バザラスからのアジアン紀行 -4ページ目

通勤路

俺は、孤独が好物だが、

他人も大好きだ。

 

人が多すぎるのは

苦手だけど(笑)。

 

毎週火曜日と木曜日、

 

後楽園遊園地と東京ドームの

敷地内通路を通って、

 

アルバイトに行っている。

 

アルバイトは、高校の設備管理。

 

もう一年が過ぎた。

 

生徒が開発した、日本の伝統的雪駄

と最新スニーカーとのカップリング。

 

素晴らしい発想ですね!

 

この行列、朝7時半ですよ!

 

コンサートは夕刻からなのに!!

 

この高校は、日本の伝統工芸と

現代工芸を学べる高校。

 

定時制もあり、約300人の学生達が

学んでいます。

 

今年、東京都は6校の都立高定時制

を閉校するとした。

 

幸いこの高校は存続だが、

 

日本全国で、小中学生の

約30万人が不登校。

 

高校生の長期欠席者は、約12万人。

 

おまけに教員不足問題も

あり、日本の教育制度は

破綻してるのではないかと

いう意見もある。

 

子供達には、様々な形で学べる

場を提供して貰いたい。

 

俺は、定時制高校や夜間の大学で

学べたから、その有難さが身に染み

ている。

芭蕉

ここは、文京区本郷。

 

山号は、嶺松山。

 

宗派は、浄土宗。

 

寺号は、昌清寺。

 

院号は、弘願院。

 

「当寺は浄土宗嶺松山弘願院昌清寺

 と称され、元和元年(1615)の創建で

 ある。
 

開祖は朝倉きよ(お清の方)、駿河大納言

忠長(家光の弟)の乳母である。

 

父二代将軍秀忠と母お江は忠長を寵愛し、

忠長に次期将軍職を譲ろうと考えた。

 

しかし兄家光の乳母春日局が家康に直訴

するに及んで、将軍は家光に決まった。

 

忠長は駿河城主となったが、なお大坂城主を

要請したため家光の怒りにふれ、領地は没収

され、高崎城に幽閉され自害した。

 

寛永十年(1633)忠長28歳であった。


忠長死後、忠長夫人お昌の方(信長の曾孫)は

剃髪し松孝院と号した。乳母のお清も剃髪し、

お昌の一字をもらい、昌清尼と称した。

 

松孝院は忠長の菩提を弔うにあたり公儀に配慮

し、自分に代わって乳母のお清に昌清寺で忠長

の供養をさせた。

 

(文京区教育委員会掲示より)」

 

以上、猫の足あとさんのHPより。

 

この寺に芭蕉句碑があった。

 

桜狩り きとくや日々に 五里六里

 

毎日毎日、五里も六里も平気で

歩けるなんて、これも桜の不思議

な魅力(奇特)のせいなのであろうか

 

「江戸時代の『茗荷集』(文政五年)や『茗荷図会』

 (文政九年)に「花見塚本郷元町昌清寺にあり 

 寛政八年(1796)如月十二日靖彦これを建つ」

 とある。


句碑には松尾芭蕉が貞享五年(1688)に吉野で

詠んだ俳句「桜狩り きとくや日々に 五里六里」

が刻まれている。


往時の句碑は存在しないが、現在の句碑は昭和

59年に『茗荷図会』の花見塚模写図にならって

復元再建されたものである。」

 

本郷に沿って神田川が流れている。

 

芭蕉は、この神田川の治水改修工事に

携わったとの記録が残っています。

 

ここは、芭蕉が庵を結んだと

されるかつての深川。

 

1689年 ( 元禄 2年)、芭蕉は

この地から陸奥に旅立ち、その

紀行を俳句を交えて綴ったのが

『奥のほそ道』。

 

芭蕉にとって関東から北は

未知のほそ道だった。

 

と同時に、己が風雅のより高い

境地を辿る心の細道とも言う

べき象徴的細道でもあったろう。

 

予が風雅は夏炉冬扇(かろとうせん)

の如し。

 

衆にさかひて用ゐるところなし。

(芭蕉)

 

私の風雅は夏の囲炉裏や冬の

団扇のようなものだ。 

 

