去年はちょっと余裕がなくてやりませんでしたが、今年は書きます。

と言っても、数は少ないと思いますが。


なんでかっちうと、やらないと鈍る、の一言に尽きますな。


なので、恐怖の祭典を大いに楽しむ所存。


よしなに。

東村山の駅から歩いて十五分ぐらいの所にそれはあった。
築四十五年の二階建て。
学生向けで家賃は当時でも破格の二万円。
新聞配達が階段を上ると揺れるようなオンボロアパートだ。

当時の住人三人は同じ大学の先輩後輩で、一階に二年生の岡田、四年生の山浦と一年生の広瀬は二階に住んでいた。
「このアパート、変な事時々起きませんか?」
ある日、岡田が山浦にそう切り出した。
聞けば、夜中に老人が新聞受けから覗いてたのだと言う。
「まあ、気にしなきゃいいよ」
アパートの古参住人である山浦は腕組みをしてそう答えた。
「え、何か変なことあるんですか?」
漸くアパートに馴染み始めた広瀬は不安げだ。
「うん。まあ、色々あるけどな」
後輩の二人は、そんな山浦の言葉に不安が拭えない様子である。
「爺さんな、下の部屋に住んでるんだよ。夫婦で」
困ったようにそう言う山浦に、広瀬はきょとんとした顔を向けた。
「爺さんボケてるんですか?」
「そうじゃないよ」
山浦は苦笑いして否定した。
「でもうちの隣は空き部屋だって大家に言われましたよ」
今度は岡田が怪訝そうな顔をする。
「良い機会だから話しとくか」

山浦が話したところによれば、大家の祖父母に当たる老夫婦が一階に住んでいるらしい。
還暦を越えた大家の祖父母となれば、それ相応の年齢の筈。
広瀬がその疑問を口にすると、「生きていればな」と山浦は笑った。
だが、害は無いから大丈夫だと言う。
「それじゃお化けってことじゃないですか」
「そうだな」
広瀬の言葉に山浦は軽く相槌を打った。
「でもこのアパートが建ってられるのはそのご夫婦のおかげなんだよ」
「ええっ?」
このアパートを立て直そうとすると、祟るのらしい。
今までも何度か建て替えの話はあったそうだが、その度に重機が動かなくなったりとか、色々とトラブルが続出するのだとか。
最近では大家も諦めているようだ。
だが、住人に危害を加えた事は一度も無いと聞く。
所謂「守り神」のようなものなものだろう、と山浦は解釈していた。
ちょっと変なことが起きるのもそのせいだと。
「気にしなきゃいいんだよ。家賃二万円だしね」
岡田と広瀬は顔を見合わせた。
「害はないんですよね?」
そう山浦に念を押す。
「そんなに心配なら、朝になったらちょっとお参りに行こうか」
「お参り?」
「ああ。下の部屋に行って、線香ぐらい上げた方がいいだろ?」

翌朝、三人は一階の空室へ向かった。
「僕は先輩に言われた通り、月一ぐらいでやってんだけどね。次は岡田か広瀬のどっちか、引き継ぎ頼むよ」
そう言いながら山浦がノブに手を掛けると、鍵も掛かっていなかったのか、ドアは簡単に開いた。
窓からの光だけでは薄暗かったが、がらんとした室内は線香の匂いがする。
部屋の奥にぽつんと一つ香炉が置いてあるのが見えた。
「ここにいるんですか?」
「いるんじゃないかなあ」
そう言いながら、おっかなびっくりの岡田に山浦は線香とライターを渡した。
「おじゃましまーす」
靴を脱いで声を掛け、室内に上がると三人は線香に火を点ける。
そうして、これからもよろしくお願いしますと手を合わせた。

その晩、岡田と広瀬の夢枕に大家の祖父母と思しき二人が立った。
にこやかな顔をした人の良さそうな老夫婦だ。
これで初めてこのアパートの住人になれたような気がして、少しほっとしたという。
それ以降は何となく不思議なことが起きても、「また爺さんが何かやってんのかな」と思うようになり、怖さは無くなった。

その後、山浦が大学を出て田舎に帰ると、岡田も彼女のアパートで同棲を始めた。
最後に広瀬が残ったが、その広瀬も大学を卒業して就職すると共に近所のマンションに移った。
その度ごとに老夫婦は夢に現れ、穏やかな笑みを浮かべて送り出してくれた。

月ごとに線香を上げる人が居なくなった今も、住む人も無いままそのアパートは未だそこに建っているそうだ。




原典:超-1/2010 守り神

寮暮らしのしがらみに疲れた渡辺さんが、それまで住んでいた社員寮を出て一人暮らしを始めた時のこと。

渡辺さんが借りたのは築十七年の木造二階建てアパートで、角部屋の101号室。
1LDKで三万円と、破格に家賃も安い。
元々、荷物の少ない渡辺さんの引越しは簡単だった。
早速、102号室と201号室に挨拶に行くと、どちらも自分と似たような年齢の男性である。
対応から受ける感じも良く、これからの一人暮らしがとても楽しみなものに思えた。

