ヘンリー・D・ソロー『ウォールデン 森の生活』 | 文学どうでしょう

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立宮翔太の読書ブログです。
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ウォールデン 森の生活/ヘンリー・D. ソロー

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ヘンリー・D・ソロー(今泉吉晴訳)『ウォールデン 森の生活』(小学館)を読みました。

本好きにも大きく分けて2種類の人間がいます。物語が好きな人と、知識を求める人。一口に本といっても様々な種類がありますよね。物語の中に様々な知識の要素が入ることもありますし、学術書や歴史の本の中にエピソードとして物語の要素が入ることもあります。

もちろん重要なのは、どんな種類の本があるか、ではなくて、読書をする人がなにを求めているか、の方です。知識を求める人にとっては、物語はさほど重要ではないですし、物語が好きな人は知識をそれほど重要視しないのではないかと思います。

文学作品というのは、その辺りの懐が深くて、物語好きの人は物語を、知識が好きな人は形而上学テーマ(神はいるかいないか、人が生きるとはなにか、など観念的なもののことです)を考えていけるので、双方をともに楽しませてくれます。

ドストエフスキーなんてまさにそうですよね。ただそれは残念なことに双方の話の噛み合わなさに繋がってしまうこともあります。ドストエフスキーは哲学的テーマで議論されることが多くて、ストーリーを楽しみたいぼくを時に戸惑わせます。それはまあともかく。

ぼくは圧倒的に物語が好きな読書家で、歴史とか宗教とか哲学とかを多少なりとも囓ろうと思っているのは、物語をより深く楽しみたいからです。そうした知識はあればあるほど読書は楽しくなると思います。

絵画もそうですよね。文学、絵画、あるいは音楽などもそうかもしれませんが、西洋の芸術というのは、キリスト教とギリシャ神話の知識が、ある程度必要不可欠だろうと思います。

その辺りに興味はあるけど、どこから手をつけていいのやら途方に暮れているんだよ翔ちゃん、という人は、阿刀田高の本がわりと入門によいと思いますよ。

ギリシア神話を知っていますか (新潮文庫)/阿刀田 高

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阿刀田高の知っていますかシリーズは、新潮文庫なので手に入りやすいですし、旧約聖書、新約聖書、コーランなど色々あって、読みやすく、分かりやすく、面白いです。まあちょっと話がずれました。

物語を求める読書に対して、こんな批判はありえます。たとえば、「恋愛を描いた小説なんて、何冊も読む必要ないじゃないか。大体同じパターンなんだし、空想で楽しむより、現実で恋愛した方がいいに決まってるよ。どうせ同じ本を読むなら、知識が増える本の方が何百倍もいいじゃないか」とかなんとか。

それはある意味において、その通りだと思います。物語というのは、ぼくらの感情を揺さぶってくれます。ぼくらの代わりに愛を歌い、義に死にます。現実とは違う、ぼくらが見たことのない世界をぼくらに擬似体験させてくれる面白さがあります。

一方で、知識のための読書というのは、それとはやや違っていて、読むことによって動かされるのは感情ではなく、ぼくらの考え方です。考え方が変わるということは、世界の見え方が少し変わるということを意味しています。つまり、ぼくらの現実世界を動かす力があるんです。

ソローの『ウォールデン 森の生活』はおそらくそういう本の1つだろうと思います。

『ウォールデン 森の生活』というのは、小説ではなくて、作者であるソローが森で暮らした生活を綴った本です。町の暮らしを捨て、ウォールデン池のそばで暮らすんです。自分で家を立て、必要最低限のものを食べ、釣りをし、時にはホメロスや中国の古典など本を読み、様々な思索にふけります。

ソローが森で暮らしたのは2年間ですが、季節としての重複はないので、その点は1年間のような感じでまとめられています。

森での生活はとても魅力的です。鳥たち、植物、冬になって凍ったウォールデン池。毎日同じコースを歩いていると、いつしかそこは道になります。当たり前のことですが、それだけで感動的に感じられます。

