その日、各駅停車の終電近い電車だったためか、車内は比較的空いていた。
駅に着く度に乗客は一人降り二人降りして、気付けば車内には自分を含めて数人しか残っていない。
少し離れた右斜め前の窓ガラスにふと目をやると、Gパン姿の若い男が座席に座っているのが映っている。
その人が座っているであろう辺りの座席に目を移す。
誰もいない。

――え?

もう一度窓ガラスに視線を戻すとやはり男はそこにいて、ガラスの中からこちらを見ていた。

<まもなく次は…>

車内アナウンスが次の停車駅を告げると、男はにっこりと笑い、軽く会釈をした。
駅に着き、電車のドアが開く。
窓ガラスの中で、席から立ち上がった男はそのまま電車を降りていった。



原典: 超-1/2009 「にっこりと」



十五年程前、当時二十歳だった竹田さんは、田舎を離れて紳士服メーカーの販売員をしていた。
その年の夏、地元で記録的な大地震があった。
この時震源地に近かった沖合いの島は、津波によって島民の4%が命を奪われる悲劇に見舞われ、壊滅的なダメージを受けた。
幸いにも竹田さんの実家のある地区は辛うじて津波の被害を免れ、実家は家の外壁のヒビと家中の家具が倒れた程度で済んだ。

お盆休みになり、帰省してみて初めて震災の凄さを肌で感じた。
道路が陥没し、古い家は倒壊寸前の状態であり、海岸沿いの家は津波で跡形も無く消え去っていた。
見慣れた景色が変わっていると何とも言えない気持ちになる。
竹田さんは複雑な気分だった。

帰省から二日後、実家でのんびり過ごしていた竹田さんに、珍しく高校時代の悪友の伊藤さんから電話が掛かってきた。
今年伊藤さんは仕事の都合で帰省出来ない、それで頼みたい事がある、と言う。
妙にこちらの機嫌を取るように、お前にしか出来ない、他に頼める人がいないんだと繰り返す。
聞けば、写真を撮って送ってほしい、とのこと。
突然変な事を言い出すものだと、詳しく聞いてみて漸く事情が飲み込めた。

伊藤さんの職場では、ある雑誌が元でちょっとした噂が広まっていた。
それは、震災で亡くなった方が夜な夜な国道沿いに現れる、というもの。
伊藤さんは「地元の事だから任せて下さい! 」と、職場の人に約束してしまったらしい。
確かにその噂が本当なら見てみたい。
不謹慎な話だったが好奇心には勝てず、結局竹田さんは噂の場所と現れる時間帯を詳しく聞き、電話を切ったのである。

その日の深夜二時、助手席にカメラを乗せた竹田さんの車は現場に到着した。

緊張感をほぐす為、煙草に火を点ける。
田舎の夜は街灯やお店の照明が少ないので一際暗い。
雲の影に月も隠れ、ヘッドライトだけが唯一の明かりだ。
大きく煙を吸い込みながら、確認のためにゆっくりと周囲を見渡した。
国道に沿って疎らに家が見えた。
ただ、海岸側の方の家は原型を留めてはいない。
津波はここで生活していた十数人の命を一瞬で奪い去った。
その時亡くなった人々が毎夜現れるというのだ。

煙草を揉み消すと、道路の端に見つけた空き地に車を停車させ、ライトを消した。
十分程息を潜めて待つが、通行する車さえなく、何の変化も見られない。
期待しつつそのまま三十分待ったが、いい加減緊張感も無くなった。
(何だ、ウソじゃん。出ねえじゃん)

痺れを切らし、車をUターンさせて帰ろうとして、歩道の辺りが青白く光っているのに気付いた。

「出たっ!! 」

田舎でよく見る普段着を着た、老齢の男女が二人ずつ、三歳位の男児が一人、成人の男性が二人、同じく女性が一人の、計八人。
皆一様に俯いて顔が判らない。
綺麗に一列に並んでいて、怪我を負っているふうでもなく、光っている事以外は生きている人と何ら変わりがないように思えた。

