寮暮らしのしがらみに疲れた渡辺さんが、それまで住んでいた社員寮を出て一人暮らしを始めた時のこと。

渡辺さんが借りたのは築十七年の木造二階建てアパートで、角部屋の101号室。
1LDKで三万円と、破格に家賃も安い。
元々、荷物の少ない渡辺さんの引越しは簡単だった。
早速、102号室と201号室に挨拶に行くと、どちらも自分と似たような年齢の男性である。
対応から受ける感じも良く、これからの一人暮らしがとても楽しみなものに思えた。

引っ越して三日目のこと。
夜、コンビニ弁当を食べながらテレビを見ていると、不意にチャイムが鳴った。
玄関に出てみると、102号室の住人・田中さんが立っている。
「もう少し静かにして貰えますか?」
迷惑だと言わんばかりのその言葉に、渡辺さんは思わず反射的に「すみません」と頭を下げた。
部屋に戻り、テレビのボリュームを下げる。
それ程大きい音でもないのだが、壁が薄いのか。
原因に思い当たる節はないが、引っ越して早々に問題は起こすのは後々面倒だ。
なるべく物音を立てないように、気を付けて部屋の中を移動するようにした。
そうしているところへ、再びチャイムが鳴った。
玄関のドアを開けると、今度は201号室の住人・山本さんが立っている。
「あまり騒がれても困るんですが…」
酷く不機嫌そうな様子でそう口を開いた。
「明日も平日ですし、引越し祝いは別な日にして貰えませんか」
「へっ?! 」
思ってもみなかった言い分に、半開きの口から間抜けな声が漏れた。
「『へっ?! 』じゃないでしょう! 」
ぽかんとする渡辺さんの態度にムカついたのか、山本さんは声を荒げた。
物には限度がある、一体何人で騒いでいるのかと凄い剣幕である。
これは中を見て貰うしかない。
そう考えた渡辺さんは、取り合えず部屋に入って貰った。
リビングにはまだ荷を解いていないダンボールと、ボリュームを小さくしたテレビ、奥の部屋も布団が敷いてあるくらいのものである。
人の気配などどこにもない。
山本さんは首を傾げながら部屋に戻っていった。
何人でと言われても一人だし、声を上げて騒いだ覚えもない。
渡辺さんは困惑した。
答えが見つからないまま、その日は就寝する事にした。

午前二時過ぎ、何度も繰り返し鳴り響くチャイムの音で叩き起こされた。
眠い目を擦りながら玄関のドアを開けると、田中さんと山本さんの二人が立っている。
「いい加減にしてほしい!」
二人は同じ言葉を口にした。
渡辺さんは何が何だか訳が解らなかった。
たった今まで熟睡していたのだ。
田中さん達に言われるような騒音を立てられる筈がない。
二人の言い分によれば、それぞれが部屋を出るまで、激しく壁や床を叩くような音がしていたのだという。
それが玄関の前まで来るとピタリと止んだ。
これはきっとわざとやっているに違いない。
そう思っているらしい。
話は平行線で一向に埒が明かないので、実験をしてみる事にした。
一体、どれだけ壁が薄いのか、建物の構造上そんなに音が響くものなのかと。
まず、渡辺さんの部屋に201号室の山本さんが残る。
渡辺さんは、田中さんの部屋・102号室に田中さんと一緒に入室する。
その上で山本さんに101号室の壁を叩いて貰い、どれ程の騒音なのか確認する事にした。
渡辺さん達が102号室に入るなり、壁が揺れるかと思う程の騒音が聞こえた。
渡辺さんの部屋に面した壁に耳を当てると、確かにそちらから響いてくる。
酷く薄い壁なんだなぁ、と思ったと同時に気付いた。
田中さん達が来るまで渡辺さんは熟睡していた。
では、一体誰が壁を叩いていたというのか。
壁を叩く音の中に、何か呻き声のような低くくぐもった声も混ざっている。
「これ、この唸り声! これも煩いんですよ」
田中さんはうんざりしたようにそう言う。
声の事は初耳だった。
山本さんが知る訳がない。
そう指摘すると、田中さんの顔色が変わった。
思わず無言になる。
「どう? 聞こえた?」
そこへそう言いながら山本さんも102号室に入ってきた。
その瞬間、三人は凍りついた。
壁を叩く音と唸り声は、まだ続いていたのだ。

三人はそのまま、102号室で怖さを紛らわすために酒を飲みながら朝を待った。
音は朝までの間に、何度か激しくなったり止んだりを繰り返し、日の出と共に消えた。
この日三人は仕事を休み、今後どうするかの話し合いが行われた。
田中さんや山本さんによると、過去に101号室で事件や事故があったという事実はなく、このような事は初めての事だという。
そうなると、やはり渡辺さんに原因があるのではないかという事になりそうだが、当の渡辺さんには一切心当たりがない。
また、渡辺さんには再び引っ越すだけの資金の余裕はなかった。
そんな話し合いの最中、『ゴトッ、ゴトッ!』と大きな物を床に落としたような音が隣室から響いた。
渡辺さんは鍵を掛けていなかった事を思い出した。
昨日の騒ぎのおかげで、それどころではなかったのだ。
日も高く上がっていることから、三人とも泥棒だと思ったという。

それぞれビール瓶を手に、恐る恐る101号室のドアを開けた。
室内には白髪の男の後ろ姿があった。
背中が少し丸まっているところをみると、どうやら老人のようだ。
相手は年寄り、こっちは若いのが三人と思うと俄然強気になる。
「動くな!」
渡辺さんが威嚇すると、逆らうように右腕を真っ直ぐ肩の辺りまで持ち上げた。
それはどこかを指差しているようにも思えた。
「動くなって言っているだろう!」
再び大声で威嚇したのと同時に、瞬時に姿が消えた。

三人は悲鳴を上げて102号室に逃げ戻った。
目撃したのは間違いなく老人だった。
だが、誰もその老人に見覚えはない。
不思議と、白髪と指差した方向以外、老人の服装も何も覚えてはいなかった。

「そういえば」
田中さんは近所で交通事故があった事を思い出した。
確か、老人が暴走族のバイクに跳ねられた死亡事故であったと。

三人は、記憶を頼りに百メートル程先の事故現場に向かった。
そこで見たものは、折られて散らばった花束と投げ捨てられた供え物の缶ジュース。
煙草の吸殻や、吐き捨てられたガムが周囲を汚していた。
近くのコンビニでゴミ袋を買い、三人は何も言わず掃除を始めた。
口にはしなかったが、理由が判ったような気がした。
綺麗になったところに新しくジュースを供え、三人は無言で手を合わせた。

それっきり怪異は止み、二度と起こる事はなかった。
渡辺さん達は、同じアパートで今も快適に暮らしている。






原典:超-1/2010