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2016年08月25日

上野東照宮 その1

テーマ:神社仏閣
もう2年も前の画像だ。

汲めども尽きない北斎の魅力。
日本のみならず、海外でも玄人の評価が高い北斎。

混むから入場しなかったけどね(笑)。

 

小松宮彰仁親王像。

上野公園には西郷どんだけではなく、明治に活躍した
色々な人の像や記念碑があります。

まあ明治維新は、西欧列強にけしかけられた
薩長のクーデターだったと思うけれど、それは
ここでは詳しく述べません。

明治維新には、米南北戦争で使用された銃器が
大量に輸入されて日本人同士の殺し合いに
使用されたという。

「明 治十年(一八七七)から同十三年にかけて、グラント将軍は
 家族同伴で、世界を周遊した。

 その際、来日。同十二年八月二十五日、ここ上野公園で開催の
 大歓迎 会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。

 植樹の由来が忘れられるのを憂い、昭和四年八月、この碑を建設。
 碑は正面に将軍の胸像を刻み、 向かって右側に和文、左側に英文で、
 将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の由来を記している。
 胸像下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の 文字を刻む。







グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。
北軍の義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司
令官となり、北軍 を勝利に導いた。

明治二年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同十年まで二期在任した。

いま、将軍植樹の木は大木に成長している。」

以上は、説明文より。
 



グラント達は、日本に使い古した武器を売ることで、しこたま
儲けて家族で世界旅行を楽しんだのだろう。


グラント将軍はローソン・ヒノキを、夫人は
タイサンボク(マグノリア)を植樹した。


明治維新については、徹底的に真実を暴かなければ日本人は
いつまでたっても自己確立の手がかりが掴めないであろう。

さて、タイトルの上野東照宮です。

巨大な石灯籠が並んでいます。

家康についても、調べたいことは沢山ある。

家康の時代以前から、西洋列強の圧力や
工作活動は盛んだったと思われる。

「鎖国」は、それらをコントロールして
日ノ本国を守る一手段だったろうが、

さらに奥深い思索が施されていた気がする。

つづく。
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2016年08月24日

不思議食空間 KLIMT

テーマ:アジアなお店紹介
いつもの神保町イタリアン・クリムトでランチ。
先ずは、特別常連サービスのビール。

ポタージュ。

ごちゃごちゃ美術品があり過ぎるが、落ち着く空間(笑)。

トッピングが、目玉焼き、宮崎産ハリハリ漬け&パウダー・チーズ
のハヤシライス。

存在感のある絵です。

R.Kとは?

岸田劉生(1891-1929)です。

以下、プロフィールです。

「大正から昭和初期にかけて活躍した近代日本を代表する洋画家。


様々な表現様式を会得しながら辿り着いた、無骨な写実的描写
によって対象に宿る深い精神性を 鋭く見抜き表現する独自の
絵画様式を確立し、『道路と土手と塀(切通しの写生)』や『麗子
微笑(青果持テル)』など後に重要文化財となる作品を始めとした
西洋式絵画を手がける。

1891年6月23日(明治24年)、明治時代を代表する新聞記者・
教育者・実業家のひとりである岸田吟香と妻の勝子の第九子
(四 男)として銀座に生を受ける。



東京高等師範学校付属の小学校・中学校に通いながら
中学時代から独自で絵画を学ぶ。

1905年(明治38年)の父の死をきっ かけに、翌年キリスト教
に入信し洗礼を受け、熱心な信者となる。


このキリスト教への入信は画家の作品に少なくない影響を与えた。

1908年、本格的に絵画 を学ぶ為に白馬会葵橋洋画研究所に入り、
当時画壇を先導していた洋画家・黒田清輝に師事しながら外光派の
表現を会得。


この頃(1910年4月)刊行された 文芸誌・美術雑誌『白樺』を1911年
(明治44年)から愛読し始め、翌年には白樺派の武者小路実篤や
柳宗悦、英国の陶芸家バーナード・リーチらと交友を 重ねる。


