加絵さんがまだ新婚の頃の話。
ご主人の実家のすぐ近くのアパートを借りる事になった。
義父は2年前に他界していたため同居する話もあったのだが、結局義母はご主人の実家に一人で住む事を選んだ。
正直苦手だった加絵さんは内心ホッとした。
それは義母も同じだったらしく、加絵さんとまともに会って会話を交わしたのは引越しの際の挨拶だけで、その後加絵さんと顔を合わせる事は殆どなかった。

引っ越して一ヶ月が経った頃だった。
炊き上がった御飯に髪の毛が二、三本混ざるようになった。
御飯粒を口に運ぶと、必ずと言って良い程口に入る。
最初は米を研ぐ際に入ってしまうのかと思った。
自分のだけなら良いが、主人の茶碗にでも入ったら堪らない。
加絵さんは異常なまでに神経質に米を研ぐようになり、毎回米をザルに広げては一粒一粒確認した。
そこまでしても、髪の毛が混ざっている。
それも加絵さんの茶碗にだけ、である。

この頃からご主人との喧嘩が増えた。
理由は「雨が降っている」「隣の犬がうるさい」などといった、自分達に直接関係ないような本当に些細な事ばかりで、次第に夫婦仲はぎこちなくなり始めた。

それにもう一つ、加絵さんには気になる事があった。
夜中にトイレに行くと、玄関に人影が見える。
暗闇の中に一人、半纏を着た髪の長い女性が靴を履く時のように背中を丸めて、玄関の上がり框に腰を下ろしている。
怒りを堪え、じっと何かを我慢しているような背中。
義母ではないか、と思った。
顔を見た訳ではない。
だが、そんな気がした。
本当は結婚に反対だったのかも知れない。
同居しなかったのも、加絵さんに気を使ったのではなくて家に入れたくなかったからなのかも。
そんな考えが脳裏を過ぎる。
いつの間にか女は毎晩現れるようになっていた。

とうとう耐え切れなくなった加絵さんは、ご主人に女の事を打ち明けた。
ただ、その女が義母に似ていた事だけは黙っておいた。
悪口を言うようで気が引けたのだ。
それが元で喧嘩になるのも嫌だった。
しかし。

「……お前、頭は大丈夫か? 」

そう言って、ご主人は加絵さんに一瞥くれただけだった。
ショックだった。
こんなはずじゃなかったのに。
結婚に対する後悔が一気に押し寄せてくる。
ストレスはピークに達していた。

そんなある日、出掛けようとして玄関で靴を履いた時、壁に飾られた絵が目についた。
義母からの贈り物だ。
有名画家のレプリカで、大した作品でもないのに重厚で高そうな額に入れられたその絵に、義母のからの嫌味のようなものを感じたのだ。
幸い今なら主人も居ない。
加絵さんはその絵をわざと落とした。
激しい音と共に額の表面のガラスが砕けた。
割れたガラスを拾い集め、不燃ごみの袋に詰める。
中に入っていた絵を取り出し、そのまま包丁で破り捨てようとして手が止まった。

絵と後ろの板の間に、白い布に包まれた薄い小さな包みが入っていた。
中に挟んであったのは小さな木で出来た櫛。
随分古いもののようで、幾つか歯が欠けている。
その櫛を包んでいた布を見て加絵さんは思わず息を飲んだ。

布にはただ真っ直ぐに細く黒い糸で波縫いが施されていた。
最初は単なる黒い糸だと思った。
細かく丁寧に縫われてはいたが、ところどころ解れていて摘んで引っ張ってみると簡単に切れる。
一本手に取り、目を凝らして良く眺めてみた。

「げぇっっ」

自分でも驚くような下品な悲鳴が喉から漏れた。
黒い糸と思ったものは人毛だった。

加絵さんは一息置いて気持ちを落ち着かせた。。
これが、義母の本当の気持ちなのだ。
冷静になると、今度は怒りがふつふつと湧いてきた。
加絵さんは指先でそれを摘むと櫛と一緒にビニール袋に入れ、そのまま義母の住む家の庭の隅に放り込んだ。

その後、ご主人に玄関の絵を捨てた事を随分酷く叱られたが、それを最後に今までのような喧嘩はなくなった。
櫛や白い布の事は話さなかった。

加絵さんは自分の母親から「櫛は『苦死』と言ってね、逆に読むと『死ぬ』と響きが似ているのもあって、縁起が悪いから人に贈るものではないよ」と教えられていた。
だからこの櫛がどういう意味を持つか理解したのだ。
義母が何を思い、何を願って、一人チクチクと自分の髪を縫っていたのか。
義母の無言の殺意すら感じた。

暫くして、義母は病気で足を悪くして歩くのもやっとの状態になり、一気に老け込んだ。
そしてそのまま病気で亡くなった。
これで義母の真意を確かめる機会は永遠に失われた。

本当に義母の事はあらゆる意味で今も忘れられない、と加絵さんは言う。

「本当に色々ありました。でもね、私達夫婦はもうすぐ銀婚式を迎えるんですよ」

加絵さんは、はにかむようにそう言って笑った。




原典: 超-1/2009 「一人千人針」