バザラスからのアジアン紀行 -2ページ目

驚愕のランチ・プレート 「初音」

500円(税込)で毎週金曜日に

買っている初音おかず弁当。

 

この日は、スパゲティー2食と、

 

これと

 

これの4点。

 

別の日はこれと、

 

ズッキーニの豆腐のチャンプルー

のこれと、

 

とんかつ2点の合計4点。

 

別の日は、大将の愛情メモ入り。

 

これと、

 

これと、

 

これと、

 

これの4点。

 

別の日はこれと

 

これと、

 

これと、

 

これの4点。

 

大将!

毎週、色んな美味しいおかずを

安く沢山作って頂いて、有難うござ

います!!

永遠の今

永遠は、今の中にある。

哲学者、西田幾多郎氏の言葉。

 

瞬間に永遠が宿ると言い換えても

良いだろう。

 

時間は、直線的に流れて

はいない。

 

円環的循環的にこの瞬間に在り、

瞬間的に過去と未来が同時する。

 

今この瞬間の自分に、過去と

未来が宿っている。

 

その瞬間瞬間の流れを、
人間が便宜的に概念化
したのが時間。
 
つまり、時間は人間が作り出した
存在根拠の無い夢幻のような
物。
 
室町の一休宗純和尚は
こう喝破した。
 
世の中は 食うて糞して 寝て起きて 
後は死ぬるのを待つばかりなり(笑)。
 
人間なんて所詮「糞袋だ!」
とも言い放った(笑)。
 
蓋し名言である(笑)。
 
これらの名言の裏には、深い人間愛が
あると同時に、
 
人間の浅はかな生き様を諫める
意も含まれている。
 
貧富貴賤に翻弄される
人間の欲望など「糞くらえ!」
であり、
 
己を「糞袋」と看做せば、
 
平凡な日常とても、有難い
施しに充ち満ちている
ということ。
 
つまりは、永遠は今にあり、
今が永遠なのだとも言える。
 
時間など伸縮自在。
 
心の持ち様によって、薬にもなれば
毒ともなるのだ。

 

北海道被爆者協会

世界には、知っている歴史よりも

知らない歴史の方が多い。

 

こんなちっぽけな日本国内でも

知らないことが沢山ある。

 

俺は知らなかった。

 

北海道に被爆者協会があることを。

 

1945年8月、広島、長崎に投下された

原爆によって被爆し、その後北海道に

辿り着き、そのまま移住された方達

がいた。

 

被爆者の方達は、周囲から受ける被爆差別や

謂れなき軋轢を避けて、口を閉ざされていた

状況から、確かなことはあまり分かっていない。

 

広島平和研究所のHPによると、

北海道に辿り着いた被爆者の

背景が次の様に説明されている。

 

「第一に、1945年8月以降に親戚や身内を

 頼って北海道に身を寄せた人たち。

 

第二に、就職や転勤、あるいは結婚をきっか

けに北海道に移り住んできた人たち。

 

第三に、広島の陸軍船舶司令部(通称・

暁部隊)に志願し、勤務中に直接被爆した、

あるいは救助に入って二次被爆し、その後

に帰郷を許され北海道に戻った青年たちで

ある。

 

彼らの中には、元々出身地は東北など北海道

以外であるが、故郷に戻っても被爆による健康

被害のために思うように働けず、それによる周囲

との確執を苦にして故郷を後にし、北海道に移っ

てきた人たちもいた。

 

そして第四に、戦後の北海道開拓の労働力

募集に応募してきた被爆者たちである。

 

北海道の僻地では、原爆によると思われる

健康被害を発症しても、「ヒバク」に対する

知識や理解がなく、適切な医療が得られな

かったであろうことは想像に難くない。

 

戦後の北海道には、外地から様々な人々

が入植したり、引き揚げてきたりした。

 

北海道被爆者協会のウェブサイトに掲載

された言葉を引用すると、その中には、広島、

長崎での被爆やそのことによる差別や風評

から「逃げて、逃げて、逃げて、北海道に来た」

という人々が相当数存在したという事実を、私た

ちは決して忘れてはならないだろう。」

 

