ロイス・ローリー『ギヴァー 記憶を注ぐ者』 | 文学どうでしょう

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ギヴァー 記憶を注ぐ者/ロイス ローリー

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ロイス・ローリー(島津やよい訳)『ギヴァー 記憶を注ぐ者』(新評論)を読みました。

トマス・モアの『ユートピア』のコメント欄で、aoiさんに紹介してもらった本です。どうもありがとうございます。早速読んでみましたよ。

一応本の領域としては、児童文学あるいはSFに分類される作品だと思いますが、子供が読んで面白いのはもちろん、ある意味において、大人が読んだ方がより面白く感じられる本なのではないかと思います。

テーマとしても単にSF的な世界が描かれているということに留まらず、ぼくらが生きていくにはなにが必要か? という普遍的かつ本質的な問いかけがなされているので、児童文学やSFが苦手な人でも大丈夫です。

活字も大きいですし、250ページくらいの作品なので、興味を持った方はぜひ読んでみてくださいね。

『ギヴァー 記憶を注ぐ者』の内容をどこまで紹介するかは難しくて、やはりあまりストーリーを知らないで読んだ方が楽しめると思うんです。とりあえず全体的な世界観をざっくり言うと、〈ユートピア〉的な世界です。

この場合の〈ユートピア〉はトマス・モアの著作を離れて、一般的な用語として使っています。いわゆる理想郷ですね。本当に幸せな生活だと思います。すごくいいです。

ユートピア〉を描いた小説というのは、多くが独裁的な管理社会であって、〈ユートピア〉として描かれれば描かれるほど、その欺瞞のようなものが見えてくる仕組みになっているんです。いわゆる〈ユートピア〉の逆の〈ディストピア〉の世界。

もちろん『ギヴァー 記憶を注ぐ者』もそういった要素がないわけではないんですが、少し印象は異なります。管理社会であるとしても、その倒すべき対象のようなものは既に失われてしまっていて、本当に穏やかな生活がそこにはあります。

『ギヴァー 記憶を注ぐ者』の〈ユートピア〉は、管理されることにより成立している〈ユートピア〉なのではなくて、なにかが失われてしまっている〈ユートピア〉なんです。

それは、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』と似ているというか、『一九八四年』の中で独裁政権がやろうとしていたことと共通していて、それは言葉を失くしてしまえば、概念は失われるということ。

特別な少年である主人公のジョナスは、周りと違ったものを感じられるようになります。ジョナスは両親にある言葉を使って問いかけます。ところが両親はその言葉と概念が分からないんですね。こんなやり取りが印象的です。

「お父さんはね、あなたがすごく抽象的な言葉を使ったと言ってるのよ。今では意味がなくなって、ほとんど使われない言葉ですもの」母がていねいに説明した。
 ジョナスは両親をじっと見つめた。意味がない? ジョナスにとって、あの記憶ほど意味にあふれたものはそれまでなかったのに。
「それから、わかってると思うけど、言葉を正確に使わないとコミュニティがうまく機能しなくなってしまうわ。あなたはこうきけたでしょう、『ぼくといて楽しい?』と。答えは『楽しい』よ」母は言った。
「あるいは」と父が続けた。
「『ぼくの達成したことを誇りに思う?』とね。そうしたら私は心の底から答えるよ。『誇りに思うよ』とね」(178ページ)


『ギヴァー 記憶を注ぐ者』の中の〈ユートピア〉は、〈同一化〉というのが1つのキーワードになっています。子供を産む仕事の人がいるので、子供は自分で産むものではなく、与えられるものになっています。なので、家族構成はほとんど同じです。

子供が何歳の時になにをするかは厳格に決まっていて、〈12歳の儀式〉では、その人にあった適性の仕事が告げられます。最低限の人間しかいないので、仕事がないというようなことはなく、自分にあった仕事ができるんです。それってすごくいいですよね。

ハクスリーの『すばらしい新世界』と同じように、いらいらなどの感情は薬で制御できます。それから家族の間に隠し事はないんです。〈感情共有〉といってちゃんとすべてを話し合うから。怪我をしても周りの人々がすぐ薬を塗ってなおしてくれます。そんな穏やかで幸福な世界です。迷いや悩みは1つもありません。