もちろん森での生活が描かれていることだけに意味があるわけではなくて、この本はなんのために書かれた本かというと、町での生活、人々の生活を批判しているわけです。食べ物は最低限でいいじゃないか。それほど着飾らなくてもいいじゃないか。人が生きるということには、もっと大切なものがあるんじゃないか。

ぼくらが普通に生きていては気がつかないことを、森の生活を通してソローは発見するんです。いわば急ぎ足で通り過ぎる毎日で、ちょっと立ち止まってみるようなものです。周りを見回してみる。こんなところに花が咲いてた、今日はこんなに空が青く美しい。そうしたことを感じることによって、ありふれた日常、平凡な人生がちょっと違った風に見える。そんな本です。

どうですか? 興味があったらぜひ読んでみてくださいね。岩波文庫で上下巻もあるようですが、翻訳としてどちらがいいかは分かりません。ぼくが読んだ小学館のものはサイズが大きく、値段も高いですが、同じページの中に注や図などがあるので、わりと読みやすかったですよ。

ここから少し話は変わります。なぜこの本の紹介の前に2種類の読書家がいてうんぬんかんぬんということをだらだら書いたかと言うとですね、ぼくはダメなんですよ。ストーリーがないともう全然頭が回転しませんねえ。

前々からそれは分かってたんで、ずっと『ウォールデン 森の生活』はスルーしていたんですが、先月〈アメリカ文学月間〉でアメリカ文学を色々読んでいたら、『ウォールデン 森の生活』が言及されることが意外と多かったんですね。それで初めて読んでみたというわけです。

決して面白くないわけではなかったです。好きな人は好きな本だろうと思います。ただ残念ながら、ぼくにはなかなかピンときづらい本でした。これは単純にぼくが小説じゃないとダメという性質の問題だろうと思います。

大体、森での生活の紹介で、「鳥たち」「植物」と漠然と書いている時点で、いかに森の生活が印象に残っていないかがわれながら分かります(笑)。いや森での生活は魅力的だったんですけど、印象としてはあまり残ってないです。

でもちょうどいい時期に読んだなあと運命的なものを感じます。ぼくはずっとソローは老人になってから森で暮らしていたかと思っていましたが、30歳の少し手前なので、結構若いです。27歳とか28歳とかその辺りだったと思いますが、まさにぼくとほぼ同世代の時の話なんです。

少し古い時代の、しかも外国での話ですが、同じ年の頃に森で生活していた人がいる。そう考えただけで、なんだか不思議な気がします。ぼくだったら森で生活していけるかなあ? そんなことを考えたりもしました。

みなさんは森で生活できますか? ファッションにこだわりたいとか、おいしいものを食べたいとか、そういうのがなければ、わりと楽しそうな生活でしたよ。友達と会えないとかそういうわけでもなくて、友達が訪ねてきてくれたりもするんです。

ソローは大学図書館に本を借りに行ったりしてるんで、本を読める穏やかな環境があるとするなら、わりとよさそうですけどね。でも暑かったり寒かったりするんでしょうね。太陽にあわせて生活しなければならないのはあれですが、でもそれが一番健康的でいいことなのかもしれません。

ぼくが『ウォールデン 森の生活』を読んで考えていたのは、中国の思想家のことです。ちょっと意外ですか? でも実際に『ウォールデン 森の生活』の中でたくさん中国の思想家の言葉が引かれていたように、こうした俗世間の物事を捨てて生きるというのは、宗教における修行か、あるいは中国の思想家のとった行動に似ている部分があります。

ぼくもまだちゃんと原典を読んだわけではないので、あまり胸を張って言えませんが、聞きかじり、あるいは断片的に読んだ限りでは、荘子に一番心惹かれるものがあります。

荘子は〈無〉に意味があると言った人です。たとえばコップなど器でぼくらはその器自体を見てしまいがちですが、実際に一番大切なのは、空いている空間そのものです。つまりその〈無〉がなければ、器は器たりえないんです。

