CIAと統一教会(2) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

「CIAと統一教会(1)」では、世間で噂されているCIA等の関係について述べましたが、単に噂であるのか、文先生のみ言葉や教会員の証から検証してみたいと思います。

(過去記事)詳しくはこちらをご覧ください。
日本統一教会「空気銃摂理」の出発点(5)
文鮮明教祖と金鍾泌局長の訪米目的
CIAと統一教会(1)
ロックフェラーと統一教会史


■朴普煕氏は、アメリカ第8軍所属だった

【米第8軍とは・・・】
韓国駐留の米軍基地。第8軍(U.S. Eighth Army)はアメリカ陸軍の部隊の一つである。朝鮮戦争以降、軍司令部はソウル特別市龍山基地に駐在する。司令官は米韓連合軍司令部参謀長を兼任する。(韓国は、有事の際の「作戦権(戦時作戦統制権)」がありません)

朴普煕氏は米第8軍の国連軍司令部内米国軍事顧問団長専属副官に在任中に1957年2月に統一教会に入教しました。そのときに、米第8軍所属の軍人も一緒に入教しています。
メンバーは、朴普煕・韓相吉・韓相国・(金相仁)・金相哲・金スンファです。

『最初の原理講義を何の成果もなく聞いた後、数カ月してから今度は、アメリカ第八軍に勤務する朴普煕少佐が講義するというので聞きに行こうといってきた。その時の勧誘と導きもまた粘り強かった。東国大学入口のモクチョン洞のある小さな二階家での講義だという。その時、彼はアメリカ第八軍から来て講義をするということだった。韓相国、韓相吉、金相哲、金スンファ氏等種々の人々に会い紹介を受けた。その時の朴普煕総裁はアメリカ第八軍に勤務しておられて、アメリカ将校の正装をしたひょろ長い背丈に大きな目、そして大きなジェスチャーの雄弁調の講義は実に逸品だった。(中略)ある日曜日の午後だったと思う。何の予告もなく、韓相吉少佐(当時米第八軍に勤務していた)が仁川の朱安に行くといってさそったことがある。』
(「復活の体験を味わいながら」李済煕の証(72家庭))

『これが稷山教会の始まりでした。そして、一九六〇年十月二十日、劉孝元協会長(当時)と韓相國中佐、玉世賢おばあさんとソヌ・ジョンスン女史などをお迎えして献堂式を挙行しました。』
(「一身をみ旨にゆだねて」任導淳の証(72家庭))

『ところで、米軍がこの韓国に進駐した時、第八軍司令官であるアーノルド軍政官を中心として、大韓民国行政処を掌握して全部収拾していたのです。』
(真の御父母様の生涯路程 2より)

この証を見ても分るように、朴普煕・韓相吉・韓相国・(金相仁)・金相哲・金スンファは、米軍所属だったことが分ります。そして、最後の「真の御父母様の生涯路程」でも言っているように、米軍は韓国の行政も掌握し、支配下におくのです。つまり。韓国の政権は常にアメリカの監視下に置かれることになりました。



■米軍主導の韓国軍事政権とCICとKCIA
更に朴普煕・韓相吉・韓相国・金相仁は、諜報機関CIC(陸軍保安司令部(アメリカ陸軍防諜部隊)のメンバーだというのです。この内容は「淫教のメシア・文鮮明伝」に詳しく掲載されています。

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◎姦通事件不起訴の理由
(中略)いくら混淫血分け集団が自ら教義を神聖な教義だといってみても世間はそう甘くはない。破廉恥な事件が明るみに出ると同時に、彼らの集団は衰退か崩壊の道をたどるのが常であった。1930年代から40年代の中ごろまで隆盛をほこった(混淫血分け集団の)李龍道や黄国柱らがその例である。文鮮明一派もこれと同じ運命の岐路に立たされたわけだ。生き延びる道は権力に迎合し、その言いなりになるしかない。