そのせいか、怖くはなかった。
むしろ触ってみたいとさえ思った。

「よし! 」

一呼吸置き、カメラを片手に車から降りようとした、その時。

──何で…
──何で…
──何で…

背後から、か細い声がした。
途端に一気に頭が冷えた。
それと同時に芽生えた恐れはどんどん増していき、呼応するかのように段々と声も大きくなっていく。

──なんで…
──なんで…
──なんで…

男とも女ともつかない声が頭の中に響き渡る。

「ああーっ!! 」

突如湧き上がった得体の知れない恐怖に耐え切れなくなった竹田さんは、叫び声を上げながら車を急発進させた。

──なんで…
──なんで…
──なんで…

頭の中では声が変わらずに響いている。

「うるせーっ! うるせーっ! 」

夢中で叫びながら車を走らせていると、次第に声が小さくなってきた。
逃げ切れる、そう思った竹田さんはさらにアクセルを踏み込む。
必死でハンドルを握り締めていると、家に着く少し手前で完全に声が聞こえなくなった。

家に着き、慌てて車から飛び降りると、玄関から一目散に二階の自分の部屋に駆け込む。
そのまま敷きっ放しの布団に潜り込んだ。
乱れている呼吸を整えながら、必死に考えを巡らせる。

(何だ、何で急に?何か怒らせた?っていうかすぐ後ろにいたのか?)

少し落ち着きかけた頃、『キーン』という耳鳴りと共に金縛りに掛かった。
うつ伏せの状態のまま、身動きが取れない。
頭から布団を被った状態なので周りを窺う事は出来ないが、明らかに人の気配がする。
自分を取り囲んで立っているようだ。

(やばい、これやばい)
そう思った瞬間だった。

──ドンッ

自分の上に何かが圧し掛かってくるような重さがあった。
その感覚と重さから、大人の人間だと感じた。
(重い、苦しい)と思っていると次々と上から人が倒れ込んでくる。

──ドンッ
──ドンッ
──ドンッ…

二人、三人…五人目が覆い被さってきた時、竹田さんは意識を失った。

「かずき、かずき!! 」

母親の呼ぶ声で目が覚めた。
恐る恐る布団から顔を出すと、周囲に何も変わった様子はない。

「こら、かずき! 」と相変わらず階下から母親の声がする。

「何だよ!うるせ~な!」

部屋のドアを開けると、自分が立っている踊り場の足元に大きな水溜りがあった。
自分の部屋には一切ないにも関わらず、階段の全ての段が水浸しになっており、それが玄関の方まで続いている。
竹田さんが呆然とそれを眺めていると、捲くし立てるような母親の怒声が響いた。

「あんた昨日、夜中に帰ってきたでしょ。海で水遊びでもしてきたの? すっごく潮臭いんだけど」

確かに周りには潮の臭いが立ち込めていた。




原典: 超-1/2009 「残された想い」



安田さんの愛犬はシェパードの中でも大きな体格の犬だった。
夜はいつも玄関のドアを開けたすぐ内側で寝ていた。
おかげで夜遅くに安田さんが帰って来ると、暗い玄関先でよく犬に躓いて転倒しそうになった。

「こないだも引っくり返りそうになってね」

安田さんは苦笑する。

「でも私だけじゃないんですよ。こないだ、昼間にセールスが来た時、やっぱり引っくり返りそうになって。びっくりしてましたよ」

安田さんの奥さんは一度も引っくり返りそうになった事は無いらしい。
数年前、愛犬が生きていた頃から。




原典: 超-1/2009 「玄関先に」



小林さんの職場の近くに二十四時間営業のコンビニがある。

元は一階に電気店を営む、二階建ての店舗兼住宅があった場所だ。
オープンから僅か二ヶ月で火事に見舞われた。
深夜に発生した火災は二階の居住区を中心に焼き、そこで消火活動と生存者の確認を担当していた消防士が一人犠牲となった。
家人は命こそ助かったものの火傷等の大怪我を負い、父方の実家に引っ込んだという。

