの考えを聞いたことがある。
「(コントリーヴァの音楽は)シンガーが不在のシンガー・ソングライター・ミュージックみたいなものです。私たちは、人間の声が要らないポップ音楽をどうやったら創れるか?ということに関心があるのです。100%うまくはいかないでしょうけど、この点にかけて音楽を作ってます。
物語や主張がなくても、絵は誰かの心のなかで花を咲かせるでしょう。ずっとずっと昔から、人間は音楽を旅というコンテキストのなかで接してきたのだと思います」
僕は「シンガー不在のシンガー・ソングライター・ミュージック」という考え方がとりわけ好きだ。なぜなら、インストゥルメンタル・アンサンブルという観点のみならず、彼らは楽曲のメロディやブリッジなどのよさに加えて、ヴォーカルバンドとしてのクオリティも高いからである。
確かにアルバムには数曲ばかり、マーシャ・クレラの繊細な声のヴォーカル曲が含まれている。歌曲の構成のなかで彼女の声はとても素敵で、アルバムの総合的な価値を高めている。
『セパレート・チェンバース』は曲がりくねった白昼夢のような作品でもある。コントリーヴァが自分たちの音楽を演奏するとき、僕はヨーロッパの田舎で電車の旅を楽しんでいるような気持ちになる。彼らの演奏がその旅のBGMのようであるからだけではなく、コントリーヴァの音楽には本当に旅行そのものの楽しみがぎっしり詰まっているようだからだ。
それは、日ごろ慣れ親しんだ風景とことなる風景を与えてくれるし、いろいろな経験から生まれてくる好奇心を味わわせてくれる。
コントリーヴァは1980年代のバンド、ヤング・マーブル・ジャイアンツ(Yount Mable Giants)やドゥルッティ・コラム(Durutti Column)を聴いていたころのフィーリングを僕の心にくれる。音楽性そのものは異なっているとしてもだ。それらバンド間には何かしらの親近性のようなものがあると思う。別の観点からは、アンドリュー・コールマンの『Everything was Beautiful』と『Nothing Hurt』やチェシーのステファン・ガードナーとベン・ベイルズのデュオ演奏も思い出させられる。
まあとにかく、前述した彼らのmyspaceサイトで彼らの曲を聴くこともできるので、僕が伝えようとしていることが本当かどうか是非確認してほしい。
僕はemusicで彼らのモニカ作品を探して手に入れた。マーシャ・クレラの素晴らしいソロ作品と同様、愛聴している。