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トトロの森と水と曼荼羅 その9

ここは、埼玉県所沢の

山口観音金乗院。

 

仁王門を潜れば義貞霊馬堂。

 

生まれ変わった御霊馬が、

 

これです(笑)。

 

新田義貞公の白馬で鎌倉攻めの時、

供をして、後に山口観音で余生を送

られたそうです。

 

百頭の馬の彫像。

 

本橋 俊男氏の作品です。

 

一頭一頭がリアルに

彫り出されています。

 

一本の大木の巨大な

幹部から掘り出されて

いる。

 

凄まじい彫像です。

 

御霊馬のお尻です(笑)。

 

奉納絵馬。

 

以下、武将関連サイトより。

 

「新田義貞(にったよしさだ)はもともと、

上野国(現在の群馬県)の豪族「新田氏」

の惣領であった武将です。

 

1331年(元徳3年/元弘元年)に、96代天皇

「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の勢力と

鎌倉幕府の間で「元弘の乱」(げんこうのらん)

が勃発。

 

同乱で新田義貞は当初、鎌倉幕府方に

付き、後醍醐天皇方の「楠木正成」

(くすのきまさしげ)との包囲戦「千早城

の戦い」(ちはやじょうのたたかい)に

従軍しました。

 

しかし、その翌年に新田義貞は、同合戦の

途中で帰国。

 

その後、後醍醐天皇の皇子

「護良親王」(もりよししんのう)の綸旨

(りんじ:蔵人[くろうど]が天皇の意を奉じ

て発する命令文書)を受け、鎌倉幕府

打倒を掲げて挙兵します。

 

同幕府を裏切ることになった新田義貞

でしたが、最終的には滅亡させること

に成功。

 

この功績が高く評価された新田義貞は、

後醍醐天皇による「建武の新政」(けんむ

のしんせい)下で、越後守(えちごのかみ)

や上野介(こうずけのすけ)などを兼任。

同天皇から重用されるようになったの

です。

 

そのあと、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が

建武政権に背くと、その討伐のために各地を

転戦。

 

「箱根・竹ノ下の戦い」などに敗れた新田義貞は、

後醍醐天皇の皇子「恒良親王」(つねよししんのう)、

及び「尊良親王」(たかよししんのう)らを奉じて、

北陸へと下りました。

 

そして新田義貞は、1338年(延元3年/暦応元年)

に「足利高経」(あしかがたかつね:別称斯波高経

[しばたかつね])の軍勢と対立した「藤島の戦い」

にて、戦死することとなったのです。」

 

つづく。

トトロの森と水と曼荼羅 その8

ここは、埼玉県所沢。

 

山口千手観音のゲートに

誘い込まれて、先に進み

ます。

 

寺院境内の外部に

ある弁天池。

 

寺院に入る前から、

異様な雰囲気を

感じさせられます。

 

ほらね(笑)。

 

仁王門です。

 

山口観音は吾庵山金乗院放光寺

という、真言宗豊山派の千手観音

を祀る寺院。

 

金剛力士像。

 

仁王像とも言います。

 

二体で阿吽の像です。

 

この仁王門は、南北朝時代

(1337年 – 1392年)の建立だ

そうです。

 

猫の足あとさんのHPに

よると、

 

ここ金乗院は行基菩薩作が千手

観音を本像として創建、弘法大師

が開基、新田義貞が戦勝祈願する

など、山口観音として崇敬を集めた

ところだそうです。
 

天正19年(1591年)山口観音堂領

として寺領10石の御朱印状を拝領

したといいます。 

 

武蔵野三十三観音霊場13番、狭山

三十三観音霊場初番、奥多摩新四国

霊場八十八ヶ所52、65、67、77、79番、

武蔵野七福神の布袋尊です。

 

真言宗中興の祖と言われる

覚鑁(かくばん)1095-1144。

 

諡号は、興教大師。

 

つづく。

トトロの森と水と曼荼羅 その7

ここは、埼玉県所沢にある

狭山不動尊。

 

以下「」内は、HPより。

 

「元、東京芝の徳川家台徳院(二代将軍

 徳川秀忠)の御廟に建立されていたも

 ので、飛天の彫刻や絵画が多く描かれ、

 朝鮮渡来の天人門と言われています。

 

三代将軍徳川

家光公が建立したもので、格天井

の中央に丸い鏡天井が設けられ、

独特な様式を伝えています。」

 

