春昼閑話 -3ページ目

嬉しいこと

底

珍しく今回は仕事のこと。

先月とあるショップで自分の手がけた商品が売られていて
またたくまに完売御礼。
それはもともとの商品力とブランド力があってのものだが
微力ながらもお手伝いさせていただいたものだったから嬉しかった。
更に、個人の方のブログ等で、私の作ったモノに対しての良い評価も
いくつか目にすることがあり、少しばかり報われた気分になった。

小さい頃からモノを考えること、作ることが好きで
大人になったらやってみたいなぁと思うだけで
あとは、学校などで声がかかったらアイデアを出したり作ったりする位で
専門的な学校へ行ったり、そんな分野への就職活動をしたり
特に具体的な努力をしていなかった、にもかかわらず
本当にひょんなことから、現在もその好きなことが仕事として成り立っている。
仕事であるから、まるまる私の表現イコールではないものもあるのだが
それでも、どこかで、街の片隅で、誰かの手に渡り見てもらっていることが
なによりも嬉しいこととなっている。

有名になりたい、とか、野望があるわけでもそんな性格でもないので
いつまで続けられるかわからないが
できればずっと携わってゆけたらいいなぁ、と思う。

昨夜見た夢のせいで書きたくなった。

それは、十代のやわらかくやさしい想い出。
昔も、今も、私を見守ってくれる友人達に、ありがとう。

今日まで。

旋回

透明がかった新芽がいよいよ緑づき
息をすればもう
空気が水っぽい終わりの春なのに
弱ったわたしの気管支はいまだ肺に
明るく清浄な空気が満たせず
擦れた息と、鈍い痛みが残るだけ。

語れるものが少なくなったわけではない。
語ろうとすれば言葉が私を傷つける。
思考が私を締め付ける。
そう思えて仕方なかった、
慎重になりすぎて答えがみつからなかった。
それは春だから?

いまだ春が続く。
延べ板のように、背を床にくっつけたまま
世界とまだ繋がっていたいと必死だった夜
声を出してあざとく泣くことが嫌い
いつまでも素顔がうつくしいと信じていた
その素顔の実は汚れていた。
数々の汚濁で。

いつも春の所為にして逃げている
笑いながら前に前に進もうとしても
いつも夢の中のように足が蔦にからまって
全身に毒のように巡りたましいが絞られて
すっと、抜け落ちる。
うつろに菜種に遊ぶ蝶を見て
あれはたましいだと呟いたうららかな投票日。

今はただ昏い底の石よりも
傍の明るい瞳に心が洗われる。
今晩は魚を食べよう。

間と余韻の妙 『エマ』

エマ

私は、日曜の夜になると「世界名作劇場」を見て育った世代で
あのヨーロッパやアメリカなどの、少し古い時代の話に
あこがれながら、友情や愛情、優しさを、ごくあたりまえのように
学んでいたのだが、今回紹介する漫画、『エマ』は、
現代の女性作家が描いた作品であるにかかわらず、
カテゴリーがいわゆる恋愛物であるにかかわらず、
あの子供時代の優しい空気を追体験させてくれる作品である。

私にとっての良い作品の定義はいくつかあるのだが、
『エマ』に私が感心させられる点はまず、しっかりとしたデッサン
ちゃんと服の中に肉と骨が収まっていること。
描かれる背景や小物の緻密さ、時代背景についての
リサーチが充分されていると、見ていて伝わること。
女性作家ならではのコマ割りの妙。間、というか空間が
心理描写とリンクしており、コマの中にセリフがなくとも
ちゃんと読者に、野暮なセリフまわしなしで伝わるものがあること。
そしてなによりも、森薫という作者自身がイギリスを、
ヴィクトリア時代を、そこに暮らす市井の人々を、それ以外の上流社会を、
メイドを、またメイドという職務がなんたるかを理解しており、愛していること。
描きたいものがはっきりとしているので、読む側も安心してその身を
作中へどっぷりと漬けることができるのである。