それから半年後、住宅は取り壊され、広い駐車場を持つコンビニが建った。
通常の二倍程の大きさはある平屋のコンビニは、開店当初は結構な賑わいで、場所が近い事もあって小林さんの職場の人も頻繁に利用していた。

だが、一ヶ月も経たぬうちにある噂が囁かれるようになった。

『そこのトイレに深夜入ると、消防士の霊が出る』
『深夜買い物をしていると、天井を大きな音を立てて何かが走っている』

それは事情を知る近所の住民の足が遠のく理由としては充分で、訪れるのは通りすがりの人かトラックドライバーだけとなっていた。

一度でいいから見てみたい。
噂を聞いた小林さんはただ単純にそう思った。
その日の深夜、店員以外は誰もいないコンビニで雑誌の立ち読みを始めた。
頻繁にトイレにも入り、周りを確認する。
午前三時を回った頃だった。

──ドカ、ドカ、ドカ…

天井を大きく踏みしめる音がする。
(これだっ!)
店員が怯えた様子で天井を見つめている。
小林さんは咄嗟に店の外に飛び出し、屋根の上に誰かいないかを確かめた。
広い駐車場をあちこち移動してみても人影すら見る事は出来ず、諦めて店内に戻ると音は既に止んでいた。
音は聞けたが姿を見る事が出来なかったのを、小林さんは少し残念に思った。
一息吐いて落ち着いてくると、気が緩んだのか急に尿意を催してきた。
何も考えず、駆け込むようにトイレのドアを開ける。

消防士がいた。
全身に纏った銀色の耐火衣は少し汚れているように見えた。
顔は黒い煤のようなものに塗れ、その表情を窺い知る事は出来ない。
ただ、力なく立ち尽くしていた。

小林さんの眼から涙が零れ落ちた。
胸が詰まってどうしようもなくて、止めどなく溢れる涙を拭く事もせず、ただひたすらに泣き続けた。
トイレの前で立ちはだかっているのを不審に思った店員に声を掛けられるまで、小林さんはボロボロと泣き続けていたのだ。

後日、店を一日休業し、供養が執り行なわれた。

店長も噂が気になっていたようで、深夜に突如呼び出されたにも関わらず、店員と小林さんの必死の訴えを慎重に聞き入れてくれた。

あの時の事はうまく言えない。
言葉じゃないけど感情が伝わってきたのだ、と小林さんは言う。
必死の消火活動と救助活動の先に広がっていたのは、激しい炎の海。

──ああ、俺、死んじゃうんだ。
──お父さん、お母さん、帰れなくなって…ゴメン。

そんな感情が流れ込んできて、辛くなって泣いていたのだと。

今もそのコンビニは営業を続けているが、それ以来怪異の噂は聞かない。
成仏されている事を切に願うばかりである。




原典: 超-1/2009 「職務の果て」



高校三年生の夏休み。
佐山君は同じクラスの男子七人で、心霊スポットで有名な城跡に行った事がある。
戦乱の時代、殺戮や自決などによって多くの人々が命を落とし、三日三晩、亡くなった者の血で城内を流れる川が真っ赤に染まったという逸話がある古戦場だ。

夏の暑い夜。
山麓の公園で集合してから、暗い山道を登る。
城跡は山城なので殆ど登山のような感じに近い。
寂れた鳥居が転々とある所を通り過ぎてまもなく、古びた橋のある所へ出た。

橋を渡る時、決して振り向いてはいけない。
もし、振り向いたら呪いを受ける。

渡り始めた時、この橋に纏わるそんな噂を思い出した佐山君にちょっとした悪戯心が湧いた。

「玉置君!」

七人の中で一番怖がりの玉置君に後ろから声を掛ける。

「何?」

突然名前を呼ばれ、玉置君は驚いたように振り返った。

「いや、何でもない…」

どうやら彼は噂を知らないらしい。
(山を降りてから教えて驚かせてやろう。どんな顔をするか見ものだ)
玉置君が青ざめて慌てふためく様を想像して、佐山君は密かにほくそえんだ。