◎密室の取引き
 一方、権力の側も、文がこれまでの混淫・血分け派の教祖にない、強烈な反共意識に燃えていることに注目した。文は、「北」で二度投獄され、共産党や共産主義への恨みは骨髄に達している。韓国の軍事政権の国是は反共であり、反共によって政権維持をはかっても過言ではない。そうした政権にとって、強烈な反共意識を持った文鮮明は、いわば「使えるタマ」であった。
 彼の有益性に着目したのは、おそらくKCIAの生みの親である軍の諜報機関CIC(陸軍保安司令部)であろう。1955年7月4日の文の逮捕から10月4日の「無罪」釈放までの三ヶ月間は、密室の中で極めて政治的な取引きがおこなわれたとみられる。そうした取引きの存在をうかがわせるものが文鮮明の釈放後にいくつか浮かびあがってくる。韓国軍の若手の将校、しかも諜報関係のそれが相次ぎこの組織に加入してくるのである。破廉恥な事件をめぐって噂が渦まく問題の組織に、お固い軍人の入会とは、なんとも不自然な取り合わせである。

◎KCIAとの接着剤
 統一協会に相次ぎ加入してきたその軍人達は四人。一人はのちのアメリカの統一協会の最高責任者であり、また文鮮明に次ぐ統一協会ナンバー2といわれる朴普煕。れっきとしたKCIAの要員といわれている。
 他の三人は韓相国、金相仁、韓相吉。全員がのちにKCIAの要職につく人物である。これを明らかにしたのは米下院外交委員会国際機構小委員会、別名フレーザー委員会。1976年から78年末まで、統一協会および韓国政府らによるアメリカでの違法な議会工作を調査した膨大な報告書「韓米関係の調査」のなかである。報告書はいう。
「1950年代末に、四人の英語を話す韓国陸軍の青年将校が、文鮮明のお告げを好意的に受け入れた。のちにこれらの将校はすべて1961年以降の韓国政府との重要なコネを提供することになる」
同報告書は、四人の将校の入会を1950年代末としており、正確な年を書いていないが、1955年7月の文の破廉恥な事件による逮捕のあとであることは確かである。
 1961年5月には、よく知られているように朴正煕や金鍾泌ら韓国軍内の諜報部門にいた軍人達を中心にクーデターがおこり、朴軍事政権が出現する。軍事政権の支えは、このクーデターの一ヶ月後に軍の諜報機関であるCICのメンバーを中心に創設された韓国中央情報部、すなわちKCIAであり、その初代長官が金鍾泌であった。この権力の中枢にさきの四人(朴普煕、韓相国、金相仁、韓相吉)が深い関係を持ち、統一協会とKCIA=朴政権を結びつける接着剤の役割を果たすのである。
 朴普煕は元韓国軍の諜報部員。金鍾泌も同じで、両者の関係は、軍の階級の違いはあっても任務においては同列である。他の三人についてフレーザー委員会の報告書はこう記している。
「1950年代末以来の文の支持者の一人韓相国(別名ブド・ハン)は、1961年のクーデターの首謀者でKCIAの創立者である金鍾泌の個人的な補佐となった。金相仁(スチーブ・キム)は、1961年5月に韓国陸軍から退職し、KCIAに加わり、金鍾泌の通訳となった。彼は1966年に至るまで、引き続いて金鍾泌の親しい個人的側近であった。1966年に彼はKCIA職員の地位に復帰し、その後メキシコ・シティのKCIA支局長となった。彼(金相仁)は朴普煕の親友で、統一教会の支持者であった。四人目の韓相吉は、1960年代末には、ワシントンの韓国大使館付武官であった。行政府の諸報告はまた、彼をKCIAと結びつけている」
 四人が四人ともKCIAのメンバーであり、かつ50年代末に相次ぎ統一協会に加入してきたのである。この四人をパイプにして「朴政権が権力を確立するにつれて、文は新政権との良好な連絡をもつようになった」とフレーザー委員会報告書は指摘する。
(萩原遼著「淫教のメシア・文鮮明伝」(晩声者)より)
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これを見ても分るように、朴普煕・韓相吉・韓相国・金相仁の四人が、統一教会とKCIA(韓国)、統一教会とCIA(米国)をつなぐパイプ役だったことが分ります。文教祖が、韓国の軍事政権と何らかの裏取引きがあったと見るのが妥当でしょう。