引っ越して三日目のこと。
夜、コンビニ弁当を食べながらテレビを見ていると、不意にチャイムが鳴った。
玄関に出てみると、102号室の住人・田中さんが立っている。
「もう少し静かにして貰えますか?」
迷惑だと言わんばかりのその言葉に、渡辺さんは思わず反射的に「すみません」と頭を下げた。
部屋に戻り、テレビのボリュームを下げる。
それ程大きい音でもないのだが、壁が薄いのか。
原因に思い当たる節はないが、引っ越して早々に問題は起こすのは後々面倒だ。
なるべく物音を立てないように、気を付けて部屋の中を移動するようにした。
そうしているところへ、再びチャイムが鳴った。
玄関のドアを開けると、今度は201号室の住人・山本さんが立っている。
「あまり騒がれても困るんですが…」
酷く不機嫌そうな様子でそう口を開いた。
「明日も平日ですし、引越し祝いは別な日にして貰えませんか」
「へっ?! 」
思ってもみなかった言い分に、半開きの口から間抜けな声が漏れた。
「『へっ?! 』じゃないでしょう! 」
ぽかんとする渡辺さんの態度にムカついたのか、山本さんは声を荒げた。
物には限度がある、一体何人で騒いでいるのかと凄い剣幕である。
これは中を見て貰うしかない。
そう考えた渡辺さんは、取り合えず部屋に入って貰った。
リビングにはまだ荷を解いていないダンボールと、ボリュームを小さくしたテレビ、奥の部屋も布団が敷いてあるくらいのものである。
人の気配などどこにもない。
山本さんは首を傾げながら部屋に戻っていった。
何人でと言われても一人だし、声を上げて騒いだ覚えもない。
渡辺さんは困惑した。
答えが見つからないまま、その日は就寝する事にした。

午前二時過ぎ、何度も繰り返し鳴り響くチャイムの音で叩き起こされた。
眠い目を擦りながら玄関のドアを開けると、田中さんと山本さんの二人が立っている。
「いい加減にしてほしい!」
二人は同じ言葉を口にした。
渡辺さんは何が何だか訳が解らなかった。
たった今まで熟睡していたのだ。
田中さん達に言われるような騒音を立てられる筈がない。
二人の言い分によれば、それぞれが部屋を出るまで、激しく壁や床を叩くような音がしていたのだという。
それが玄関の前まで来るとピタリと止んだ。
これはきっとわざとやっているに違いない。
そう思っているらしい。
話は平行線で一向に埒が明かないので、実験をしてみる事にした。
一体、どれだけ壁が薄いのか、建物の構造上そんなに音が響くものなのかと。
まず、渡辺さんの部屋に201号室の山本さんが残る。
渡辺さんは、田中さんの部屋・102号室に田中さんと一緒に入室する。
その上で山本さんに101号室の壁を叩いて貰い、どれ程の騒音なのか確認する事にした。
渡辺さん達が102号室に入るなり、壁が揺れるかと思う程の騒音が聞こえた。
渡辺さんの部屋に面した壁に耳を当てると、確かにそちらから響いてくる。
酷く薄い壁なんだなぁ、と思ったと同時に気付いた。
田中さん達が来るまで渡辺さんは熟睡していた。
では、一体誰が壁を叩いていたというのか。
壁を叩く音の中に、何か呻き声のような低くくぐもった声も混ざっている。
「これ、この唸り声! これも煩いんですよ」
田中さんはうんざりしたようにそう言う。
声の事は初耳だった。
山本さんが知る訳がない。
そう指摘すると、田中さんの顔色が変わった。
思わず無言になる。
「どう? 聞こえた?」
そこへそう言いながら山本さんも102号室に入ってきた。
その瞬間、三人は凍りついた。
壁を叩く音と唸り声は、まだ続いていたのだ。

三人はそのまま、102号室で怖さを紛らわすために酒を飲みながら朝を待った。
音は朝までの間に、何度か激しくなったり止んだりを繰り返し、日の出と共に消えた。
この日三人は仕事を休み、今後どうするかの話し合いが行われた。
田中さんや山本さんによると、過去に101号室で事件や事故があったという事実はなく、このような事は初めての事だという。
そうなると、やはり渡辺さんに原因があるのではないかという事になりそうだが、当の渡辺さんには一切心当たりがない。
また、渡辺さんには再び引っ越すだけの資金の余裕はなかった。
そんな話し合いの最中、『ゴトッ、ゴトッ!』と大きな物を床に落としたような音が隣室から響いた。
渡辺さんは鍵を掛けていなかった事を思い出した。
昨日の騒ぎのおかげで、それどころではなかったのだ。
日も高く上がっていることから、三人とも泥棒だと思ったという。

それぞれビール瓶を手に、恐る恐る101号室のドアを開けた。
室内には白髪の男の後ろ姿があった。
背中が少し丸まっているところをみると、どうやら老人のようだ。
相手は年寄り、こっちは若いのが三人と思うと俄然強気になる。
「動くな!」
渡辺さんが威嚇すると、逆らうように右腕を真っ直ぐ肩の辺りまで持ち上げた。
それはどこかを指差しているようにも思えた。
「動くなって言っているだろう!」
再び大声で威嚇したのと同時に、瞬時に姿が消えた。

三人は悲鳴を上げて102号室に逃げ戻った。
目撃したのは間違いなく老人だった。
だが、誰もその老人に見覚えはない。
不思議と、白髪と指差した方向以外、老人の服装も何も覚えてはいなかった。

