池波正太郎『剣客商売三 陽炎の男』 | 文学どうでしょう

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陽炎の男 (新潮文庫―剣客商売)/新潮社

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池波正太郎『剣客商売三 陽炎の男』(新潮文庫)を読みました。

老中の田沼意次が幕府を牛耳っている江戸時代の中期を舞台に、秋山小兵衛とその息子大治郎という、剣の達人の活躍を描いた『剣客商売』のシリーズ第三弾です。

戦のない世の中ですから、もはや剣が強いだけでは生きていけません。剣の道に精進するだけでなく、生きていくためには、ビジネス(商売)的な世渡りも覚えなければならないのです。

秋山大治郎はその辺りが何とも不器用な男で、剣術道場を開いているものの、いまだ弟子は一人きり。まだ女を知らない堅物で、腕は滅法立つけれど、真面目すぎるのが玉に傷。

そんな大治郎に対して、隠居生活を満喫している父の小兵衛は非常に洒脱な人物で、なんと40歳も年下の下女のおはるに手をつけたばかりか、ついには祝言(結婚式)をあげてしまいました。

毎回、何かしらの事件が起こり、それを対照的な性質を持つ秋山親子が解決するというパターンの物語なのですが、これがとにかく面白いんですよ。

キャラクターは魅力的ですし、筋の運びは達者ですし、すごくリラックスして読み進められるシリーズなんです。

時代小説が苦手な方でも楽しめるシリーズだと思うので、機会があればぜひ読んでみてください。ゆるやかな物語の流れがあるので、やはり一巻から順番に読んでいくとよいですよ。

さて、今回の表題作「陽炎の男」は、お風呂に入っていた佐々木三冬が、いきなり物騒な2人組の男に襲われるという短編。

21歳の佐々木三冬は田沼意次の妾の子で、美しい娘ですが、とにかく剣術が大好きで、普段は男装して行動しているような人物です。

なので、真っ裸の状態の時に、突然男たちに踏み込まれても、あっという間に撃退してしまいました。

 突然、湯殿の板戸が開き、二人の男が湯けむりの中へ躍り込んで来た。
 間髪を入れず、三冬も湯槽から飛び出している。
「あっ……」
 と、叫んだのは、男どものほうである。
 彼らも、入浴中の者が、かならずしも男だと決めてはいなかったろう。
 しかし、全裸の若い女が悲鳴もあげずに、むしろ、襲いかかるつもりの自分たちを迎え撃つかたちで飛びかかって来ようとは、おもいもかけぬことだったにちがいない。
 たじろぐ二人の男を突き飛ばすようにして、三冬が湯殿から走り出た。
 一人は若い浪人。一人は見るからに無頼の中年男であったが、
「や、畜生め……」
 あわてて、三冬の白い背中へ飛びついた無頼者が、台所の土間へ翻筋斗を打つように叩きつけられ、気絶してしまった。

(92ページ、本文では「かたち」に傍点)


ちなみに、「翻筋斗」は「もんどり」です。

剣の道一筋で、少し前であれば、男に裸を見られようが気にしなかったはずの三冬ですが、今は男に裸を見られたことが、何だか妙に気になります。

それはいつしか、三冬の心の中に、ある男性が住みつくようになっていたから。今作は、三冬の仄かな恋心からも目が離せません。

作品のあらすじ


『陽炎の男 剣客商売三』には、「東海道・見付宿」「赤い富士」「陽炎の男」「嘘の皮」「兎と熊」「婚礼の夜」「深川十万坪」の7編が収録されています。

「東海道・見付宿」

前作の事件で家を焼かれてしまった秋山小兵衛は、馴染みの料亭「不二楼」の離れで妻のおはると仲睦まじく暮らしています。

ある日、息子の大治郎が朝早くやって来ました。昨夜、何事かが起こったようです。

「夜狐が若い女にでも化けて、お前のふとんの中へでも、もぐりこんで来たのかえ?」(8ページ)とからかう小兵衛を黙殺して、大治郎は昨夜の出来事を話し始めました。

小間物屋(化粧品や日用品など、こまごましたものを売り歩く仕事)の平吉という男が、旅先の旅籠で預かったという、大治郎に宛てた浅田忠蔵からの手紙を持って来たんですね。

