坪内逍遥『小説神髄』 | 文学どうでしょう

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小説神髄 (岩波文庫)/坪内 逍遥

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坪内逍遥『小説神髄』(岩波文庫)を読みました。

日本の文学史で、古典と近代の明確な区切りとなるのは、間違いなく二葉亭四迷の『浮雲』です。

言文一致体(話す時の言葉づかいで書くもの)を確立したという点に焦点が当たりがちではありますが、内容としても相当新しい部分があります。

その点についてはまたあとで触れますが、要するに『浮雲』は、江戸の戯作では扱っていないものをテーマに持つということです。まさに日本において初めて誕生した「小説」と言えるでしょう。

文学史において、その『浮雲』とセットのようにして扱われるのが、今回紹介する『小説神髄』です。『小説神髄』は二葉亭四迷の師匠筋にあたる坪内逍遥が書いた、小説の理論書のようなものです。

『小説神髄』が理論篇であるなら、その実践篇とも言うべき小説『当世書生気質』を坪内逍遥は書いています。ところが、『当世書生気質』というのは、江戸の戯作と小説のどちらに近いかと言えば、明らかに江戸の戯作よりの作品なんです。

当世書生気質』についてはそちらの記事で詳しく扱うことにしまして、ここでは『小説神髄』で坪内逍遥がなにを確立しようとしたかについて考えていきたいと思います。

そもそもぼくが『小説神髄』を意識するようになったのは、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読んでからです。

南総里見八犬伝』をぼくは岩波文庫(全10巻)で読みましたが、注や口語訳がついているものがなく、原文で読むしかないので、ある意味においては日本文学史上最難関の作品と言っても過言ではないでしょう。

もちろんそれだけに読みづらさは相当あって、途中でぼくも死ぬかと思いましたけども、『南総里見八犬伝』は面白い読み物です。長いですけどね。

その『南総里見八犬伝』を、坪内逍遥はこの『小説神髄』で批判し、そうした江戸の戯作を踏み越えるようにして、小説というものを確立しようとしたわけです。

これにぼくはちょっと納得がいかなかったんです。はたして江戸の戯作は、そんな風に踏んづけていけるものなのだろうか。はたして本当に、過去の遺物にすぎないのだろうかと。

もしそうだとしたら、ぼくが感じた面白さは一体なんなのでしょう?

坪内逍遥はどんなところを批判したのでしょうか。こんな風に書いています。ここは『小説神髄』で最も有名な箇所だろうと思います。

試みに一例をあげていはむ歟、彼の曲亭の傑作なりける『八犬伝』の中の八士の如きは、仁義八行の化物にて、決して人間とはいひ難かり。作者の本意も、もとよりして、彼の八行を人に擬して小説をなすべき心得なるから、あくまで八士の行をば完全無欠の者となして、勧懲の意を偶せしなり。されば勧懲を主眼として『八犬伝』を評するときには、東西古今にその類なき好稗史なりといふべけれど、他の人情を主脳としてこの物語を論ひなば、瑕なき玉とは称へがたし。(53ページ)


南総里見八犬伝』には八犬士が登場しまして、それぞれ仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の玉を持っているんですね。そして人物はその玉の性質を持っています。

ストーリーの軸となる「勧懲」というのは、勧善懲悪のことで、正義のヒーローが悪を倒すという感じでイメージしてください。八犬士がいたるところで悪を懲らしめていくという感じのお話です。

坪内逍遥がなにを批判しているのかと言うと、八犬士は人間的ではないというんですね。仁なら仁の性質を持つためだけに造形された人物で、人間らしさがないと。そして正義のヒーローが悪を倒すという物語構造自体をも否定していきます。

もう少し分かりやすい言い方を引いてくるなら、こういうことです。

されども、これをなすに当りて、善人にも尚ほ煩悩あり、悪人にも尚ほ良心ありて、その行ひをなすにさきだち、幾らか躊躇ふ由あるをば洩して写しいださずもあらば、是れまた皮相の状態にて、真を穿たぬものといふべき。(58ページ)


つまり、善人にも悪い心が起こることもあれば、悪人がいい心を持つこともあるということで、より簡潔に言えば、複雑な心を持ってこそ人間だということです。

江戸の戯作と、坪内逍遥が確立しようとした小説との最も大きな違いはここにあります。「人間らしい人間が描けているかどうか」であって、求められるのは劇的な筋ではなく、現実に起こりうる出来事なわけですね。

