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ヴァージニア・ウルフ(鴻巣友季子訳)『灯台へ』/ジーン・リース(小沢瑞穂訳)『サルガッソーの広い海』(河出書房新社)を読みました。池澤夏樹個人編集=世界文学全集の一冊です。
江戸の戯作から近代的な小説が生まれるまでの間に坪内逍遥が書いた文学論が『小説神髄』。海外の小説から様々な例を挙げ、戯作が持つ勧善懲悪などの劇的な筋や、単純なキャラクター性を否定しました。
よく出来た物語であればあるほど、いい者と悪者ははっきり分かれ、いい者が悪者を倒して終わる物語構造になるわけですが、人間というのは本来複雑なもので、正邪併せ持つのが本当ではないだろうかと。
そうして、日本の近代小説は現実をそのまま描くリアリズム的なものとして始まり、やがて、ありのままに描く「自然主義」の流れや、作者と主人公が結びつく「私小説」を生み出していくこととなります。
物語性と写実性を対立させ、「小説とは何か?」を追究した観点が今なお興味深い『小説神髄』が出たのは19世紀の終わり頃。その少し後の20世紀、世界の文学もまた大きな問題に取り組んでいました。
小説から物語として面白い筋、登場人物の単純なキャラクター性を排除した所は似ていますが、リアリズムから一歩進んで、人間の無意識的な記憶や、複雑に移り変わる意識そのものを描こうとしたのです。
20世紀の世界の文学を代表するのが、無意識にあふれる記憶を描いたマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と、登場人物の意識をそのまま描こうとしたジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』。
みなさんも普段生活していて、意識的にものを考えるのではなく、ふととりとめなく色々なことを考えてしまうことがあるはず。単純な心理描写とは違い、そうした意識を描く手法が、「意識の流れ」です。
そしてその手法でジョイスと並んで有名なのが、今回紹介するヴァージニア・ウルフ。何と言っても『ダロウェイ夫人』が有名ですが、この『灯台へ』もウルフを代表する作品の一つ。ある家族の物語です。
明日もし晴れたらみんなで灯台へ行く約束しているラムジー一家。八人の子どもを持ちながら、今なお美しいラムジー夫人を中心に、家族や一家と親しい友人たちの意識の移り変わりが紡がれていって……。
驚かされるのは、実は、とても短い時間を描いた物語であること。間に十年の経過こそあるものの、たった二日間の出来事なのです。これもまた小説の一つの到達点という感じを抱かせてくれる小説でした。
一方、イギリス領ドミニカ島出身の作家であるジーン・リースの『サルガッソーの広い海』は、血筋としては白人ながらイギリスの植民地だったジャマイカのスパニッシュ・タウンで育った女性の物語です。
黒人から「白いゴキブリ」(278ページ)と蔑まれる、植民地での白人の暮らしが描かれた小説ですが、そのテーマ自体感覚として理解しづらい部分がありますし、物語としてさほど面白くはありません。
おそらくポストコロニアリズム(植民地支配を違った観点からとらえ直そうとすること)の観点で価値が生まれて来る小説なのでしょう。
作品のあらすじ
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』
こんな書き出しで始まります。
「ええ、いいですとも。あした、晴れるようならね」ラムジー夫人はそう言ってから、つけたした。「でも、うんと早起きしてもらいますよ」
息子はそう言われただけですっかり舞い上がった。さあこれで決まり、いよいよ探検に乗りだすんだという期待感につつまれ、もうはるか昔から――と言いたくなるぐらい――待ちに待ったあの夢の塔に、ひとつ夜を越し、半日も海を行けば、手がとどくような気になった。(6ページ)
六歳のジェイムズはうきうきしていましたが、父親のラムジーは「まず晴れそうにないがね」(7ページ)と、その喜びに水をさします。
夫の言葉に怒ったラムジー夫人は晴れる気がすると言い、編み上がったら灯台守の坊やにあげようと思っている靴下を編んでいましたが、お客のチャールズ・ダンズリーも、晴れそうにないと言うのでした。
窓辺に座るラムジー夫人とジェイムズをモデルに絵を描こうとしていた三十歳を越えて未婚のリリー・ブリスコウは、顔なじみの植物学者で、やもめのウィリアム・バンクスに誘われて散歩に出かけました。
ラムジー夫妻について話す二人。ラムジーは若い時に書いた哲学書で成功したものの、その後はぱっとせず、八人の子供を抱えて生活が大変そうなこと。二人の姿を見たラムジー夫人は、結婚を連想します。
ラムジー夫人は子供たちの世話が一段落し、夫とも離れた一人きりの時間には、人形をした幻のようなうわべの飾りを捨てて、「くさび形をした闇の芯」のような、本来の自分でいられると感じていました。