主人公のエマは、一人暮らしをしている元家庭教師の
寡婦の家で、メイドとして生活をしている。
エマの地味な風貌はそのまま、彼女の性格をよく表しており
いつも控えめで、真面目で、責任感もひといちばいである。
しかし、彼女の心の奥には情熱的な部分があり
見た目に反しているからこそ、その部分の描写がとても際立つ。

『エマ』はメイドである主人公エマと、上流階級の青年との、
身分を超えたラブストーリーを基軸とした物語なのだが、
各所で評価が高いのは、それ以外の描写も手を抜かず、
作者のやさしい目線でしっかりと描いているからなのだろう。

エマの雇い主の婦人は、孤児であったエマのことを娘のように思い、
空いた時間には教育を施し、彼女の行く末を密かに案じる。
エマも立場をわきまえながら、女主人に誠意と愛情をもって尽くす。
お互い、その気持ちを言葉として表すことなく。
このような人間関係や脇の登場人物を、恋愛だけにとらわれず、
人物の内面や、さらにそれぞれの生活までもを丁寧に、
細かいエピソードを挿入しつつ、やさしく、わざとらしくなく描いていることが、
どこかあの『世界名作劇場』を思い出させるのだと思う。

作中でエマや登場人物が涙を流すシーンは少ない。
そして、私はちょっとやそっとの作品では涙を流すことはない性格だ。
しかし、各巻、各巻で私の目から涙が流れるのは何故だろう。
上記に挙げたコマ使いと同様、涙を流すシーンがなくとも
読者に、こんなあまのじゃくの私にも、
充分に伝わる感動があるのだということだ。
作者のこの力は素晴らしいと思う。

実はこの作品は、2005年にその前編となる話をアニメ化している。
深夜の放送であったため、ファンを除いて、
まして大人で見た方は少ないだろう。
原作がある場合、往々にしてアニメ化の際は、絵柄が省略され
改変(改悪)がなされ、イメージ違いな声があてがわられ
原作ファンをがっかりさせることが多いのだが
この『エマ』のアニメに関しては一切そういうことがなかった。

静止画であったコマの間が、動画のなかで余韻として与えられ
風がやさしくそよぎ、街が動き、
登場人物が裏切られる事無く、そこに生きている。
一話一話しっかりとテーマがあり、それらを分断して見ても楽しめる。
さらによくありがちな、ベタなタイアップの歌謡曲がテーマソングになり、
雰囲気を壊される事がなかったのも良かった。
このアニメ版の『エマ』も、まるでジェームス・アイヴォリーの
英国映画を見ているような、そんな気分になる
上質な一本の「作品」に仕上がっていた。
そして、やさしい色彩や音楽やストーリー、登場人物達が私を、
アンや、ハイジや、カトリや、セーラや、ポリアンナを心待ちにしていた時代の、
あの「世界名作劇場」を見ていた子供時代に回帰させてくれる。

このアニメの後編がいよいよこの四月にスタートする。
漫画としての『エマ』は完結したが、アニメとして、又あの感動を
しみじみと味わえるかと思うと、今から楽しみでならない。

アニメ版『エマ』第2幕のPV
http://www.emma-victorian.com/promo.html

原作紹介
http://www.emma-victorian.com/original.html




森 薫
エマ (1)

言葉

詩篇

言葉は尽きない
言葉は絶えない
言葉としてあふれたいと
願った日から
幾日も幾夜も
直喩的な目が胸が
言葉を追いかけている

永続して憧れる
朝霧の中の真実
目隠しで
そこまで歩いたのは
ただ怖かったから

掴む 
貪る 
屠る 
滴り 
流れながら
ありきたりに
キスをした

私の汚れた手はいつも
強情で怠惰で情けない
えぐれた胸郭の下の
鬱屈したたましいよ
見よ
言葉はもうなにも告げず
そこにつきささるように在る

いよいよ
青い空が恋しくなったか?
沈むのが好きだと
いつも言っているのは誰だ
弱そうに見せて
強情で頑丈な自我は
実は稚拙な枠組みの
脆く湿った馬糞紙だ
雨を恐れて隠れる
そんな単純な動機で
盗み見している
去勢者のような
不能者のような
自らがひんまげた視界で
世界を