人々の求めに逆らって誰も必要

としない。

 

その真意は、無用の用だろうか。

 

芭蕉の紀行文や俳句は、

300年の時を超えても

日本人の心に新たな

感動を与え続けている。

日章丸の栄光:イランと日本の反植民地主義による絆の物語

以下、イラン・イスラム共和国国営放送

国際ネットニュースPars todayより。

 

 

「1951年、イランの石油産業が国有化

 された後、イギリスは、イランから石油

 を輸入する国をすべて自国の対抗措置

 の対象とする旨を、公式に発表しました。

 

しかし日本は、このような西側の覇権

主義的意見には屈しませんでした。

 

西アジアと東アジアの重要国であるイラン

と日本は、これまで1500年以上にわたり

常に友好関係を保ってきました。

 

歴史学者などの研究によれば、イランと

日本の関係はシルクロードを通じた交易

が盛んだったサーサーン朝との時代にま

で遡れるということからも、日本は総じて、

イランと友好関係を持つ国々の上位に

位置してきました。

 

日本および同国の石油産業は第二次世界

大戦後、アメリカとその同盟国の攻撃により

受けた痛手から立ち直ろうとする中で、石油

を購入できる信頼に足るパートナーを求めて

いました。

 

イランはちょうどその時期、石油産業を

国有化しましたが、イギリスとアメリカの

政府はこれを受けて、イラン石油の販売

を制限するという違法な行為を企てました。

 

特にイギリスは、イランの石油産業国有

化後、イランから石油購入する国をすべて

自国の対抗措置の対象とする旨を、公式

に発表しました。

 

この行動は、イランの石油の販売を阻んで

同国の経済を破綻させることを目的として

おり、近代史における最初の対イラン経済

制裁とされています。

 

一方、日本企業の出光興産は、自国の

石油・精製産業の復興を目指す中、イラン

の政府・国民が植民地主義に勇敢に対峙

していることを知り、前述の禁輸措置を顧み

ずにイランから直接石油を購入することを決

めました。

 

出光興産の出光佐三社長は、当時の

イランのモサッデク政権と交渉を行うた

め、まず弟で同社専務の計助氏を、記者

の肩書で同国に派遣しました。 

 

そして1953年3月23日、同社のタンカー・

日章丸が、乗組員55名を乗せて日本の

神戸港を出港しました。

 

日章丸の目的地はサウジアラビアとされ

ていましたが、実際に向かったのは、イラン

南部のアーバーダーン港でした。

 

日章丸は、ペルシャ湾にいたイギリス軍の

間を掻い潜り、同年4月10日午前1時、暗闇

の中でアーバーダーン港第19番埠頭に接岸

しました。

 

石油の積み込みはすぐに始められたものの

、この作業は約2日かかり、この間に同船の

新田辰夫船長は、イラン政府から記念品を

贈呈されました。

 

そして4月15日午前、日章丸はアーバー

ダーン港から出航し、不安と緊張につつ

まれながら、ペルシャ湾の浅瀬にいる

イギリス軍の間を抜けて、5月19日、日本

の川崎港にたどり着きました。

 

このようにして、植民地主義の圧政的な

制裁は破られたのです。

 

出光興産は、イギリスが全く介入でき

ないよう、記者会見を開いて違う入港

予定地を発表し、陽動情報を流してい

ました。

 

イギリスはその後、この石油の所有権が

自国にあると主張し、出光興産への仮処

分申請を東京地裁に提出しました。

 

しかし、二度にわたる口頭弁論の末、出

光を支持する判断が下され仮処分申請は

却下されました。

 

当時のイラン政府は、日本企業がとった

勇敢な行動に敬意を表し、今回の石油を

イラン国民から日本国民への贈り物として、

価格を大幅に減額する旨を宣言しました。

 

日章丸事件として知られるこの出来事は、

イラン・日本関係の転換点のひとつとなり、

その後何年にもわたり、様々な場面で思い

起こされることとなりました。

 

この出来事はまた、両国の友情の深さや、

反植民地主義という繋がりの象徴にもなっ

ています。

 