この違いというのは、エンタメ小説と純文学の比較にとてもよく似ています。坪内逍遥が批判しているのは、ある意味において、まさに物語の一番面白い部分なんです。

エンタメ小説をマンガに置き換えてもいいですが、ありえない出来事が起こるからこそ、ストーリーは面白くなるわけですし、キャラ立ちした揺るがない性質を持つ登場人物がいるからこそいいわけですね。

たとえば『ドラゴンボール』において、悪役フリーザがいい心と悪い心で迷っているキャラクターだったら振り上げた拳は萎縮してしまい、堂々と倒せません。

あるいは『ドラえもん』において、のび太やドラえもんの性質が変わっていって、ドラえもんがのび太に冷たくなったり、のび太がドラえもんを頼らなくなったりしたら、それはそれでマンガとして成立しなくなってしまうわけです。

そうした物語としての面白さを捨ててまで、坪内逍遥はなにを確立しようとしたのでしょうか。

坪内逍遥の中には、縦のラインと横のラインの文学史があります。つまり、日本の古典という縦のラインの文学史があるのと同時に、西洋の小説など横のラインも強く意識しているわけです。

坪内逍遥は西洋の小説のジャンルを分類してこう書きます。

 小説は仮作物語の一種にして、所謂奇異譚の変体なり。奇異譚とは何ぞや。英国にてローマンスと名づくるものなり。ローマンスは趣向を荒唐無稽の事物に取りて、奇怪百出もて篇をなし、尋常世界に見はれたる事物の道理に矛盾するを敢えて顧みざるものにぞある。小説すなはちノベルに至りては之れと異なり。世の人情と風俗をば写すを以て主脳となし、平常世間にあるべきやうなる事柄をもて材料として而して趣向を設くるものなり。(27ページ)


坪内逍遥はこの「小説すなはちノベル」を確立させようとするわけです。「小説すなはちノベル」に必要なのは、キャラクターや劇的なストーリーではなく、日常生活にあるものを写し出すことにあるわけですね。

ここで『小説神髄』から少し離れまして、江戸の戯作と日本近代文学における「小説すなはちノベル」の相違点について考えてみたいと思います。

具体的には、『南総里見八犬伝』と『浮雲』を比較して見えてくるものです。

両作品を読み比べると真っ先に気づくのは、物語としてのリズムの違いです。『南総里見八犬伝』の方が速く、『浮雲』の方がゆるやかに感じます。

そして世界観は、『南総里見八犬伝』の方が広く、『浮雲』の方には閉塞感があります。この違いはどこにあるのでしょうか。

それは簡単に言えば、人物の心理が描かれるか否かです。『南総里見八犬伝』の人物の描写方法は、舞台の上の俳優を見ている感じだと思ってください。

南総里見八犬伝』は結構たくさん人が死ぬんですが、愛する人が死んで泣いていたとしても、文章はその人物の心理に寄り添いません。

舞台を見ている時のように、泣いていることは分かるし、ある程度感情が伝わってはくるんですが、自分の感情のようには感じません。

心理や感情で文章が滞らないので、そうしたしっとりした場面でもテンポよく物語は進んでいくわけです。

一方で、『浮雲』の世界観というのは、すべての物事が内海文三に寄り添う感じがあります。

読者は舞台を見ている時のような客観的な鑑賞態度は取れず、まるで自分自身が内海文三と同じ立場にいるような、そうした窮屈さ、閉塞感を直接的に感じます。

出来事が単なる客観的な出来事ではなく、内海文三にとっての出来事として描かれるということは、心理的なものが加わるということです。登場人物がくよくよ考えたり、その考えがだらだら書かれることは、『南総里見八犬伝』にはありません。

出来事の描写ではなく、そうした心理的な描写が紡がれていくと、物語はリズムよく進んでいかなくなります。

登場人物が悩んだり考えたりすることが、文章として語られるという点に、江戸の戯作にはない『浮雲』の「小説すなはちノベル」としての新しさがあるんですね。

それによって、「近代知識人の憂鬱」や「近代的自我」など、江戸の戯作にはなかった、新しいテーマが生まれて来ます。これぞまさに現実を写した「小説」ですよね。

物語の要素が、ストーリーに傾くか、それとも人物の心理に傾くかに江戸の戯作と小説の違いがあります。では、坪内逍遥自ら「小説すなはちノベル」の実践篇として書いた『当世書生気質』は、一体どんな小説だったのでしょうか。

今日の夜にその『当世書生気質』の記事を更新しますので、お楽しみに。