「parallelに於いて」
言葉はなお前進し
はみ出す視界から
もう疲れたなんて
いうもんじゃない


可笑しい春

max Max Ernst

こだわりの減った部屋の隅
隠れていた慢心なる無知が
燐寸棒を擦って明かりをつけた

頭の上の
凝り固まった出来物が疼く朝の光をうけて

からいものを食べ過ぎた喉が水を欲す
固いものを齧った顎が感覚を無くす
目を見開きすぎた目頭からは血が滲む
笑いすぎて空腹になったおなかがすいたはらがへった
雛鳥のようだとまた笑うふざけた心がまだ残る窓辺にて

わたしの来し方行く末夢をみた
彼岸にむかい隠せない嘆息は
軽い助走で崖から 墜ちる

全て剥ぎ取ってまた身につけて
整頓しては散らかして
精査した脳内が散漫になるのは

春がおもいのほか早く来た所為だ。

みなそこ

沈む 高畠 華宵

なみだがお なきがお
わたしの自尊心がくずれたら
もういいから
もういいから 
ほんとうにもういいから

さらりと其処へ参りましょう
足先を入れたら最後
考えるまもなく
ズルリひきずりおろす
甘い罠 ずるい誘惑
苦き冷たさのみなそこ

唇にのせたうた
なんのうた
沫 沫 沫 沫 …
あの場所で
息ができなくなったとき
さらりと此処までいらしてください
憂うまもなく墜ちます
下へ参ります
くだります
ソラ、
沫 沫 沫 沫 …
きえてなくなるまで
ともにうたいましょう

こういうの
可笑しくっていいでしょう?


たまには贅沢を

イベリコ

このところ仕事量が増え、
平日の夜は手抜き料理ばかりをしているのだが
この前の休日は手抜きに加え、贅沢な朝食と夕食をとった。

『ダイニングプラス』という輸入食材を通信販売している会社からお取り寄せ。
まずは今回の目玉である「お試しボックス」をオーダー。
普段の販売価格の半額で美味しい輸入食材が楽しめる。

「お試しボックス」、これひとつで贅沢な朝を迎えた。
フランス製のバゲットとクロワッサンはオーブンで焼くので
家にいながら手軽に焼きたての本場のパンが食べられる。
おいしそうな焼き色のついたバゲットには
あっさりとした口当たりのカルピスバターをつけて食べ、
つけあわせにドイツのウインナーをボイルし、
付属のスイートマスタードをつける。
甘いマスタードは口に新鮮な味覚だった。

夜はおなじセットの中にあった
「ブロッコリー入り野菜のブーケ 」をあたため
同じくダイニングプラスから取り寄せた、
スペイン産のイベリコ豚の骨付きロースポーションに
軽く塩をふったソテーと一緒に食べた。
野菜のブーケの味付けはソテーしたフライパンに残った
塩味のついたイベリコ豚の油を、じゅっとかけただけ。

このイベリコ豚の注文は2回目となる。
去年、友人宅での忘年会のために
ここで取り寄せて食べた味が忘れられなかったのだ。
普段私が口にする豚肉とは同じだとは思えない
深くあとをひく濃厚な旨味がなんともいえず
又次回も注文したいと思った。
食後もセットの中のNYチーズケーキを食べた。
コクのあるこってりとしたケーキの甘みは控えめで
ついついおかわりしたくなる(がんばってセーブしたけど)

他にもあれこれと、食材やケーキなどををオーダーしたので
普段殺伐としている冷凍庫が、今は横文字だらけの
国際色豊かな貯蔵庫になっている。

この夕食の供としたワインは、ハンガリーのBor Forras 2002年もの。
まるで熟しきった葡萄ジュースのような芳醇な香りがする。
普段外で頼む渋みの効いたキリっとしたワインとは正反対の甘さが、
まったりと寛ぐ家飲みにぴったりだった。