日常の姿でいるかぎり、安らぎが見いだせないのは経験上わかっているけど(ここで編み針を器用にくぐらせて)くさび形の闇の芯になればそれができる。人格をなくすことで、人は苛立ちも焦りも動揺もなくしてしまえる。なにもかもがこの平穏、この安らぎ、この永遠のなかでひとつになると、人生に対して勝ち鬨をあげそうになる。夫人はここでちょっと間をおいて、窓の外に目をやり、灯台の光の条をとらえた。長く、しっかりと海面を照らしていく光。あの三つめの条、あれがわたしだわ。などと思うのも自然なことだろう。こんな夕まぐれにこんな気分で灯台の光を見つめていると往々にして、目に入ったなにかにことさらに自分を重ねてしまうものだ。というわけで、あの光、長く、しっかりと撫でていくあの条が、わたし。編み物を手にしたまま、身じろぎもせずなにかを見つめ、じっと見つめているうちに、見ているものと同化してしまう。ふと気がつくと、そんなことがしばしばあった。
(81~82ページ)
灯台を見つめて幸福を感じている妻を美しく感じたラムジーは、一抹のさみしさもありながら、妻の邪魔をしないでおこうと思います。一方、ラムジー夫人は夫の気持ちを察して自らそばに行ったのでした。
夜になるとみんなを招いての晩餐が始まり、文学についてなど会話は盛り上がりましたが、オーガスタス・カーマイケル老人が不作法をしてラムジーをひそかに怒らせ、それにラムジー夫人が気付く一幕も。
淡い想いを寄せているが故に、バンクスのラムジー夫人への感情に気付いているリリーは、ラムジー夫人の本質をつかもうとしますがうまくいきません。十年が経ち、リリーは再びラムジー家を訪れて……。
ジーン・リース『サルガッソーの広い海』
地主だった父が亡くなると〈私〉たち一家は黒人から蔑まれながら暮らすようになりました。弟ピエールが歩けず、言葉もはっきりしないと分かると、痩せて無口になった母は、外出しないようになります。
それでも美しかった母は金持ちのミスター・メイソンに見初められて再婚し、幸せを手にしますが、屋敷に火をつけられてしまいました。
彼らはまだ静かだったが、草や木が見えないほど大勢がつめかけていた。入江の人たちもたくさんいたはずだが見分けがつかなかった。みんな同じに見えた。目をぎらつかせ、口を開けて叫んでいる同じ顔が並んでいた。乗馬石の横を通りすぎたとき、マニーが馬車を駆って角を曲がってくるのが見えた。サスが馬に乗り、婦人鞍をのせたもう一頭の馬をひいてきた。
だれかがどなった。「あの黒いイギリス人を見るがいい! 白い黒んぼを見ろよ!」するとみんながいっせいに叫んだ。「白い黒んぼを見ろよ!」(296ページ)
ピエールはこの火事で亡くなり、それで頭がおかしくなってしまった母から引き離されるように〈私〉は修道院へと入れられたのでした。
仕事の取引で西インド諸島にやって来た〈ぼく〉はミスター・メイソンと知り合い、その娘のアントワネットと結婚します。兄がいる故に父から認められていない〈ぼく〉は結婚で財産を手にしたのでした。
イギリスに行ったことがなく「イギリスが夢のような国というのはほんとうなの?」(333ページ)と無邪気に尋ねるアントワネットと〈ぼく〉はドミニカ島マサークルで愛に満ちた新婚生活を始めます。
「なぜ私に生きたいと思わせようとしたの? どうして私にそんなことをしたの?」
「ぼくがそう願ったからさ。それだけじゃたりないのか?」
「いいえ、充分よ。でも、あなたがそう願わなくなる日がくるとしたら。そのときはどうすればいいの? 私が気づかないうちに、あなたがこの幸せを取り去ってしまったら?」
「そしてぼくの幸せもなくすのか? そんなばかなことをするやつがいるかい?」
「私は幸せに慣れていないのよ」彼女は言った。「だから怖くなるの」
「怖がることはないよ。怖くても、それを口に出しちゃいけない」
「わかっているわ。でも自分でもどうしようもないの」
(344~345ページ)
お互いの肉体に溺れ、仲むつまじく暮らしていた〈ぼく〉とアントワネットでしたが、やがて一通の手紙が届きます。それはアントワネットの腹違いの兄を名乗る男からの衝撃の事実が綴られた手紙で……。
とまあそんな2編が収録されています。『灯台へ』はまさにあらすじでは伝えられない魅力がある小説で、それぞれの登場人物の心理が反射しあい波紋が広がって物語が形作られていく素晴らしい作品です。
ストーリーとしての面白さはないですが、家族の小さな世界を見事に描き切っていて、こういう小説もあるのかと、はっとさせられる感じがありました。水彩画のように淡く、美しい印象が読後に残ります。
「意識の流れ」が使われた作品の中では、比較的読みやすいですし、岩波文庫の御輿哲也訳、みすず書房の「ヴァージニア・ウルフ・コレクション」の伊吹知勢訳など、翻訳を読み比べても楽しめそうです。
『サルガッソーの広い海』は、イギリス文学の名作であるシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を、モチーフに使っている小説。
ジェイン・エア(上) (光文社古典新訳文庫)/光文社
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独立した作品なので読んでいなくても大丈夫ですが、ポストコロニアリズムに関心がなければ、さほど面白くもない小説なので、やはり「この人物はあの人物なんだ」と知っていて読むのがおすすめです。
かつては篠田綾子訳で『広い藻の海――ジェイン・エア異聞』として出ていたくらい、『ジェイン・エア』と関係の深い物語であり、言わば裏返しの『ジェイン・エア』とも言うべき作品になっていますよ。
興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
明日は、磯﨑憲一郎『終の住処』を紹介する予定です。