「そういえば」
田中さんは近所で交通事故があった事を思い出した。
確か、老人が暴走族のバイクに跳ねられた死亡事故であったと。

三人は、記憶を頼りに百メートル程先の事故現場に向かった。
そこで見たものは、折られて散らばった花束と投げ捨てられた供え物の缶ジュース。
煙草の吸殻や、吐き捨てられたガムが周囲を汚していた。
近くのコンビニでゴミ袋を買い、三人は何も言わず掃除を始めた。
口にはしなかったが、理由が判ったような気がした。
綺麗になったところに新しくジュースを供え、三人は無言で手を合わせた。

それっきり怪異は止み、二度と起こる事はなかった。
渡辺さん達は、同じアパートで今も快適に暮らしている。






原典:超-1/2010

「なぁなぁ、あの場所知ってるか?」

仕事仲間との飲み会の席で、加島君に同僚の西君が突然そう切り出した。
昔は結構な観光名所だったが、すっかり寂れてしまった今はちょっとした心霊スポットになっている場所だ。
夜「肝試し」と称し、興味本位で訪れた者は必ずといって良いほど「何か」体験出来るらしい。
噂は知ってはいたが、加島君は行った事がない。
だが、成り行きで今度の休みに一緒に行く事になってしまった。
但し、日中に。
怖い話は好きだが、自分が怖い目に遭うのは別なのだ。
これだけは絶対に譲れなかった。

そして休みの日。
加島君と西君ともう一人の同僚山口君は、車で一時間半の所にある件の観光地に出掛けた。
着いてみるとそこは確かに人気もなく、崖に面した展望台の2、30m下では、荒波が打ち寄せて白い飛沫を上げている。
気のせいか、潮風がやけに冷たく感じた。
相当な賑わいを見せていた筈の茶屋も今は傍らにひっそりと佇むばかりで、当時の面影は微塵も残っていない。
茶屋の前の自販機もぼろぼろに錆び、半ば打ち捨てられたようになっていた。

「じゃ、ちょっと探索でもしてみっか」
西君の提案で崖下に向かって行ってみる事にした。
三十分も歩いただろうか。
崖下の探索は呆気ない程何もないまま終わった。
崖下から戻って茶屋の近くにあるベンチに腰掛け、一息入れる。
「何にも起きなかったな」
「やっぱ昼間に来てもダメなのかな」
そう話す西君達だったが、酒の勢いもあったとはいえ、加島君にしてみれば本来気の進まなかった「肝試し」である。
その上実は崖下に降り始めた直後、加島君は何者かに足首を掴まれていた。
二人にそれを訴えたが、気のせいだと軽く流されてしまっていたのである。
それもあって、とにかく早く帰りたいという思いで一杯だった。

「何か喉渇いたな」
山口君が座っているベンチの背後にある自販機に目をやる。
潮風やら波やらで錆び付いていて今にも倒れそうなそれは、どう好意的に考えても稼働しているようには思えない。
「まぁ、ものは試しって事で」
山口君はベンチから立ち上がると自販機の前に立ち、ポケットから百円硬貨を取り出した。
投入口に硬貨を押し込もうとするが、中が既に詰まってしまっているのか、全く入っていかない。
「やっぱダメだわ」
そう苦笑いしながら、またベンチに腰掛けたその時だった。
――ゴトッ
突然自販機から何か大きな音がした。
一瞬、ビクリと身を竦めたが、きっと気のせいだろうと三人はそのまま他愛もない話を続けた。
――ゴトゴトッ!
再び大きな音が自販機から響く。
さすがに黙っておれず、西君が自販機の様子を見に行った。
見た目には特に変化はない。
もしかして何かの拍子にジュースが落ちてきたのかもしれないと、取出し口に手を入れた西君の顔に疑問符が広がった。
そこから次々と取り出されたのは、ごつごつとした握り拳大の石が三個。
その後も取出口を弄っていたが、それ以外何も入ってはいなかった。
「誰か悪戯して入れたんだな、きっと」
ベンチに戻り、山口君にそう言って西君は笑う。
――ゴトゴトッ
自販機からまた「あの音」がした。
今度は山口君が確かめに行くと、先程と同じように取出口に石が三つ入っている。
「お前、さっき取り忘れたんだろ」
そう言って笑う山口君に西君はムキになって「絶対に全部取った」と言い張った。
そういう事が二、三度続いた後、「まぁ、もう帰ろうや」と、加島君は二人を宥めるようにしてベンチを立った。
音がして自販機を覗く度に石が三つ出てくるなんて、まるで自分達の人数に合わせているかのように思えて、加島君はとにかく気持ち悪かったのだ。

「いってーな! 何だよ!」
駐車場に向かって歩き出した途端、後ろから西君の怒鳴り声がした。
加島君と山口君が振り返ると、頭をさすっている西君と目が合った。
その途端に西君は酷く戸惑ったような表情を浮かべた。
聞けば後頭部をゴツンと殴られたような感触があったという。
てっきり加島君達がふざけたのだと思ったが、自分が最後尾だと気付いて困惑したのだと。
狐につままれたような思いで再び歩き出して間もなく、山口君が明後日の方向を指差した。
「あれ、何だ?」
指が示す先には、ぽつんと小さな祠があった。
展望台の陰に隠れて見えてなかったのか、それまで加島君達はそこにそんなものがあるという事に全く気付いていなかった。
好奇心で見に行ってみたが、何の変哲もないどこにでもあるような祠だ。
花や供物もなく、今は誰も世話をしていないようである。
一通り見たが、特にこれといったものもなく、三人はまた駐車場へと向かうため踵を返した。