ここ狭山不動尊(不動寺)は、西武グループの

創業者、堤康次郎氏がプリンスホテル開発に

際して買収した用地の遺構をはじめ、各地の

文化財を当初に移築して天台宗別格本山とし

て昭和50年に開山した。

 

だから、この境内に宗教・

宗派的統一性は無く、

 

宗教的歴史文化財の

博物園みたいな

趣を湛えている。

 

裏手にある桜井門から入って

来たので、

 

正面門に当る勅額門に

下ります。

 

勅額門。

 

「元、徳川家台徳院一品大相国公

 (二代将軍徳川秀忠公)の御廟に

 建てられたものです。

 

考養報恩の志を述べ

たいと、三代将軍徳川家光公が建立し

たもので、勅額は後水尾天皇の筆によ

るものです。」

 

先月中旬にこちらに来た

目的は、

 

トトロの森と狭山湖を

訪れる事だったが、

 

思いがけず、凄い文化財を

見ることが出来た。

 

そして次に、また驚きの

場所に遭遇するので

あった。

 

つづく。

トトロの森と水と曼荼羅 その6

ここは、埼玉県所沢の

狭山不動尊。

 

弁天堂(旧清凉寺経蔵)。

 

以下「」内は、HPより。

 

「滋賀県彦根市古沢町清涼寺に、

 井伊直孝の息女が生前に父直孝

 の追善菩提のため建立したもの

 です。

 

 

建立はから

の間と考えら

れています。

 

に境内に移設され、

そののち堂内に上野不忍池

弁天堂のご本尊であり、大

弁才天の分身として古くから

東叡山寛永寺山内にお祀り

されていた、

 

金運や芸上達などの御利益が

ある弁財天をお迎えいたしまし

た。」

 

これが本堂の不動寺です。

 

第一多宝塔。

 

「大阪府高槻市の、春日大神及び

 菅原道真を祭神とする畠山神社

 から、現在地

 に移築されました。

 

建立時期については諸説ありましたが、

移築の際に発見された二重屋根の化粧

隅木の墨書から、

建てられたことが明らかになりました。

 

細部の装飾や手法が安土

桃山時代の特色を良く表し

ています。」

 

これは、不動寺総門です。

 

元長州藩の藩主である毛利家

の江戸屋敷に建てられた門だ

そうです。

 

素材はすべて「けやき」で造ら

れています。

 

武家屋敷らしく直線

を組み合わせている

門となっています。

 

つづく。

トトロの森と水と曼荼羅 その5

ここは、埼玉県所沢にある

天台宗別格本山 不動寺。

 

山号は、狭山山。

 

狭山不動尊とも言う。

 

以下、HPより。

 

「歌聖、柿本人麻呂のゆかりの地、

 奈良極楽寺境内に建立された 

 人麻呂の歌塚堂です。

 

当時の歌人たちが歌会を開いた

堂宇であると伝えられています。

 

に当境内

に移設いたしました。

 

東叡山寛永寺山内の見明院に

奉安されていたご本尊である

大黒天をお迎えいたしました。

 

昔から大黒天を拝むと、一生食べ

るに困らないと言われています。

 

羅漢堂。

 

、明治の元勲

として有名な故井上馨公の還暦を

祝し、明治天皇、昭憲皇太后両陛下

の御下賜金を基として、山県有朋、

伊藤博文、大隈重信らの発起で、

井上公の屋敷内に建立されました。

 

の戦火では、

この堂宇だけが残り、現在地に移築

され、羅漢像を奉置して羅漢堂と称す

るようになりました。

 

夥しい数の唐金灯籠が

並んでいます。

 

灯籠は、芝増上寺の台徳院霊廟

に大名から献納されたものです。」

 

唐金とは、青銅の事です。

 

敷地入口には、羅漢堂山門が

設置され、中に立ち入ることは

できないが、囲いの隙間から

写真を撮ることが出来ました。

 

鐘楼。

 

京都の高田寺のもので、
元は奈良の興福寺より

移築されたものだそうです。

 

頼もしな、宵暁の鐘の音に
物思う罪は消えざらめやも

         
西行法師
 

山寺の春の夕ぐれ来て見れば
入相の鐘に花ぞ散りける


寂然法師

 

寂然は西行の親友とも言われ、

お互いに出家した仲でもある。

 

つづく。

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