暫くすると、今まで人の後ろに隠れるようにびくびくしながら歩いていた玉置君が、いきなり先頭へ出てすたすたと歩き出した。
異様な程無言で俯いたまま、何かに取り憑かれたように物凄い勢いで山道を登っていく。
橋での事を思い出し、佐山君はドキリとした。
仲間達も彼の突然の変化に驚いている。
そのうち霧が出てきて前後の視界が悪くなり、しとしとと小雨が降り出した事とうしろめたさも重なって、佐山君はそろそろ帰りたいと思い始めていた。

どれくらい時間が経ったのか。
振り返ると街の明かりが随分と小さく見えて、いつのまにか相当山奥の方まで来てしまったらしい事に気付く。

「もう帰ろう!」

堪りかねて佐山君が先頭を歩いていた玉置君の腕を掴んで引っ張った途端に、玉置君は身を縮めてガタガタと震え出した。

「寒い、寒い…」

顔色も悪く、何だか目の焦点も定まらない。
小雨が降っているとはいえ、真夏の夜は蒸し暑く汗ばむぐらいであるのに、急に背中からゾクリとする妙な悪寒を感じて落ち着かず、佐山君達は玉置君を気遣うように下山を始めた。

そうして鬱蒼と茂った森の中の道を歩いていた時だった。

──カーン! 

突然鳴り響いた音に驚いて足を止める。

──カーン! 
──カーン! 

木に斧を叩きつけるような音だ。

──バキッ 
──バキバキッ! 

木の枝を踏みしめるような大きな音を立てて、誰かが暗い森の奥からやって来る濃厚な気配がする。
言い知れぬ恐怖でパニックになった佐山君達は、悲鳴を上げて一目散に走り出した。
雨でぬかるんだ山道を、泥に塗れるのも構わず必死になって転がるように駆け下りた。

どうにか麓まで降りてきて、漸く少しホッとする。
緊張感から開放され、先程の怪音について半ば興奮気味にそれぞれが喋り出した時だった。

「ガ、ガキが、変なガキが来るっ! 」

玉置君の尋常ではない喚き声に驚いて振り返り、佐山君達は見た。

つるつる頭で全裸の真っ白い男の子がいた。
全身を白く光らせ、黒い闇の中にぼうっと浮かび上がっている。
それが、ぴょん、ぴょん、と飛び跳ねながらこちらに向かって近付いて来るのだ。
誰かが上げた甲高い悲鳴がきっかけとなり、佐山君達は口々に叫び声を上げながらその場から全力で逃げ出した。

夢中で走ってコンビニのある所まで辿り着くと、佐山君は即座にそこで1キロ入りの塩袋を買った。
みんなを一列に並ばせると、端から順番に体に塩を投げつけて清める。
その頃になると、玉置君の状態も幾分か治まっていた。
既に終電も無く、佐山君達は怯えながらファミレスで一夜を明かした。

その後三日間は城跡を登る夢にうなされたという。




原典: 超-1/2009 「城跡」



梨絵さんが就職してまだ間がなかった頃のこと。
当時の梨絵さんの実家は五階建てマンションの三階。
一つの階に部屋は四つあり、二階からの階段を登り切った所から奥の方に向かって301・302・303・305号室の順に並んでいる。
彼女の実家は階段側から二つ目の302号室だった。

お盆で実家に帰って来ていた梨絵さんは夕食の後、三匹の愛猫とのんびり遊んでいた。
その内の一匹、雄のシャム猫が寝転がってじゃれついていた体を突然起こし、ぴくりと耳を欹てた。
顔は梨絵さんの方を向いたままで耳だけが後方を向き、意識がベランダの方に集中しているのがわかる。
その様子を何事かと思って見ていると、三匹が一斉にベランダを見た。
凝視する猫の目線の先を辿ると何かがひらひらと動いている。

蝶?
いや、それにしては大きさがおかしい。
ひょろ長いものが揺れているようにも思える。
では鳥か?
それも違うような気もする。
どちらであるしても、外は真っ暗だ。
こんな時間に飛んでるなんて。

よく見ようと目を凝らした瞬間に突然ハッキリと焦点が合った。
ドクン、と己の心臓の鼓動が大きくなったのがわかる。
ベランダの手摺の向こう、泳ぐようにうねうねと動いていたのは二本の異様に白い手。
肩から下の細い華奢な腕が左右バラバラに動いている。
指の先まで妙にくっきりと見えて、それから目を離せずにいたその時。

――ドンドン!
――ドンドン!