「いてっ!」
今度は山口君が声を上げた。
西君同様、頭をさすっている。
同じように後頭部に何か衝撃を感じたと言うのだが、ここには自分達三人以外誰もいない筈。
――と、その時。
「危ないっ!」
西君が大声を上げると同時に素早く身を屈めた。
その瞬間西君の上を越えて、何かが風を切るような音を立てながら、凄い早さで加島君の耳スレスレを掠め去った。
自販機から出てきたものと同じ、あの石だ。
「な、何だよ、あれ」
呆然としている三人に、石はまるで次々と襲い掛かるように飛んでくる。
「どっから飛んできてんだよっ!!」
半ば怒った西君が、石の飛んでくる方向を見定めようと辺りを見回した。
西君の目線が止まる。
石は祠から飛んできていた。
ついさっき、祠を見た時には石などどこにも身当たらなかった。
石どころか、何もなかった筈だ。
だが、石はそこから三人目掛けて飛んでくる。
祠の中から突然「フッ」と現れ、三人に向かって一直線に飛んでくるのだ。

加島君達は夢中で駐車場まで走った。
一体何が起きているのか、訳がわからない。
でも、とにかく早くこの場を立ち去らなければマズい。
ただその思いだけに支配されていた。

何とか車まで辿り着き、西君は慌てて鍵を取り出した。
「早くっ!」
「何やってんだよっ!」
「ちょっと待てってば!」
二人に急かされるものの、焦りで指が縺れて上手く開けられない。
漸くどうにか鍵を開けると、みんな我先にと乗り込んだ。
だが、今度は車がなかなか発進しない。
「早く出せよ!」
そう加島君が後部座席から身を乗り出した時、運転席で西君が悲鳴を上げた。
必死に足元を指差している。

アクセルとブレーキの下、握り拳大の石がしっかりと床に刺さるように置かれていた。
どちらも踏めないようにされていたのである。

それ以降、加島君達は二度とその場所へは近付いていないという。




原典:超-1/2010 寂れた名所


昔、ある山道でバスが崖下に落ち、一人を除いた乗員乗客が全て死亡する事故があった。
地形的な問題があり、今でもそのまま崖下に放置されているのだ、という。

一種の都市伝説に近いものだが、ちょっとした興味を覚えた亮平がこの噂を調べたのは高校一年の時。
場所は亮平の住む地域からそれ程遠くない山らしい。
その年の夏、亮平は原付バイク仲間十人を誘い、ツーリングがてらそのバスを探しに行く事にした。

件の山に着いた一同は道路脇から崖下を覗きながら、車通りのない二車線の道をバイクでゆっくりと上って行った。
夜である上に街灯もない山道はほぼ真っ暗で、崖下に向けられた懐中電灯の明かりも所々に生い茂る木々に遮られて、思った程見通しが利かない。
半ば本気で期待していなかった事もあり、そろそろ切り上げて帰ろうかと思い始めた頃、仲間の一人である明雄が皆を呼び止めた。

明雄が懐中電灯で照らした辺りをよく見てみると、所々塗装が剥がれ錆が浮き出て老朽化しているガードレールの、ある一帯だけが色合いが異なっていて、他と比べても年代がやや新しいようだ。
それはまるで車が突き破った箇所を修復した跡のようにも思える。
では、ここがその場所なのだろうか。

そこの崖は他よりも傾斜が比較的緩やかで、降りようと思えば出来ない事もない。
そう判断したのか、明雄はバイクから降りるとガードレールを乗り越えてそのまま崖を降りていく。

「バス、あったぞー! 」

暫くして響いた明雄の声に、亮平と仲間達は顔を見合わせた。
半信半疑で崖下へと降りてみる。
十メートル程下に平坦になっている部分があり、明雄の懐中電灯の明かりがチラチラしているのが見えた。
そしてその明かりに照らし出されていたのは、随分と長い間放置されていたと思しき、ボロボロに錆び付いた横倒しの大型バスの車体。 
噂は本当だったのか。
だとしたら、これに乗っていた人々は殆どが亡くなっている筈だ。
この場所にはそうした人々が、突然命を絶たれた無念さや浮かばれぬ想いに未だ成仏出来ずにいるかも知れない。
そう思うと、亮平は少し背筋が寒くなった。
皆、同じ事を考えたのだろうか。
すぐに誰からともなく言い出した、「帰ろう」という言葉に異を唱える者は誰もいなかった。
そうして再び崖を登ろうとする間際、振り返ると明雄がバスに向かって手を合わせていた。

