文教祖は予言書に出てくる再臨主なのか?(8) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

■統一信者として学ぶべきことに「予言書」と「先祖崇拝」をなぜ入れたのか?

1998年11月19日「第39回「真の子女の日」記念礼拝のみ言葉」で、文教祖はこのように語っています。

『皆さんの家庭が天国に行くことのできる、りっぱな家庭になることを願いながら、第四十回「真の子女の日」を過ぎて、四十一回から四十三回までにすべてを整理しなければなりません。いつもこのような集まりに来るときは、一人で来るのではありません。先祖を連れて、一族を連れて、後孫の道をならすために来るのです。アダム家庭で孫を考えることができなかった基盤を、今日、皆さんの家庭において成し、その基盤を地上天上天国完結のために、霊界と現在の国と自分の後孫が合わせて喜びの祭物として天の前にささげる時間であるということを考えなければなりません。集まるときには、いつもそのように考えるのです。

 (板書されながら話される)

 一番目は予言者(『彼は誰なのか』)
 二番目は父母天国論(『地上生活と霊界』)
 三番目は李相軒氏の霊界の証言(『霊界の実相と地上生活』)
 四番目は『父の祈り(孝心編)』です
 五番目は「ジャルジン宣言」(第一宣言から第四宣言まで)
 六番目は「コディアク宣言」(『四・四節』宣布の内容)
 七番目は一九九八年十月五日、秋夕(陰暦の八月十五日、先祖に祭祀を行う韓国の名節)の「全体解放統一式」です。


先祖を崇拝しなければなりません。

以上の内容を、しっかりと学んでください。
 アダムの生まれた日、アダムの結婚した日、アダムが死んだ日がなければならないのですが、その日がありません。生活の記録がないのです。しかし、それは神様に必要ありません。
 真の父母のときにおいて、真の父母が生まれた日と、真の父母が結婚した日と、真の父母が死んだ日と、真の父母の生活観を残すのです。皆さんは、それを守らなければなりません。新しい愛の世界をつくっていて、真の父母が生まれた日と、真の父母が結婚した日と、真の父母が死んだ日と、真の父母の生活観を残すのです。皆さんは、それを守らなければなりません。新しい愛の世界をつくってこそ天国に行くのです。
 先生が願う以上の息子・娘になりたいという人はいますか? 「なりたい」というのは希望なので、未来のことですから大丈夫です。「なりたい」という人は、手を挙げてみてください。一所懸命に努力してください。』



予言者『彼は誰なのか』は、光言社から1998年10月2日に発行された韓国人の具成謨氏の著書です。このみ言葉が、語らられたのが1998年11月19日ですから、光言社から発行された直後です。(※文教祖は予言書に出てくる再臨主なのか?(1)を参照)この具成謨氏の『彼は誰なのか』の根拠としている「格菴遺録」はニセモノだということが分かっています。

しかも予言書本は、一般書で原理とは関係ありません。ただ、文教祖がメシアであると予言されている本であるというだけです。正統なメシアであるなら、予言書本をわざわざ教会の光言社から発行させなくても、2000年前のイエスのときのように、その言動で自然に人は引き寄せられ集まるはずでしょう。

もうひとつは、統一教会は「先祖崇拝」の宗教であるということです。
先祖(人類始祖)は天使との淫行で堕落し、サタン(悪魔)の血統を受け継ぎ、万物以下にまで落ちてしまったはずです。しかし、その堕落した先祖を崇拝しなさいとは、どういうことなのでしょうか?ただ、韓国の伝統(慣習)だからという理由なのでしょうか?

本来キリスト教には先祖供養の教えがありません。韓国でも、キリスト教信者は先祖祭祀(儒教の先祖霊崇拝)をしない人もいます。先祖崇拝はインド仏教の開祖釈迦の教えにもありませんが、仏教が中国を通過して韓国に伝来する際に、仏教+儒教(先祖崇拝)が融合して今の形式になったと言うのです。

ですから、統一教会(文教祖)は、聖書に出てくる人物と、文教祖を重ね合わせて、復帰摂理を説明していますが、キリスト教の伝統を受け継いでいるというより、いろいろな宗教のチャンポンといえます。万有原理(神の遍在)は、まさに八百神の考えそのものですが、文教祖は八百神(神社)は否定しています。

文教祖は『既成教会の牧師たちは、神様は玉座に座って、全知全能であり、遍在者だといいますが、それのどこがおもしろいのでしょうか。玉座に、王座に何万年もただ座っていたとしたなら、おしりが全部ぶよぶよになるのではないですか。皆さん、座っているのが好きなら、三日間だけ座っていてみなさい。(1989年7月2日)』と語っています。

つまり、一箇所にいる神ではなく被造物すべてに神は宿っているということです。日本人に「物に心(神)がある。だから物を大事にしなさい」と言っても違和感を感じる人はあまりいないでしょう。しかし、同じ言葉を韓国人に言っても納得できないのです。西洋人も分かりません。創造原理を勉強した韓国人は「頭」では分かるでしょうが、日本人のように代々遺伝子刻み込まれ、生活に密着して自然に発想できるわけではありません。そういう意味では日本人の感性優れているでしょう?