この『白樺』と周辺の人物達との出会いは画家の表現を劇的に
変化させる最も大きな要因となり、後期印象派(ポスト印象派)
の画家たち、特にポール・セザンヌやフィンセント・ファン・ゴッホ
  に 絶大な影響を受け、この頃の作品は、むしろ模倣に近いもので
あった(画家自身、「露骨にそのような描き方をした」と述べている)。


1912年(明治45 年)、詩人・高村光太郎、画家の萬鉄五郎ら
とヒュウザン会を結成、同年におこなわれたヒュウザン会主催
の展示会に自身の作品を14点、翌年の展示会に19 点の作品
を出品。

1913年(明治45年)、同会の解散や小林蓁との婚姻を経て、ルネ
サンス芸術  やバロック様式  などの絵画、特にドイツ・ルネサンスの
巨匠アルブレヒト・デューラーの表現手法に感化され、翌年に手が
けた作品には写実的表現への傾倒が顕著に示される。


以後、(画家自身の言葉によると)レンブラント・ファン・レインや
ビーテル・パウル・ルーベンス、ルネサンス芸術  期の画家アンドレア
・マンテーニャ、初期ネーデルランド絵画の巨人ヤン・ファン・エイク 、
ロマン主義の画家フランシスコ・デ・ゴヤ  な どの古典的絵画表現の
影響を受けながら自身の様式を模索・形成していった。


また1918年(大正7年)に娘・麗子をモデルとした最初の作品
『麗子五歳之像 (麗子肖像)』を完成させる。

1929年(昭和4年)、生涯一度の海外(大連・奉天・ハルビン)へ
旅立つものの、帰国後に滞在先の(田島一郎の教理)山口 県
徳山で胃潰瘍と尿毒症を併発、同地で死去。

享年38歳。 」
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2016年08月23日

お江戸をほっさるく(ぶらぶら散歩する:宮崎弁)

テーマ:お江戸
さて、今日は何処をほっさるく(ぶらぶら散歩する:宮崎弁)?
ここは、江東区。

会社の近く。

水郷の都だった江戸の名残。

東京には銭湯も多く残る。

住んでる?