無事に崖を登り切り、皆それぞれのバイクに乗ると帰路を急ぐ。
暫く山道を走り、左へ曲がる急カーブに差し掛かった頃。
突然、前の方から悲鳴が聞こえたかと思うと、集団の先頭を走っていた仲間が転倒、ガードレールに激突した。
驚く間もなく、後を走っていた仲間も転倒したりお互いで接触したりと、次々に事故に巻き込まれていく。
亮平も慌ててブレーキレバーを引いたが手応えがない。
何度も何度もレバーを引くが、その度にスカスカという軽い反応しか返って来ないのだ。
辛うじて先に転倒した仲間は回避出来たものの、そのまま曲がり切れずにガードレールにバイク側面をぶつけ、車体と右足を擦って走った後に何とか停まった。

「お、おい、大丈夫か? 」

一番後ろを走っていた明雄が転倒した皆の近くにバイクを停める。
どうやら彼だけは無事だったらしい。
その他の者は何故か皆揃って右手足を怪我していたが、あまりスピードを出していなかったためか、それ程重症ではなかった。
どうやら明雄を除く全員のブレーキが効かなくなっているようだ。
改めて背中を冷たい汗が流れる。
早くこの場から逃れたい一身で、それぞれに怪我を庇いながら急いでバイクを押して山道を下り始めた。

苦労しながらどうにか山を降りると、いつの間にかブレーキは正常に戻っていた。
そこからは皆、普通にバイクを運転して帰る事が出来たのである。




原典:超-1/2009 バス繋がり

真砂子さんには姉が三人いる。
三人年子の姉達と真砂子さんとは十歳近く年齢が離れており、父親が違うせいもあってか、仲良く一緒に遊んで貰った記憶は殆どない。

母親の最初の夫は仕事をせず、家にお金を入れなかった。
子供を持てば少しは父親として自覚してくれるかと期待したが、働かない夫の性根が変わる事はなく、それに耐え兼ねた母は子供達が小学校に入る前に父親の元に置いたまま逃げるように家を出た。
身寄りもなく頼る相手がいない状態では、子供を三人も育てる自信がなかったのだ。
姉達は生活力のない父親の元で相当に辛く苦い思いをしたらしい。
それから数年後、再婚した母は前夫から子供達を引き取ったのだが、その頃には既に母と姉達の間には埋めようのない大きな溝が出来ていた。

現在の夫である真砂子さんの父は、義理の娘達を実子の真砂子さんと分け隔てなく大切に育てたが、なさぬ仲の娘達は皆二十歳そこそこで結婚するとさっさと家を出て行き、それからは音信不通に近い状態が何年も続いていた。
姉達の気持ちもわからないではない。
事情があったとはいえ、置いて出て行った母の方が悪いのだ。
真砂子さんはそう思っていた。
暫くして二番目の姉が嫁ぎ先の姑との折り合いが悪くなり、それが引き金になってどこかの宗教にのめり込んでいるのがわかった。
それは姉達との距離をより遠いものにしたのである。

その日、会社が休みだった真砂子さんは以前から体の不調を口にしていた母を病院に連れて行った。
すると脳梗塞を起こしている事が判明。
左半身に麻痺が残り、退院後もリハビリ生活が続いた。
それだけでも大変なところに悪い事は重なるもので、今度は父が心臓の発作で夜中に救急搬送されるという事態が起こった。
急遽手術をする事となり、そのまま入院。
その結果、一家の大黒柱としての負担全てが真砂子さんの肩に圧し掛かってくる事となった。
正直な話、自分一人の収入でやっていくにはギリギリで、金銭面だけででも姉達に助けて欲しいと思った。
しかし、早急に連絡したにも関わらず、姉達は見舞いどころか電話の一本さえも掛けては来ない。
父方はといえば、母との再婚が原因で親戚一同から絶縁されて久しく、頼ろうにも頼れない状況にあった。

その頃からだった。
身体が不自由になり、居間で過ごす事の多くなった母がしきりに「一緒にいてほしい」と懇願するようになった。
仕事の忙しさもあり、病気のせいで心細いのだろうと最初はそう思ったのだが、やがて妙なものが家の中に現れる事に気付いた。
それは玄関であったり、お風呂場であったりと出る場所は様々だが、必ず真砂子さんの視界に入る場所にいた。
蛙の卵、と言えばわかるだろうか。
あの澱んだ水の中に沈む、帯状に連なるゼリー層に包まれた独特の塊。
あれに似たものが、隅っこに固まってヌメヌメと顫動している。
その半透明なゼラチンの球体一つ一つの中心にある、丸く黒いものが眼球のようにゆっくりと動き、まるでこちらを見ているかのようで、酷く気味が悪かった。
それは真砂子さんが目を離すとすぐに消えるので、きっと疲れているせいで見間違えてたのだと考えていたのだが、あの少し歪な滑りのある塊が一つ、また一つと、うたた寝をする母の口に吸い込まれるように入って行くのを見た時、さすがにおかしいと思った。

そんなある日、現実的に厳しい経済状況から少しでも生活の足しになればと思い、真砂子さんは家にある荷物を整理する事にした。
本や洋服など、使えそうなものは片端から売りに出したのだ。
その中で奇妙なものを見つけた。
マジックか何かで黒く縁取られた、和紙で出来た葉書のような白い紙に赤で、両親と真砂子さんの名前がはっきりと書かれている。
三人の名前の上には大きな黒い×が付いていた。
他にも血判と思しき印が押され、裏にはミミズが這った後のような赤い文字。
その中に紛れて『死』や『呪』という文字が読み取れる。
酷く嫌な予感に襲われ、真砂子さんは慌ててそれを焼き捨てた。

