地下教会と母子協助の意味(1) | ちゃぬの裏韓国日記

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カルト統一教会と世界支配層との関係をあばく
(統一教会=世界平和統一家庭連合)

統一教会の草創期の時代(1950年代~60年代)は文先生も「母子協助」という言葉を特別な意味でみ言葉を語られていたようです。しかし、今、信者の皆さんが考えている「母子協助」とはちょっと違うみたいです。

洪順愛女史(大母様)は洪順愛の母と一緒に金聖道ハルモニの「聖主教」の熱心な信者でした。洪順愛女史(大母様)が金聖道ハルモニのことを証している部分があります。


『金聖道おばあさんが礼拝に行くと、夫は礼拝堂までおばあさんを捜しに行き、見つけ出すと、引きずり出して、たたいたり、刃物で刺したりと、おばあさんは言うに言えないほどの迫害を受けたのです。しかし、この金聖道おばあさんは、夫の迫害に屈することなく暮らしていました。日曜日になると、夫が「おばあさんはどこに行ったのか? 教会に行ったのか?」と、子供たちに聞きます。子供たちは、お母さんの味方なので「知りません」と答えると、「当然、イエスを信仰しに行ったんだろうに」と言うのです。そのおじいさんの家から教会までは、ベルベディアからイーストガーデンまでくらいの距離(注・車で五分ほど)にありました。そのおじいさんは教会まで走っていって、み言を聞いて恩恵を受けようと座っているおばあさんの髪をつかんで、犬を引きずるようにおばあさんを引っ張って家に帰ったことが、三度もあったそうです。このような徹底した信仰を持って暮らしていたので、おばあさんはさらに信仰が深まり、勇気がわいてきたのです。おばあさんは、七日断食をしながら、すべての試練を乗り越えるのに七年間かかりました。(中略)その後、天はおじいさんを打ったため、おじいさんは半身不随となりました。おばあさんは、おじいさんが半身不随になったので、思う存分教会に行っても、教会から引っ張り出されて、たたかれることはないと思い、神様の前に感謝の思いでいっぱいになりました。ですから、熱心に教会に通ったのです。』
(洪順愛の証 1975年8月10日 米・ベルベディア)

『祖母金聖道氏は、一八歳の幼いころに祖父鄭恒俊氏のもとに嫁入りした。祖母は複雑な生活環境の中で精神病になり苦しんでいたが、蘆勧士という方に按手祈祷を受けて完治した。その後祖母は一生懸命なる信仰生活を経て、私の父が病気になると祈祷で治した。そのようなことがあって祖母はさらに信仰心が篤実になり、反面祖父からの迫害はさらに酷くなっていった。教会に行かせないようにするために、祖母の服を破いてしまっても祖母は続けて教会に出掛けるので、祖父は別居生活をしようと決意して、家を建てる木を求めに行き、そこで発病して死んだ。
(鄭壽源(金聖道の孫)の証「召命されたみ旨の道に従って」)


ここで金聖道ハルモニの夫は、妻が教会に行くのを邪魔したために、天に打たれて下半身不随になりましたが、金聖道ハルモニの夫のみならず、息子の鄭錫天も半身不随で苦しんだのですが、その理由を文先生は「金聖道(母)と鄭錫天(息子)が母子協肋しなかったから」と述べています。金聖道女史は、「聖主教団」(血分け教団の一つ)の教主です。文先生は、金聖道の孫の鄭壽源氏に「血分け理論」での「母子協助」で説明しているわけです。文先生は、当時存在していた「血分け教団(神霊教団)」を総称して「地下教会」という呼称でみ言葉を語っています。(その説明はのちほどします)


『1976年11月4日、私の父(鄭錫天)が十年近く半身不随で苦しんでいたが、七十一歳で他界した。父の還暦にも参加できず五百ウォンを送ってさしあげたが、その席で父は「還暦の日に五百ウォン使えとあげる者がいるか…」と、淋しがっていたという。私は父の亡骸の前で悔い改めた。』
(鄭壽源(金聖道の孫)の証「召命されたみ旨の道に従って」)

『(文)先生が聖婚式を終えた後、洪順愛ハルモニが証をされる中で、韓鶴子さんを生んだ数力月後、私の祖母が洪順愛ハルモニの夢に現れて、『あなたが生んだ赤ちゃんはあなただけの赤ちゃんではないので、よく育てて天の前に捧げなければならない』という教えを受けたことを聞かされた。また、その時、先生が「鉄山の聖主教団の金聖道ハルモニは摂理役事の中で、初めて新婦の準備をしてきたが、鄭錫天長老と母子協肋して新郎を迎えなければならなかったのにその使命を果たせなかったために、その罪の代価として、鄭錫天長老が半身不随になって蕩減を受けた」とおっしゃった。このみ言を聞いて、私の使命と責任が莫大なることを感じた。』
(鄭壽源(金聖道の孫)の証「召命されたみ旨の道に従って」)

御父様のお話では、聖主教団の、祖母になる金聖道と私の父―鄭錫天長老、及び私の母、崔愛喜が家庭において一つとなり、主を迎えるための準備をしていなければならなかったのが、鄭錫天長老が責任を果たさなかったため、天の御旨は延長されたというのです。このように、貴い恩寵を受けても、それに報いることが出来なかった父は、その蕩減として病床にあるといいます。私達の周辺には、何時も恵まれた機会があるにも関わらず、受け入れない時は、自分に与えられた蕩減条件が尾に尾を引くということを考えながら、悔い改めを伴った信仰生活でなければならないことを痛感するものです。』
(信仰と生活 第四集)


<鄭恒俊(祖父)金聖道(祖母)- 鄭錫天(息子)崔愛喜(息子の妻)- 鄭寿源(孫)>

『私(鄭錫天)は妻である崔愛善との間に鄭寿源(三十六家庭)など二男一女が生まれた。しかし、妻が亡くなったので一九四四年金善永と再婚するようになった。そして、一九六三年二月八日金善永勧士と共に既成祝福を受けた。金善永勧士との間には●源(六〇〇〇双、国際祝福)、敬姫(一八〇〇双)、敬心(六〇〇〇双)、恩福が生まれた。私は「み旨のためにすべて捧げて何もなくなったら、天がまた下さる」と信じていた。聖主教団では牧師という名を持っていたが、統一教会に入教して長老という名を先生から与えられた。聖主教団の信仰をあきらめることができたのも、統一教会の原理が聖主教団の教理に勝るものであったからである。しかも、聖主教団の主張が統一教会によって実現されていたのである。』
(鄭錫天(金聖道の息子)「信仰の背景困難な時に得た栄光」)

「地下教会と母子協助の意味(2)」へつづく