池袋の裏道を歩いていたら、懐かしい人の名の看板を発見。

この程さん、今から32年前に若かりし頃の俺が学んでいた
正宗太極拳の老師だった。

俺は、程さんの弟子に稽古をつけて貰っていたので、程さんとは
面識がない。

一気にタイムスリップした看板だった。

その近くにへんてこりんな建物が。

ビルの屋上に巨大な10円玉(笑)。

凄いディスプレイです。

池袋では、時々不思議な建物に出くわします(笑)。

最近の池袋は、住みたい街の上位にランキングされています。

こんな素敵な異文化空間があれば楽しいだろうな(笑)。

お隣の練馬区。

畑が沢山残っています。

こちらは台東区。

古さと新しさが同居している東京の一端です。

近所の野良猫にゃ。
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2016年08月22日

今夜のだれやめ(晩酌:宮崎弁)アルコール履歴書 その14-8

テーマ:SAKE
8年前の初訪朝こぼれ話最終回。
なかなか普通の北鮮庶民の生活は日本に伝わらない。

軍事的なニュースや、脱北者など金独裁体制の圧政を
感じさせるニュースばかり。


肝心の庶民生活がどうなっているかは報じられない。

北朝鮮事情に詳しい解説者は、金独裁体制崩壊寸前と
30年間ほど言い続けている(笑)。

どこの国でも、国の制度に苦しめられたり、落ちこぼれたり、
不満足な生活や貧乏に苦しんだりする人々はいる。

北朝鮮も同じだろう。

ましてや大国の思惑で始まった朝鮮戦争は、終戦でなく
停戦中なのだから。

但し!国民の大半が圧政に苦しんでいるのなら国は崩壊する。

崩壊しないという事は、国民の大半が普通の生活を
送れているという事だ。

そこのところは報道されない。

だから、我々にもたらされる情報には作為を感じるのだ。

北朝鮮は貧しい。
それは本当だ。

但し、質素な生活ぶりとも言える。

物余りで、断捨離などと言う狂ったポイ捨て文化とは無縁の
暮らしぶりだ(苦笑)。

物が溢れれば幸せではない。

流行物を次から次へと買い替え出来るのが
先進国的という幼稚な考えでは幸福を手に
することは出来ない。

使い古したものでも、大切に使って日常生活が
送れれば、他に幸せの要素は沢山ある。

北朝鮮には、大学が約30もあるという。

我々一行は、大学も専門学校も見学させてもらった。

学生達は皆、生き生きと真剣に勉学に勤しんでいる。

国の方針から、大学に進学できなかった労働者も進んで
夜間大学に通っているという。

ITのクラスは、アメリカ製のPCを使用していた(笑)。

また、小中高生などは通常の授業が終了すると、各自の特技に応じての
総合特技専門の学校があり、放課後はそこに通っていた。

クラシックバレー、西洋音楽や朝鮮伝統音楽、習字、刺繍、囲碁など色んなクラスで
少年少女達が目を輝かして特技に取り組んでいた。

マスゲームは見なかったが、プロのサーカスは見に行った。

それから、都会のサラリーマンやOLは、農業の繁忙期になると
休日返上で近郊の農家に援農に行くと言っていた。

そのような北鮮の庶民とは、政治とは関係なく民間交流をして
お互いに信頼関係を結んでいかねばならぬだろう。

そして、大国の思惑絡みの外交には、現地の要人との強い人脈
を築き、裏の裏を探る諜報活動などを交えて対処する事が肝要だろう。

そうしなければ、拉致被害者は奪い返せないし、日本の国益など守れる
はずがない。

完。
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2016年08月21日

今夜のだれやめ(晩酌:宮崎弁)アルコール履歴書 その14-7

テーマ:SAKE
8年前に初訪朝した時の話。
2002年と2004年、時の小泉首相は訪朝して
2度の日朝首脳会談に臨んだ。

北鮮の金正日総書記は、特務機関の一部が英雄主義に走って
妄動し、日本人を拉致した事実を認めた。

拉致被害者の一部5名は帰還したものの、残りの被害者の帰還も
暗礁に乗り上げ、日朝国交正常化も座礁したままだ。

この一連の両政府首脳&高官の動きの中で、Mr.Xと呼ばれて
さも黒幕みたいに扱われていたのが現在の朝日国交正常化担当
大使である宋日昊(ソンイルホ)氏だ。


韓国や日本では、やたらと北の動きや人物を
大げさに不気味化する傾向にある。

我々の北鮮滞在が終盤に差し掛かった夜、
そのMr.Xこと宋大使と会って飲むこととなった。

中国にて日本との会議があり日程的に
遅くなってしまったと言う事だった。

宋大使は、居酒屋風な飲み屋で我々を
待っていた。

気さくなおっさんで、日本語はベラベラだし、日本の事情にも
相当通じているようだった。

まるで日本の居酒屋で飲んでいる雰囲気だった。

拉致問題については、北鮮の公式見解以外の
言葉は出なかった。

宋大使の隣には、屈強な若者の秘書が座っていた。

宋大使は、日本人一行の中で最年少の俺にしきりに
焼酎(ソジュ)での乾杯を勧めた。

自分は数度で、後は若い秘書に任せた。

俺は、若い秘書と何度も盃を空けた。

一気飲みで相当酔いが回ってきた頃、場所を変えようと
いう事になった。

我々が毎晩飲んでいた宿泊ホテルの地下一階にある
カラオケスナックで2次会となった。

宋大使も交えてのカラオケが始まった。

俺は、唄いたい歌が無いので聞いていたら
退屈で寝てしまった。

頭から冷たい水が浴びせられた。

「おい!タカギ!!起きろ!!!」

目を覚ますと、水が半分入ったコップを手に宋大使が笑いながら
仁王立ちになって俺を見つめていた。

つづく。

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