車輪も同じです。真ん中に空洞がなければ、まったく車輪としての意味はなさなくなります。こうした〈無〉とか、無駄なことをぼくらは効率化し、生活の中から排除しようとしてしまいがちですが、実はそこに一番大切なことがあるかもしれないんです。

荘子の思想に影響を受けて書かれた面白い本があります。みなさんご存知の『徒然草』です。『徒然草』は同じ随筆とは言え、『枕草子』とはまったく違います。

枕草子』は感性で書かれた本です。いわば平安時代の文化を作者の清少納言が好き、嫌い、で分類したような本なんです。もちろんそのことに面白みはありますが、平安時代の文化をぼくらは直接的に知っているわけではないので、注を参考にしながら暗号解読的な読みをしなければならないという困難さがあります。

一方で、『徒然草』に貫かれているのは、ある種の思想です。人はどう生きるべきか。所有せず、執着せず、こだわらない。そうした思想が、エピソードとして書かれているんです。このエピソードは、小話的なユーモラスさがあるんです。

たとえばですね、もうぼくはうろ覚えですが、あるお坊さんがあるお寺に行くんです。狛犬というのがありますよね、お寺にあるなんか犬の像みたいなのがあるんです。あれがそれぞれ反対側を向いているんです。お坊さんは感激します。きっとなにか言われがあるんだろうと。

そしてその言われを尋ねると、その寺の人は「なあに、子供たちのいたずらですよ」と言って、向きを元に戻します。ぷっ、くくく。面白いなあ。これは原文で読んだ方がもっと面白いです。ものものしい古文で書かれているので、より一層おかしさが増します。普段絶対ジョークを言わない人が真顔でギャグをするようなものです。

徒然草』は短い小話が続いている形式なので、読みやすいですし、面白いです。機会があればぜひ読んでみてください。

ぼくは荘子とか、『徒然草』の方が『ウォールデン 森の生活』より突き抜けた虚無感みたいのがあって好きですし、町を離れた生活という点では、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の無人島1人暮らしの方がもっとタフで、劇的で、面白いと思います。そういった比較があるので『ウォールデン 森の生活』がぼくの中でさほどヒットしなかったというのもあるのかもしれません。

この『ウォールデン 森の生活』、荘子の思想、それからトマス・モア『ユートピア』などを読んで分かったことがあるので、それを最後に少し書いておきます。

ユートピア』のユートピア人は最初から物欲がないんです。ぼくはその物欲のなさに、ロボットを見るような不気味なものを感じてしまいました。

『ウォールデン 森の生活』でのソローは決して物欲のない人間ではないですが、それをあえて捨てようとします。ユートピア人もソローもあるいは荘子も、取っている態度は同じです。物にこだわらない。でも元々感情がないのと、自分で律して感情を制御しようとするのは、同じようで大きく異なります。

同じようなことで印象的だったのが、キプリングの小説『少年キム』のラマです。ラマというのはチベットの僧ですが、殴られても怒ってはいけないというんです。怒りを捨てれば、単なる肉体の痛みにすぎないと。

止むに止まれぬ欲望や悲しみ、苦しみ、絶望など辛いことは人間誰しもあります。でもその欲望や辛さを感じないのではなく、感じながらもそれをどうにかコントロールしようとすることにこそ、大切ななにかがあるのだと思います。

これは一歩踏み込めば宗教的な話になってしまいますが、日常生活でも大事なことだと思います。

仕事、学校、生活していく上での様々なトラブルがあります。人間関係でのトラブルもあります。でもそんな時にちょっと深呼吸して、自分の気持ち次第で状況が少しでも変わらないか考えてみるとよいのではないでしょうか。

きっとそれだけで、なにかが変わるはずです。

『ウォールデン 森の生活』は物語でないが故に、ぼくにとってはそれほどヒットしない本ではありましたが、森での生活に興味のある方、人生を違った角度から見直したい人はぜひ読んでみてください。少しだけ自分の見える世界が変わるかもしれない本です。

明日は、J.D.サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』を紹介する予定です。