被爆者に対する過酷な差別状況は、

その過酷さを避ける為に、自分が被爆

者である事を秘していた為に、多くの

事実が知られる事無く、歴史に埋もれ

ていたのだが、

 

原爆投下で街が破壊され、仕事も

ままならない状況に追い込まれ、

就職しようとしても、被爆者である

事を理由に、露骨に不採用となる

ケースが多かったそうだ。

 

また、広島・長崎から逃げるようにして

親と一緒に北海道に渡った子供達は、

地元の子供達に「放射能が伝染(うつ)

るから近寄るな!」と、酷い差別待遇

を受けたともいう。

 

たった13年前の3.11東日本大震災

による福島原発事故の際、近隣地域

は避難指示対象地域とされ、他県に

避難されたが、避難先では上記と

同じ様な差別や風評が生起している。

 

悲しいかな、80年経っても日本人の

民度の低さは何も変わっていない。

 

道内各地には多い時で一千人もの(二千人

という説もある)被爆者が居住していたと考え

られているそうだ。

 

北海道被爆者協会は、戦後80年となる2025年

の3月末に、会員の高齢化で活動の継続が難し

くなっているとして解散する方針だそうだ。

 

 

深川

ここは、深川(現墨田区)にある

西光寺。

 

以下、猫の足あとさんのHP

より。

 

「旧両国橋が架かる半世紀以上も

 前の慶長十一年(一六〇六)、この

 地で土地の開拓と海苔の製造を行

 っていた小林次郎右衛門が、増上寺

 の信誉英松和尚を迎え当寺を創建し

 ました。
 

浄土宗に所属し、江戸時代には寺子屋

を開くなど地域の教育にも貢献しましたが、

大火・震災・戦災など度重なる災害にも

遭遇しました。
 

明治時代後半に第十六世となった渡辺

海旭和尚は、ドイツに留学して仏教学の

研究で博士号を取得し、帰国後は深川

に浄土宗労働共済会を設立して、日本

の近代社会事業の先駆者として知られ

ています。


また、没年まで芝学園の校長を務め

た他、当寺に多くの学生を居留させ、

門下生として著名な仏教者を多数

輩出しました。

 

学者としては『対象新修大蔵経』を

監修発行したことでも有名です。


現在の本堂は、平成七年(一九九五)

に再建されました。」

 

(墨田区掲示より)

 

初代竹本東猿塚。

 

竹本東猿とは、明治時代

の女義太夫の太夫だそう

です。

 

浄土宗の開祖円光大師(法然)

の御詠歌碑。

 

墓地には、歌舞伎俳優七世沢村訥子、

初世沢村宗之助、落語家二世古今亭

今輔などの墓があるそうです。

 

かつての深川ですから

こんな古風な店も残って

ます。

 

隅田川です。

 

2年前には、隅田川の近くで

バイトしていたので、

 

毎日のように隅田川を

眺めていました。

 

川の流れを眺めていると、

 

心の底に溜まった澱を、

 

洗い流してくれるような、

 

清々しい気持ちになれます。

 

水は生命の源でもあるので、

 

鼓動と水の流れの

ハーモニーが、

 

命を運ぶ揺り籠みたいに、

心地よく心身を包み込んで

くれるからかも知れません。

 

最近の頂き物

大学サークルの先輩より

頂戴した。

 

昨年からこの佃煮を

3回も頂いている。

 

甘さ控えの上品な佃煮。

 

秋田出身の先輩が

一推しする秋田の佃煮だ。

 

量も半端ない。

 

そして、先輩は松戸在住だから、

 

松戸の梨も送られてきた。

 

大学時代に大変世話になってから、

40年以上も経つのに、未だに

お世話になっている、出来の悪い

後輩です(苦笑)。

 

月水金の午前中に

バイトしている会社の

オフィスが入っている

ビルのオーナーから。

 

年に何度もフルーツを

頂戴してます。

 

別の日にもこれらを

頂戴しました。

 

熱中症に気を付けて!と、

ビジネスパートナーの

旦那さんから。

 

これは、そのビジネスパートナー

である奥さんから。

 

奥さんは中国人。

 

ご主人は、マレーシアの

中国人です。

 

いつもの煙草屋さんから。

 

皆さん、いつもいつもありがとう

ございます!!