忠蔵は、かつて大治郎が武者修行のために全国をまわっていた頃、とてもお世話になった剣の達人。

身動き出来ず、助けて欲しいという内容の手紙だったのですが、不思議なのは、それが忠蔵の字ではなく、女の筆によるものだったこと。

一体、忠蔵の身に何が起こったというのか? 大治郎は小兵衛に代稽古を頼むと、平吉が手紙を預かったという旅籠に向けて早速出立して・・・。

「赤い富士」

「不二楼」の亭主、与兵衛から池大雅(いけのたいが)の描いた富士の絵を見せられた小兵衛は大層気に入ってしまいました。

その絵を譲ってほしいと頼んだのですが、与兵衛はこれは手放せないと言って帰ってしまいました。おはるは、「先生が、あんまりほめるから、手放すのが惜しくなったんだよう」(55ページ)と言います。

その与兵衛にある事件が起こりました。大井半十郎という侍から、二百両をゆすられたのです。

事の発端はある時、同業者の寄合いで、三河屋八右衛門という男に声をかけられたこと。

三河屋八右衛門に誘われるままに、与兵衛は、金に困った「さる御大名奥女中」(70ページ)と料理茶屋でひそかに関係を持ちました。

非常にいい思いをしたと喜んでいた与兵衛ですが、その奥女中の兄を名乗る侍が、家内で立ってしまった噂をもみ消すためにお金が必要だと、脅しにやって来たのです。

女を買ったことが妻に知られたら問題ですし、何より店の評判を落としてしまいかねません。一体どうすればよいのか、頭を抱える与兵衛に、小兵衛は助け舟を出してやることにして・・・。

「陽炎の男」

自宅で風呂に入っている時に男二人に襲われた佐々木三冬は、何とか撃退したものの、「あの無頼どもが、また、あらわれて何をするか知れたものではない」(96ページ)と考え、すぐさま秋山小兵衛に知らせました。

三冬は以前、小兵衛に危ない所を助けられ、小兵衛の腕前に尊敬の念を抱いているのです。しかし、やって来たのが息子の大治郎だったので、少し不満げな三冬。

用心のために大治郎は泊まってくれることになりました。三冬は隣の部屋で寝たのですが、襖(ふすま)ごしに大治郎の寝息が聞こえて来ます。

眠ろうとする三冬ですが、男たちに裸を見られたことが妙に気になって仕方がありません。挙句の果てには、眼を閉じると、曲者の顔が大治郎の顔に変わるのです。

大治郎の出て来る何だかいやらしい夢を見てしまった三冬は、翌朝大治郎と顔をあわせると、なんだかおかしな態度を取ってしまうのでした。

「たのみましたぞ」
 と、今朝は妙に肩をいからせ、いつもの男ことばも何か、ぎこちなく感じられる。
 そのくせ、大治郎が何かいいかけるたびに、面を伏せたり、急に顔を赤らめたり、そうかとおもうと両肘を張り胸を張って、強張った声で受けこたえをするのである。
(おかしな三冬どのだ)

(103ページ、本文では「男ことば」に傍点)


一方、三冬が暮らす家の、元の持ち主である井村松軒とそのその一味は、家の中に隠してあった三百両を取り出そうとしていて・・・。

「嘘の皮」

小兵衛は暴漢に囲まれて痛めつけられている若侍を助けてやりました。すると、その若侍は小兵衛の弟子の村松佐馬之助の子、伊織だったのです。

佐馬之助は兄が亡くなると、その妻を娶り、兄の子である伊織を養子にしました。伊織を立派な侍に育て上げるのが、佐馬之助の何よりの楽しみ。

しかしその伊織に、一体何があったというのでしょう?

小兵衛が何故殴られていたのか話を聞いてみると、伊織が汁粉屋で知り合い、親しくなったお照が原因であることが分かりました。

お照はこの辺りで有名な香具師(やし。縁日で興行などをすること)の元締め、鎌屋辰蔵の一人娘だったんですね。幕臣の息子と裏社会の娘が結ばれるわけはありません。

「できたものは仕方がねえ。村松伊織が、お照を女房にして、きちんと祝言をあげようというのなら、何もいわねえ。だが、おれのむすめに手をつけておきながら、これを遊び事ですまそうというのなら、捨ててはおけねえ。たとえ相手が将軍さまのせがれでも、おれはゆるせねえ。かならず、殺してやる。それが、この稼業の掟だ。鎌屋辰蔵の意気地だ」
 虚勢ではない。辰蔵は、その覚悟をしていた。