どうですか、〈ユートピア〉として結構よくないですか? 管理社会というよりは、それぞれがそれぞれの適性にあった仕事をして成立している社会です。幸福な家族生活が確実にあります。危険やトラブルはまったくありません。わりといい世界だと思います。

もちろんそうした〈ユートピア〉が素晴らしいという小説ではなく、この世界に「ノー!」を突きつける小説なわけです。その「ノー!」の理由が他の〈ディストピア〉ものとは少し違っていて、管理社会への「ノー!」ではなく、失われてしまった〈なにか〉に対しての「ノー!」です。

それこそがこの小説の最も面白い部分であり、それはぼくらが生活の中でもしかしたら無造作に扱ってしまっているかもしれない〈なにか〉です。この本を読んだら、もう一度再確認してみたくなる〈なにか〉。果たしてそれは一体?

作品のあらすじ


物語の主人公はジョナス。両親と妹と幸せに暮らしています。もうすぐ〈12歳の儀式〉で仕事が告げられることもあってそわそわしています。

友達のアッシャーとレクリエーションの時間にリンゴでキャッチボールをして遊んでいた時のこと。リンゴの一部が変化したように感じます。一体その変化がなにかは分かりません。

〈12歳の儀式〉が執り行われ、子供たちに次々と仕事が告げられていきます。ところが、ジョナスだけが飛ばされてしまうんです。ジョナスが動揺していると、一番最後に、ジョナスが〈レシーヴァー〉に選ばれたことが発表されます。

コミュニティには特別な人間が1人だけいます。それが〈レシーヴァー〉です。〈レシーヴァー〉は代々記憶を受け継いでいるんです。〈レシーヴァー〉が長い勤めを果たし、高齢になると〈ギヴァー〉になって、新しい〈レシーヴァー〉に記憶を託します。

記憶の託し方は、裸の背中に両手をあてて、断片的な記憶を流し込むというやり方。たとえば一番最初に託されたのは、雪の日に丘で橇に乗った記憶。ジョナスは、〈雪〉も〈丘〉も〈橇〉も知らないんです。記憶を託すと、その記憶は〈ギヴァー〉からは失われます。

〈レシーヴァー〉になり、記憶を託されていったジョナスが気づいたものとは? そして徐々に分かってくる〈レシーヴァー〉の役割とは? 平穏な暮らしのある〈ユートピア〉の裏側に見えた怖ろしく、心揺さぶられるものとは一体?

ぼくらはリンゴの変化がなんだったかを知った時、この小説全体の印象ががらりと変わります。コミュニティでは失われてしまっていたもの、そしてジョナスが見つけた大切な〈なにか〉をぜひみなさんも見つけてください。

『ギヴァー 記憶を注ぐ者』はすごく面白い小説です。でもあまりにも絶賛されていると、ひねくれ者のぼくはちょっと違ったことを言いたくなるので、多少言いましょう。

すごく明解なメッセージは伝わってくるんです。痛いくらい伝わってきます。ただある一面において、この物語内の〈ユートピア〉は、ぼくらの今生きる現実世界に「ノー!」を突きつけた上での答えだったと思うんです。そしてそれはある意味においてはすごくいいことです。

混乱と混沌に満ちた戦争と、穏やかで幸福な平和があるとしたら、みなさんはどちらを選びますか? もちろん平和ですよね。ぼくもそうです。つまり平和な世界はどうすれば作れるかと考えていった結論がこの世界の〈ユートピア〉であることは間違いないです。

ジョナスがこの〈ユートピア〉に突きつけた「ノー!」はメッセージとしてはぼくらに伝わります。ぼくらの現実世界の大切なものをもう一度見つめ直すきっかけにもなります。

ところがそれはある意味においては、平和な生活を捨てて、再び混乱と混沌に満ちた世界に乗り出すことを意味しているわけです。

つまり単なる感動や素晴らしい話として喜んでいることに対して、やや疑問が残らないでもなくて、ジョナスが選んだ道、望んだ世界はそれはそれでいいと思いますが、それを選択した上でどんなことができるのかは、考えていく必要があるとも思います。