悦子さんは四年後に出て行く事を条件に、1DKバストイレ付きのアパートを格安で借りる事にした。
アパートが恐ろしく古い木造の建物だったために、既に建て直す事が決まっていたからなのだが、その代りに部屋を如何様にも好きに改造して構わないとの事だった。
取り壊しが決まっているせいか、二階に住んでいるのは悦子さん一人だったが、学生一人で住むには十分な広さと格安の家賃を悦子さんは結構気に入っていた。
住み始めて一ヶ月ほど経った頃。
悦子さんがトイレに入り、いつものように便座に座って開放感にホッと一息吐いた時だった。
トイレは浴室と一緒になっているユニットバスなのだが、昔の住宅にありがちなタイル張りで妙に横に長く、ドアを開けると左端に浴槽、右端にトイレがあって向き合うような造りになっている。
便座に座れば嫌でも浴槽が目に入るのだが、その浴槽の中に女がいた。
上半身裸で、痩せた小柄な女が膝を抱えている。
弱々しく痩せ細った顔や体にぐっしょりと濡れた長い髪が張り付き、その髪の隙間から刺すような目が睨んでいた。
悦子さんは恐ろしさに弾かれたようにドアの外へ逃げた。
どうもそれで波長が合ってしまったのか、便座に座ると必ずと言って良い程その女と目が合うようになった。
そうなると当然怖くてトイレは使えないし、風呂に入るのも気味が悪い。
今まで気づかずにその浴槽を使っていたのかと思うと、心底ゾッとした。
とうとうユニットバスは開かずの間状態になってしまった。
悦子さんは仕方なく近所のスポーツクラブに入会し、そこを風呂代わりにした。
トイレは近所の友達の家とコンビニのお世話になった。
悩んだ末の苦肉の策であった。
少々不便ではあったものの、何とかやっていけない事はなかった。
ある日の深夜、悦子さんは強烈な尿意で目が覚めた。
外からは叩きつけるような激しい雨音が聞こえている。
今出たらずぶ濡れになるかも。
この時間に用を足すためだけに外へ出て、濡れてしまうのが嫌だった。
あの女と最初に遭遇してから数ヶ月は経っている。
ひょっとしたらもう大丈夫かも知れない。
時間が恐怖を薄れさせていた。
意を決し、ユニットバスの電気を付ける。
30秒ほど時間を置いてゆっくりとドアを開け、中に入る前に左の浴槽に向かってお守りを投げ入れた。
それが利いたのか、トイレの便座に腰を降ろしても女はそこにいなかった。
(何だ、いないじゃん。でもこれで取り敢えずトイレは使っても良いかも)
そんな事を考えながら用を済ませ、立ち上がろうとした時だった。
フッとトイレの電気が消えた。
悦子さんは何が起こったかわからず、慌ててパジャマのズボンを引き上げた。
驚くより先に全身がゾッと粟立つ。
そこから出ようとドアノブを捻ると、開き掛けたドアの隙間から、付けたままの部屋の明かりが微かに入ってきた。
それと同時に細い指がドアに掛かるのが見えた。
あの女が片手を突っ込み、こじ開けるようにしながら覗き込んでいた。
女は浴槽の中から消えたのではなく、単純に浴槽から出て部屋の方に移動していただけだったのだ。
悦子さんはドアを無理矢理閉めた。
ゴリゴリと骨が音を立て、肉と共に潰れたような生々しい感触がドアノブを持つ手に伝わる。
悦子さんは落ちていたお守りを拾うと、それを握り締めてガタガタと震えながらその晩を過ごした。
朝になると女は消えていた。
「もうここには住めない」
そうは思ったものの、学生の身ではそう簡単に引越し費用を用意出来るものではない。
さりとて、親に頼むとしてもどう説明すれば良いものか。
いっそのこと、何とか外に追い出せないものだろうか。
でも、もし失敗したら。
昨夜のように、今度は浴槽ではなくて部屋に居着かれたら。
考えるだに怖い。
その時ふと頭をよぎったのは、大家の「如何様にも好きに改造して構わない」の一言だった。
悦子さんは実家が寺だという友人に頼み込み、大量の土を持ってきて貰った。
どうせ相手は死んでいるのだ。
迷って出て来ているのなら、改めて埋葬してしまえば良い。
浴槽をそのお寺の土で埋めてしまった。
効果はあったのか、それからは便座に座っても女は二度と現れなくなった。
現在、その場所には立派なマンションが建っている。
原典: 超-1/2009
「対座風呂」