朝夕と濃厚な食事をしたあと、おなかの肉を気にしながらも
たまにはこんな手抜きの贅沢もいいもんだと思った週末だった。

カフェごっこ

サシャ01 サシャ02

普段はドレスなどを着せている、サシャという人形に
昨日は珍しくカジュアルな格好をさせてみた。
手にミニチュアサイズの
本当に茶葉の入ったリプトンのお茶缶を持たせ
イメージはカフェのウェイトレスにしたのだが
無表情なので、ひどく愛想の悪いウェイトレスになってしまった。

でも、実際に、少し小洒落たカフェに行くとこんな店員に遭遇する。
ルックスは可愛く、髪型も服装もお洒落、体は小枝のように細い。
そこまでは完璧なのだが、愛想が恐ろしく悪い店員。
客が恐縮してしまうようなカフェ。
もしくは、やる気がなさ気に、ダルそうに動く店員のいるカフェ。
しかもたいしておいしくもないのに、結構な金額をとられるカフェ。
実際ならそんな店は二度と行かないけど。
そんなことをこの人形を見ながら想像していたら
おかしくなって笑ってしまった。

ドレスが似合うサシャには接客業は向かなそうだ。
今度はもっと愛想の良さそうな人形に着せてみよう。

サシャ03 
ショートカットにヘアチェンジして、ちょっと牧場の少女風

冬 竹久夢二

肩にふれる雪は淡雪

誰かが私を呼んでいた

早く溶けては話が聞けぬ

私に届く雪がある

それは霰か雹なのか

さらさら雪の優しさは

格好の甘い菓子

私をつけあがらせる

砂糖菓子

まだまだ、足りない届かない

雪がやみ

そのまま春が来たときは

この澄まし顔 どうしたら良い?

ああ春が来る前に

ああ雪がやむ前に

あたたかすぎる

春

ひとあし早く、私の通うカフェに春が咲いていた。
これは、温室で育てた花なのだろう。
楽しく眺めながらも、窓の外を見て、
この暖冬に少しの恐怖を感じたのも事実だ。

最近、本来の四季が崩れかけている日本(というか、世界全体)
ニュースではあまり深刻にそのことを報道していないのだが
このままで良いのだろうか?
もう、みんな、うすうす知ってはいるのだろう?
テスト前なのに漫画を読む、現実逃避したい子供のように…
しかし、政府や国連が、一般人の尻をたたかないことには
企業だって動かない。
LOHASという言葉でお茶を濁すだけだ。
私もふくめて、皆、まやかしの便利さ、美しさ、新しさで
正常な感覚を麻痺させられている。

飽食…給食がまずいからと給食費を支払わない親
趣味の悪いクリスマスの一般家庭の家の電飾
核家族が大型車に乗って、森を切開いたキャンプ場で
お膳立てされた「自然」と戯れる。
こんなことに腹をたてる私は偏屈か?

セーターを崩してマフラーに変えたり
穴の空いた靴下も縫えば充分履ける。
レジ袋も、包装紙も、ちゃんと畳んで再利用できる。
傘が壊れれば、傘屋に修理にだし、靴の底がすり減れば修繕に出す。
ごはんを残せば親がしかり、食べ物の尊さを祖母が語る。
「いただきます」「ごちそうさまでした」
少し前までは当たり前だった風景がいつのまにか、消えている。
人間は、社会は、少し貧しい位が良いのだ。

かくいう私も、現代社会に慣れきってしまっている。
こうして、ふと気付いてはイカンイカンと背筋を正す。
聖人君子ではないのだから、正直なところ徹底はできないが
それでも、少しでも、近い将来に来るかもしれない
温暖化などがひきおこす、とりかえしのつかない失敗を
無くす努力をしてみたいと思うのだ。

ちゃちな言葉でしか語れないが
なにかのきっかけでここを誰かが読んでくれたら
すこし、自分の行動をかえりみてくれたら
私が、また、これを読み返し、ああこりゃイカンと行動を修正したら
少しは地球の寿命も伸びるのではないだろうかと思い書いてみた。

本当の2月だったら、
もっとこの花の、太陽の、地球の有り難さを感じるのだろう。

07.02.06修正