翌年、母が亡くなった。
葬儀の席で顔を会わせた姉達は、変わり果てた姿の母親を見ても顔色一つ変えなかった。
そんな無表情な姉達の中で唯一、二番目の姉だけが妙にそわそわと落ち着きがない。
笑いを必死に堪えているかのようなその様子は、何だか酷く嬉しそうにさえ見える。
不自然なものを感じた真砂子さんは、二番目の姉の信仰している宗教を調べてみた。
そこでその宗教が神として祭っているのが『蛙』のような生き物だと知った。
真砂子さんは血の繋がった身内だけに、改めて他人以上に救いようのない深い業のようなものを感じた。
その矛先は間違いなく自分や父にも向いている。
そう思うと、怖くて仕方なかった。

しかしそんな心配とは裏腹に、母が亡くなってからは家にあの得体の知れないものが現れる事はなくなった。
その点では随分と気が楽になったが、真砂子さんはあの紙に自分と父の名前も一緒に書かれていた事が今でも気掛かりだ。
あれから間もなく、二番目の姉は離婚した。
現在どこでどうしているのか、その生死すらもわからない。

今のところ、真砂子さん父子は何事もなく元気に暮らしている。




原典:超-1/2009 「深淵」

二年程前の祖父の葬儀でのこと。
祖母の要望で大きな葬儀場を借りたが、九十歳という年齢のせいか、祖父の知人の多くは既に鬼籍に入っていて参列者は少なかった。

葬儀が始まると、何かざわざわと騒がしくなってきた。
祖父の棺の周りに入れ替わり立ち替わり、沢山の人が群がっているかのような気配がある。
やがてそれは濃密さを伴って会場全体に広がった。
まるで休日のデパートのような騒々しさだ。
だがそれも、長い読経が終わると潮が引くように静かになった。

これはお迎えに来たに違いないと、母は葬儀場での事を祖母に話した。
だがそんな事よりも、祖母には祖父が夢にさえ出てきてくれないのが不満なようである。




原典: 超-1/2009 「祖父の葬儀」



佐藤という五十を過ぎた男がいた。
子供はなく、妻の淑恵と二人きりの生活ではあったが、暮らし向きは凡庸ではあるものの悪いという事もなく、夫婦仲も良かった。
だが、佐藤は何を思ったか、同じマンションに住むある女性に熱心に言い寄るようになった。

その女性・容子は、夫と死別して一人悠々自適に暮らしていた。
容子の夫は多少財産があったようで、普通に暮らしていく分には困らないだけのものを容子に残していた。
佐藤はそこに目を付けたのだ。
元々そういう才能があったのか、佐藤は難なく容子を口説き落とす事に成功する。
佐藤は淑恵に離婚を切り出したが、さほど揉めることもなく、淑恵は拍子抜けする程アッサリと離婚に応じた。
そして佐藤からそれなりの慰謝料を受け取ると、何も言わずに姿を消した。
間もなく佐藤は容子と再婚した。
家具のみを買い替え、長年淑恵と暮らした同じ部屋に容子を迎え入れたのである。

それから五年程経った頃、佐藤の言動に少しおかしな所が見受けられるようになった。
以前にはなかった、指を噛む癖が特に目に付いた。
指先の皮と爪を、全部齧り取ってしまうのではないかと思える程、際限なく両手の五指を噛み続けるのだ。
佐藤の指先からはいつもじんわりと赤いものが滲んでいて、既に麻痺してしまっているのか、痛みも感じてはいないようだ。
仕事中に指を執拗に噛みながらブツブツと呟く姿に、周囲の人間は薄気味悪さを覚えた。

それから間もなくして、容子が車に撥ねられて死んだ。
ふらふらとした足取りで道路に出て事故に遭った事から、自殺ではないかと噂された。
その葬式の最中。

「…淑恵さん、来てますね」

佐藤の知人が隣にいた知り合いに遠慮がちに小声で言った。
参列者の中に淑恵の姿を見つけたのだ。
その言葉が佐藤の耳に届いたらしい。

「すまなかった! 」

突然そう言うと、佐藤はその場で土下座をした。
何度も立ち上がっては、オロオロとした様子で誰彼構わず土下座を繰り返す。
周囲の制止も聞かずに佐藤は頭を下げ続け、とうとう葬式どころではなくなってしまった。

別れた後、あれからすぐに淑恵が首を吊った事を誰に聞いたのか、佐藤は知っていた。
淑恵は毎年必ず、自分の命日に佐藤の枕元に立った。

──✕年✕月✕日
──あなたを迎えに来ます

佐藤の傍らに座り、耳元でそう囁いた。
生前と変わらぬ姿で佐藤を見据えている淑恵の目が、佐藤には恐ろしかった。

後日、佐藤が自宅で首を吊って死んでいるのが見つかった。
その口の中には、自ら噛み切ったと思われる第二関節から先の左の薬指が入っていた。
淑恵の予告より一年近く早い日だった。