(149ページ、本文では「できたもの」「きちん」「せがれ」に傍点)


何があっても伊織の息の根を止めようとする鎌屋の一門。辰蔵の言い分にも一理あると思わずにはいられない小兵衛でしたが、まさか放っておくわけにもいかずに・・・。

「兎と熊」

仲良しの町医者、小川宗哲の元へ遊びに行った小兵衛は、宗哲が何やら悩んでいるらしい様子に気付きます。

宗哲がようやく打ち明けたのは、弟子の村岡道歩が悪人に脅されているということ。道歩の娘の房野がさらわれ、毒薬を調合するように強要されているというのです。

それからしばらくして、宗哲が道歩の所へ、医者見習いの秋山小太郎という若者を連れて来ました。

「では、小太郎。一生懸命にやれ。先ず十年は辛抱をして、道歩先生から離れるな。さすれば必ず、ひとり前の医者になれよう」(197ページ)と言い残して、宗哲は帰って行きます。

この小太郎は何を隠そう大治郎なんですね。道歩は秋山親子のことを知りませんが、恩師宗哲を信じ、娘の命運を託すことにして・・・。

「婚礼の夜」

大治郎が武者修行で諸国を周っていた頃に知り合い、親交を深めている35歳の浅岡鉄之助は、剣の腕はなかなかに立つのですが、風采の上がらない人物。

そのため仕官が適わず、いまだに方々の道場で剣を教えるという、あまりぱっとしない生活を送っています。

鉄之助が身を寄せている道場の主、金子孫十郎は鉄之助のことが気に入りました。そして、門人の西山団右衛門の娘千代乃のことを思い出します。

千代乃は22歳。「体格が立派で、縦にも横にも量感がありすぎる」(242ページ)ため、今まで縁談がなかなかまとまらなかったのです。

「浅岡と千代乃どのなら、きっと、うまくゆく」(242ページ)そう思った孫十郎は、両者に話を持っていき、とんとん拍子に鉄之助が西山家に婿養子になる話がまとまりました。

しかし、その頃、鉄之助に逆恨みを抱き、復讐しようとしている人物がいることに、大治郎は気付いて・・・。

「深川十万坪」

小兵衛は橋の上で、三人の侍と揉めているお婆さんの姿を目撃しました。

お婆さんは、別に武芸のたしなみがあるというわけでもなさそうですが、とにかく力が強く、侍を持ち上げては、次々と川へ放り込んでいったので、小兵衛は驚きます。

一体侍とお婆さんとの間に何があったのか周りの人に尋ねると、どうやら町家の娘をからかっていた三人の侍に、10、11歳ほどの少年が立ち向かっていったらしいんですね。

今度はその少年が痛めつけられ始めたので、お婆さんがかばってやったと、そういうわけらしいのです。

「三好町の大島屋という枡酒屋の金時婆さん」(287ページ)という、この辺りでは有名なお婆さんだということが分かりましたが、小兵衛は少し心配になりました。

恥をかかされた侍たちが、このままお婆さんを放っておくでしょうか? お婆さんの元を小兵衛が訪れると、不安は的中し、何者かが押し入って来て・・・。

とまあそんな7編が収録されています。一番印象に残るのは、やはり「陽炎の男」でしょう。

男の恰好をし、男顔負けの武芸を身に着けている三冬が女心を覗かせるという非常に面白い短編で、大治郎のことを意識し始めると、妙にぎこちない態度を取ってしまう三冬がなんだか微笑ましいですね。

物語として面白いのは、「嘘の皮」です。

身分制度がはっきりしていた江戸時代ですから、国家公務員の息子とヤクザの娘とも言うべき伊織とお照の関係は、ある意味ではシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』以上に難しい状況と言えるでしょう。

そんな難しい状況を、小兵衛はいかにして丸くおさめようというのでしょうか? タイトルの「嘘の皮」の意味も気になりますね。

ぼくが好きだったのは、「婚礼の夜」です。

不器用な剣客、浅岡鉄之助の物語でありながら、鉄之助は自分の身に危険が迫っていることを全く知らないんですね。

大治郎が自分のために命をかけて動いてくれていることも、勿論知りません。恩を売るわけでもなく、感謝を求めもせず、友のためにただ黙々と行動する大治郎に胸が熱くなること請け合いです。

読みやすく、面白いシリーズなので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、上田秋成『雨月物語 癇癖談』を紹介する予定です。