医療と需要と制度 | 秋山のブログ

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塩沢教授にお題をいただいたので、表題の内容に関して考察して書いてみたい。

医療に関しては本業であるが、実はあまり題材にしていない。医療介護について以前書いたものへのリンクをとりあえず貼っておく。
日本の医療システム介護の話1介護の話2医療費亡国論読売新聞の社説批判医師不足について

現在の日本の医療は、需要自体は膨らんでいる。一人当りの受診回数も、平均入院日数も、使用する薬の量も、高額な検査が行われる回数も、他国の数倍である。このような状況になったのは、現行の皆保険制度のおかげである。徐々に上がっていく窓口負担であるが、何十年も前は窓口負担がゼロの人間もたくさんいた。それは実際、限界まで要求できるということを意味する。そしてその時作られたの医療に関する需要は、支払いが増えるようになってもあまり下がっていない。

窓口負担が低いだけでなくて、保険点数、すなわち医療の公定価格自体が、これまた他国の追随を許さないくらいに低い。保険点数は、必要な経費から計算されているのではなく、それまでの経緯と、総枠が一定枠を超えないように決められるので、需要に対応が困難な状況、すなわち供給力不足に陥っている。解決としてはただ点数を適切にあげればよいだろう(実質、国の支出増)。供給力不足を補うために雇用は生まれるだろう。

制度によって、雇用や賃金アップをおこさせた別の例として看護師の配置人数の話がある。患者数と看護師の数の比によって取れる入院費用を変えたのだ。ようするに多ければ手厚い看護を受けられるということからだ。その結果、都心部では看護師争奪戦が始まり、賃金も大幅に上昇した。同じような話で、理学療法士がいればこの料金が取れるとかの話で、これも取り合いになったことがある。このやり方は医療以外でも参考になるかもしれない。

高度医療の混合診療は、あまり意味が無い。既に治療が行われるようになっているのに、まだ保険収載されない高度医療が自由診療で既におこなわれている(民間保険もそれを既に利用している)。そしてその自由診療の価格にして既に良心的な価格である。自由診療である出産費用が、異常分娩時の出産の保険点数や出産一時金の影響を受けるように、日本の常識的な価格にしかならないだろう。(高度医療の医療費に占める割合は微々たるもので、結局は普通の医療、日本では当たり前におこなわれているが外国では贅沢な医療を外すことを、混合診療解禁が目的にしていると、医師は見抜いている)

最後に現在の医療に関する状況をまとめてみる。
以前、多くの国民が最大限の医療を受けられるシステム作りに成功していた。もともと一人一人の生産性が高い現代人にとっては余裕で提供できるはずのものである。もちろんその代価として各人相応のものは払ってきた。確かに少子高齢化や、医療の高度化によって、より多くのものを払わなくてはいけなくもなっている。しかしそれは総供給力が追いつく限りは本来問題がないはずのものだ。何故上手くいかなくなったかを考えれば、累進課税を緩和したり、法人税を減税したり、消費税や各種公共料金を上げたり、再分配に逆行する政策を取ってきたからである。その結果、低中所得層の人間は通常の生活に必要なものを選ぶか医療を選ぶか考えるほどの状況に追い込まれた。医療側も、集約化など効率をはかる手立てをとって、より少ない費用で最大限の医療を提供できるように努力はしている。しかし効率化による生産性の上昇を上回る費用のカットにより、赤字病院が相次ぐことになっている。
需要と供給を管理するために、医療のシステムは、システムとしてはもともとたいへんよくできている(医療の儲けすぎも防ぐことができる)。新自由主義者にとっては、社会主義的にうつるかもしれないが、その成果はソ連等々におこった非効率とは真逆であり、医療に関しては米国は論外、他の素晴らしいと言われている国々と比べても上回っている。ただし、そのシステムも経済が正しく調整されていなくては崩壊の可能性があるということだろう。中間層以下から富を吸い上げているものから取り上げてまわすか、中間層以下が富を吸い上げられるのを防げば解決するだろう。
なおこれは、介護の新規に立ち上げが雇用を創出したように、育児、教育でも応用は可能であると思われる。