原典: 1/2009 「返報」



恵美さんの祖父は近所で一人暮らしをしていた。
祖父の家の敷地内には、家の裏手にあたる場所に古い稲荷神の祠があった。
恵美さんが小さな頃から、祖父は必ずお酒とお米、他にも塩などを毎日欠かさず「お稲荷さん」にお供えをして手を合わせていた。
祖父のその様子を、よく後ろから恵美さんは黙って眺めていた。

小学校に入る前だった。
恵美さんは時々祖父の真似をして、一人でお稲荷さんにお参りする真似事をして遊んでいた。
その日も祖父の家に遊びに行くと、いつものように祠の方に向かった。
家の正面からぐるっと回り込み、お稲荷さんが敷地の角に見える辺りまで来た時だった。
先客がいた。
髪を綺麗に結い上げた、和服姿の上品な女の人の後姿がそこにあった。
頭と肩が小刻みに揺れていて、何かを頻りに食べているように見える。
辺りにはお香のような匂いが充満していた。
(あ、いい香り…)
そう思った意に反して全身が粟立つ。
その人に声を掛けてはいけない。
自分の中の何かがそう言っている。
怖い。
酷く怖い。
恵美さんは急いで家の中にいた祖父の元に走った。
後からもう一度見に行くと、生米が喰い散らかされたように散らかっているだけで、誰もいなかった。

数年後、恵美さんが高校生の頃に祖父は亡くなった。
両親は祖父の家を取り壊し、アパートを建てる事を計画した。
その前に一度だけ見に行ったお稲荷さんは、誰も手入れをする者がないせいだろうか、随分と廃れてしまった感じがした。
やがてアパート建築の計画が実行に移ると、家と共に稲荷の祠も取り壊されてしまった。

工事が始まって二ヶ月程経った頃。
恵美さんの叔父が右腕を切断するという事故に遭った。
走っていた車と車の間に、近くを歩いていた叔父が挟まれたらしい。
それぞれの車の運転手は「人が歩いているのなんて見えなかった」と証言した。
その事故から一ヶ月もしないうちに、今度は伯父が自宅の二階から飛び降りた。
二階で高さがそれ程なかったおかげで運良く命は助かったが、打ち所が悪く、下半身不随という状態になってしまった。
飛び降りた理由は本人にもわからなかった。
これにはさすがに恵美さんの両親も不安になったらしい。

稲荷に所縁のある寺に頼んで読経して貰い、稲荷の祠も恵美さんの家の敷地内に新しいものを建てた。
それで一旦は納まったかように見えた。
しかし、今度は家の中に女が出るようになった。
振り向いたり、顔をそちらに向けるといない。
女はいつもさり気なく視界の隅に居た。
家のそこかしこに、覚えのある濃厚なお香の匂いが漂う。
和服姿の女。
昔見たあの女が家の中を徘徊している。
恵美さんの両親もその女を目撃していた。
朝になると台所の生米が喰い散らかされていて、家中の食べ物が恐ろしく速いスピードで腐っていく。

恵美さんの両親はお祓い出来る人物を探したが、費用の割にその効果は薄く、結局元の場所に再び祠を建てる事にした。
その頃、アパートは既に殆ど出来上がった状態にあり、今更元通りに戻すというのはかなり難しい状況だった。
そこで恵美さんの両親は出来上がったアパートの一階部分、以前祠があったと思われる場所に該当する部屋の中に稲荷の祠を造った。
女は現れなくなった。

その後伯父は奇跡的に歩けるようになり、主治医を驚かせた。
両親はお稲荷さんを大切にするようになり、お供えと祠の手入れを欠かさなくなった。
その後、アパートは一階以外の部屋を貸し出したが、立地条件は良いにも関わらず、なかなか借り手が現れない。
今は恵美さんの両親が毎日訪れるのみになっている。

良いものか悪いものかというより、酷く飢えているというのがどうにも気味が悪いと恵美さんは言う。
子供の頃祖父に、この中には狐がいるのかと訊くと「うちはどうかなぁ」と言葉を濁された、と。
今もアパートの部屋の中にはお供え物が散らばっている事がある。
女は相変わらず生米が好きなようだ。




原典: 超-1/2009 「稲荷アパート」



十五年程前、福田さんが高校生の頃の話。
福田さんが通っていた女子校は商業科と普通科のある高校で、ロの字型の校舎は出入り口も教室も二つの科で東と西に分かれており、互いの科で用のない限りは行き来はしない事になっていた。
そのため商業科だった福田さんは西側の校舎に行く事はあまりなかったのだが、それとは別に西側に行かない理由があった。

入学して間もない頃、西側校舎の倉庫まで頼まれ物を取りに行った時のこと。
四階の南西角の辺りに、生徒と思しき女の子が逆さまに浮いていた。
現在の紺のブレザーに切り替わる前の制服だった茶色のツーピースを身に着け、足をどこかに引っ掛けてぶら下がっているふうでもなく、何もない空間にただ浮いている。
服も、背中の中程まである綺麗なストレートヘアにも乱れはなく、そこだけ天地が逆転しているかのようだった。
無視をして通り過ぎたせいか、その時は何事もなく済んだのだが、四階の西の角部屋辺りはいつも薄暗く嫌な感じがした。