文教祖が生まれた当時は、日本の統治下でしたし、日本留学にも行ったので、日本人の感性を知らず知らず吸収していたのかもしれません。神社や八百神に関しては、極端に否定しますが。

<万物に神が遍在し、万物に心があると言っているみ言葉>

『御飯を食う時に、「やあ、おう御飯、君の名前はなんか」。「御飯です」。「どこから生まれて来た」。「日本の地から生まれて来た」。「君たちのその連中はどのくらいあるか」。「ちょっと数が数えきれないのだけれども相当おります」。「何するんだ」。「わからないんだけど、こういう事やっておるでしょう」と言うんだね。(笑い)。「君はその一日中不安はないか」。「はあー、不安という、思いだせば天下誰よりも不安になるでしょう」。それは不安にならざるを得ない。自分の願いはいい人の口の中に入って、いい人の肉になって原動力になってね、善の為に働きたいのが自分の要求だけど、自分にそういう権限がない。これは、泥棒の奴も挨拶なしにポッポッとやってしまう。(笑い)。数多くの人達、いい気になって自分のその気ままにやってしまう。それを思うと癪に癪に触ってそれたまらないぐらい、歴史のその恨みを持っている。そうだろう、考えて見なよ。もしも私も君達にそうなったら堪り切れないだろう。こりゃあ、もう世界を一時のそのなんだな、デモ行進でもやるんだね。それで、「そうだったら僕は、君たちの一番親しい総指令官になろう」、命令するんだよ。「おう、世界に広がっている万民の米よ、米よ、皆、一時集合だ!」。集まって来たらどうなる? 世界万民はその一点に集まるに違いない。それで「今朝、今から一週間、今から二週間、一ヵ月ストライキだ!」。どうなるの? 世界の人達は。いくらでかばった奴でも力ないよ、もう。もうおしまいだ。自分はもうこの為に生まれたという、そういう形になってしまうんだよ。これを思うと、「ああ、米の世界はストライキないか」と思うんだね。もし、あればこれ大変だ。そうだろう。米がこれは一つそういう事やるとすれば、世界万民は米の行く通りにやるだろう。彼は米の俵がね、汽車に何に乗ったかわからないけれど、天国に飛んで行くと言うと、その人間もその死に物狂いになって追いつくだろう。考えてみなよ、そうなるかもしれない。そりゃあもう死に物狂いになって追いつくだろう。そう思うと、時々ちょっと寂しく思う時がある。ああ、統一教会の原理が米より以上のその力がないような気持ちがしてくる。(笑い)。そうだろう。米も一週間以内に、一ヵ月以内に四十日以内に世界を統一させる。そのくらい多いんだよ。
 また水をもって考えて見な。水、水。水がストライキしたらどうする? 地球の四分の三は水だよ。「おう、君、おれに負債、借金してるだろう。その負債分を提供せい」。そういう反逆したらどうするんだ。誰それもでかい顔付きは出来ないだろう。「はあ、こう負けました」って、「ああ降伏致します」。そうなるだろう。皆それ取って行けば三分の一しか残らないよ、そうだろう。それは君たちもいらないもんだよ、それは。誰もそれはいらないよ。そうなんだろう。それが黙って今までずっと何の一文句なしに供給してやると考えて見ると、実に有難いものだよ、そうだろう。
 だから水を一杯、「天の王子よりも尊い君様よ。君の願うところは何か。あんたの言う所に我行きたい」。おお、口開けてボツボツ言う。「おう、我の願いは善なる天の王様に御奉公し貢献するのが、我の願いである。君それやれ!」、水は言うんだよ。そういう真剣になって考えるような人間になったら、偉い人間になっちゃうよ。
 それから、君いくらでかい振りをしても、「日本の国とか日本の景色とかまあ、いいなあ。なんだなあ、風景はいいなあと、それに山紫水明だ」とか何とかでかいこと言っておっても、太陽が一日ちょっと考え出したら困っちゃうね。そうだろう。「何をこれこれ、何だ君たち。考える必要がある」と言って目をこんなに吊ったらどうなるの? 太陽がもしも。考えてみなよ、そうじゃないかよ。そうです?(「はい」)。そうじゃないの。そういう借金をしていながら、感謝せずして今まで生きて来たのは、それは実際それはまあ、神様に感謝すべきだね。太陽がもしも、目をつぶってしまったらどうなるの? それは、皆世界は氷の世界になっちゃうよ。君たちは冷蔵庫といっても自然冷蔵庫に皆入っちゃうんだ。何億年後に太陽が目をぱっちり開けた時にそこからまた、始生物いわゆる万物その諸々まあ生き始め出して、その時間になって人間がまた現われたならば、今のような世界を作ってそうして見た時に、ああ、その氷の角切って見るというと、君たちがのこのこやって来る。そういうにならざるを得ないよ。』


堕落論は別として創造原理は、特に日本人には受け入れやすい内容なのかも知れません。