日章丸事件は最近の日本でも、この

出来事を題材とした百田尚樹氏の小説

『海賊と呼ばれた男』が2013年の年間

ベストセラーとなり、2016年には同小説

を基にして映画『海賊と呼ばれた男』が

製作されるなどして、大きな反響を呼び

ました。

 

この出来事で興味を引き付ける別の

点は、出光興産の出光佐三社長が

日章丸の乗組員に宛てた手紙にお

いて、「イラン人は勇敢であり、イギリス

に対峙している。日章丸は、イランが

石油制裁を受けていても同国を助ける

べきだ」と記していたことです。

 

イランの石油産業国有化計画は、石油

委員会の提案が1951年3月20日にイラン

国会で承認されたことで、正式に実施さ

れました。

 

国有化実施により政治的な緊張が

続いた後、イギリスはイランの石油

産業から手を引いたほか、最終的に

地域からも段階的に撤退することに

なりました。

 

イランの石油産業国有化はさらに、

西アジアの政治的発展における歴史

的転換点にもなりました。

 

エジプトで1956年に当時のガマール・

アブドゥルナーセル大統領​の主導に

より実現したスエズ運河の国有化は、

このイランの石油産業国有化を模範に

したとされています。」

お江戸をほっさるく(ぶらぶら散歩する:宮崎弁)

受験、就職と実利・実益が

専らな現代の学問。

 

そこには、自由な知的探求で得た

教養の入り込む余地は無い。

 

1200年も前の沙門空海は、

当時のリベラルアーツ=総合知

を求めた人であったろう。

 

現在、自民党総裁選や

筆頭野党の代表選で

喧しいが、日本の将来を

託すべきパッとした人物は

見当たらない(苦笑)。

 

韓国や台湾の選挙風景をTVで

見ていると、いい歳こいた立候補

者のおっさんやおばさんが、若者

のダンスに合わせて下手糞なダンス

を踊る姿が出てくるが、はっきり言って、

キモイ(苦笑)。

 

日本の選挙状況も

それに近づいている。

 

政治家にポリシーもフィロソフィー

も無くなって久しい。

 

自宅近所のラーメン屋さん。

 

俺の養祖父の名は、

寅一。

 

 

明治生まれの寅一じいちゃんは、

寡黙で仕事一途。

 

趣味は、焼酎(笑)。

 

躾は、ビンタ(笑)。

 

しかし、その背中で多くの

事を教えて頂いた。

 

けん玉ペインティングコンテスト

なんだって!

 

キノコの世界は、宇宙的規模の

世界を示してくれる。

 

リサイクルは、コスト高との

指摘もあるから慎重に。

 

この箴言も、冒頭の

リベラルアーツに通じる。

 

皆虚

俳号だろか?

面白い。

 

古(いにしえ)は、山も海も神聖な場所だった。

 

今の富士登山は酷すぎる。

 

ペルシャ書道

これは、先生の手本。

 

今年5月から毎月一回、

若い頃からの念願であった

ペルシャ書道を習っている。

 

これも、手本。

 

ペルシャ書道は、葦筆や竹筆で書くが、

俺が書くと無骨な書体なのに、同じ筆を

用いても、先生が書くと滑らかで麗筆な

書体となるから不思議だ(笑)。

 

教室は、池袋サンシャインに

ある古代オリエント博物館内。

 

牛頭天王=スサノオとの結びつきも

指摘されるバアル神。

 

紀元前には、このような

銀貨も使用されていた

のだから、

 

日本の歴史の長さなど

高が知れている。

 

世の東西を問わず、

 

人間は、偶像が大好きだ。

 

移動遊牧民と定住農耕民は、

 

様々な交易体系を構築して来た。

 

都市が出来ても、商業の在り方は

基本的に同じだった。

 

封泥と印象が、商品取引に

欠かせないものになっていく。

 

とりわけ遊牧民が商業に果たした

役割は甚大だ。、

 

偶像と護符。

 

人間は、臆病でか弱くて

儚い存在の証明だ。

 

約4か月間、4回のペルシャ語講座

初級クラスは今月で終了した。

 

次は、中級クラスに挑戦する

予定だ。