二年になり、新しい授業に家庭科が加わった。
家庭科の先生は明るく大らかで気さくな大西という中年の女性教諭で、生徒に大変人気があった。
授業の最初の半年が調理実習で、後半は裁縫の実習でワンピースを作るというもの。
ミシンがある家庭科室は南西側三階の角部屋にあった。

一回目の授業でのこと。
3~4人の班に分かれ、先生がミシンの使い方の説明をしていた時、先生の立っている右前側の入口からスッと黒い人影が入って来た。
素早い動きに反射的に目を逸らす。
見てはいけない。
福田さんは無視する事に決め、そのまま続けて先生の説明を聞いていると、突然「バキッ」と音がしてミシン針を取り付けるアーム部分が折れた。
そのまま「ガチャン」と、ミシンの前に座っている福田さんの膝に転がり落ちる。
騒然となった友人達の後ろに茶色の制服が見えた。
目を合わせまいと、膝の上の部品に目を落とす。

「大丈夫? 後で新しいの持って来るわね。ケガはない? 」

驚いて少し慌て気味に掛けてきた先生の声に顔を上げると、彼女の姿は消えていた。

その後も家庭科の時間にだけ、彼女は現れた。
その度に、福田さんの班のボビンケースだけが各々の裁縫箱から弾け飛んだり、机に福田さんのまち針が全て針の方を天井に向けて埋まっていたりと、通常ではあり得ない現象が続いた。
そしてあの日。
先生に途中経過をチェックして貰うために順番待ちをしていると、福田さんの脇を掠め、すぐ横の黒板に糸切り鋏が突き刺さった。

堪りかねたクラスメイトが「福田さんと一緒に授業を受けたくない」と訴えた事で、皆より制作が遅れている事を理由に、補習授業という形で福田さんは放課後に一人で授業を受ける事を余儀なくされた。
授業という形を取っているにも関わらず、他のクラスの十人程の生徒が常に先生に纏わりついていた。
一応先生は気に掛けて順調に進んでいるか見てくれようとはするのだが、そこは人気者の先生の事、他の生徒が放って置かない。
福田さんは一人黙々と足踏み式ミシンでワンピースを縫っていた。
あの女の子に対する怒りが沸々と湧き上がってくる。
今度現れたら周りなんか気にせずに脅かしてやろうと思った、その時。
「ピシッ」と硝子にヒビが入るような音が響いた。
引き戸に付いた小さな磨り硝子に、人の影がゆらゆらと揺れている。

── せんせい…

耳元で泣いているように震える声が聞こえた。
背中の両肩胛骨から冷たい物がスゥッと体の中をすり抜けて行く。
肩胛骨から両上腕にかけて、皮膚の上を冷水が流れていくような感覚があった。
次の瞬間、福田さんの上腕から茶色の袖がするりと伸びていた。
袖口から覗く手が、ミシンに置かれた福田さんの両手を掴む。
ペダルから足を離した筈のミシンの針は、カタカタと滅茶苦茶にワンピースの生地の上を暴走し続けている。
このままでは手を縫われてしまう!

「ナゥ マク サ マン ダ バ ザラ ダン カン!」

ありったけの気合いを込めて、知り合いの和尚様から教わった不動明王の真言を叫び、自分の胸の真ん中に強く「ドン!」と拳を打ち付ける。
「スポンッ」と何かが抜ける感覚があった。

「言いたい事があるなら聞いてあげるから言ってみな! 面白がってるんなら、許さないから! 」

振り向いて本気でそう言い放った福田さんの怒気を孕んだ語気に、彼女はゆらゆらと滲むように揺れながら泣きそうな顔で大西先生を指さした。

──せんせいの
──せいじゃ
──ないから

小さく何度も繰り返しながら先生の周りをぐるぐる回って、ゆらりとそのまま横に立つ。
先生と生徒達はただただ目を丸くして福田さんを見ている。
伝えなくてはいけない。

「先生、飯田由香子さんを覚えていますか」

その一言で、大きく見開いた大西先生の目から大粒の涙が零れ落ちた。

「飯田さんが『先生のせいじゃないから、もう気にしないで』と言ってます」

先生の、両手で覆った口から嗚咽が漏れる。

「…本当に? 本当にそう言ってくれてるの…? 」

そう搾り出すように言うと、周りの生徒たちに構わず声を上げて泣き出した。
他の生徒たちがするように教卓に手を置き、そんな先生の顔を彼女が覗き込んでいる。

もう一歩で教卓を囲むみんなの輪に入る、少し離れた教卓の真ん前。
彼女の逡巡を表しているような、その微妙な距離を先生は指差した。
自殺する2~3日前に彼女、飯田由香子は何か話したそうにそこに立っていた。
あの時、ちゃんと話を聞いてやっていればと、ずっと後悔していたのだと。
何度も何度も「ごめんね」と小さく呟きながら、先生は子供のように泣きじゃくった。
ふと気付くと、彼女はもういなかった。

その後も彼女は消える事なく西校舎の隅にいた。
様子は以前と随分違っていて、纏わりつくようだった陰鬱な空気はもうそこにはなかった。
卒業後何度か訪れた時に、一階の美術室前の芝生で陽光に透けるように、薄くぼんやりとなって静かに座っている姿を見掛けた。
その顔は初めて見た時とは違い、柔らかで穏やかな表情をしていた。




原典: 超-1/2009 「伝え残した言葉」