激しく玄関のドアが叩かれた。

「すいませんっ! 開けて下さい、中に入れてっ! 」

ドアを開けた途端、血相を変えて飛び込んで来たのは305号室の住人。
何度か廊下で顔を合わせた時に挨拶くらいはした事がある顔見知りの女性だ。
それがガタガタと歯の根も合わぬ様子。
次いで殆ど間を置かず、303号室の男性も飛び込んで来た。
やはり顔は蒼白。
わなわなと唇が震え、喋る事が出来る状態ではない。

「どうしたんですか? 」

一息吐いてから、梨絵さんの問いに彼等は漸く答えた。

「出たんですっ」
「ウ、ウチにも」

305号室では二本の脚が部屋の中をうろうろと歩き回り、303号室には部屋の真ん中に首は疎か四肢さえもない胴体だけが浮いていたのだ、と。

で、ウチには腕か。
パーツごとに順番に出て来たのだろうか。
そう考えながら気が付いた。
じゃあ、残るパーツは…?
再び血の気が引いた。

301号室は帰省中だったために確認する事は出来なかったが、そこの住人にとっては留守にしていたのは幸いだったのかも知れない。

「だって想像したら…ねぇ? 」

そう言って梨絵さんは首を竦めた。




原典: 超-1/2009 「足りないパーツ」

私がリライトをする作品は、往々にして情報過多であったり、選んだ文体で評価が上がらなかったりというものが殆どである。
反対に、無駄な記述は多くても肝心の情報が少ないと、いくら書き直そうと思っても無理がある訳で。

そこには私の好き嫌いというものは含まれていない。
だからリライトした作品の中には、正直あまり好きではないものもある。
ただ、自分の好き嫌いは別にして、書き方を変えれば上質の怪談になる可能性のあるものを選ぶようにしている。

勿論それにはリライトする側の筆力も必要となってくる訳だが、私はリライトを文章の訓練と位置付けてやっている。
謂わば「修行」みたいなものである。
一つの作品の中になるべく同じ言い回しや表現を使わないとか、正しい言葉の使い方を心掛けるとか、何度も読み返して不自然な所がないようにするとか、基本的な事を繰り返しやっている訳だ。
だから辞書は欠かせなかったりする。

去年、じぇいむ氏(雨宮淳司氏)のリライトブログの、リライトについて書かれた記事を読んで思ったが、正にその通りだなぁと。

「リライトは書く能力限定のジャンルとして割り切ることが重要」

いや、ごもっとも。
もう痛感致しておる次第。
去年と同じ数は無理だと思うが、なるべく期間中に一つでも多くリライト出来るよう、頑張る所存である。

原典著者の皆様には、少々ご不満もおありかと思いますが、そこはお祭りのこと。
多少は大目に見て戴きたいなと。
ええ、水温むような生温かさで。
どうか一つ。
友人の美加は大酒飲みである。
彼女の酒量についていけるのは私くらいで、他の皆は潰れてしまう。
飲み会の時、美加のお守りをするのは専ら私の役目だった。

この日も、いつものように潰れてしまった友人達をタクシーに乗せた後、イカやタコのようにグニャグニャと力の入らない美加を抱え、彼女のマンションまで送って来た。
(ベッドまで連れて行ったら、鍵を掛けて、明日出勤前の美加に鍵を返して…)
頭の中で明日までの段取りを決め、軟体動物と化した美加から鍵を受け取ってドアを開けた瞬間だった。

「ここにいたくない!」

強烈にそう思った。

美加には妙なものを引き当てる特技があった。
引っ越す先のマンションが悉く「出る」のだ。
この時も、美加はこのマンションに引っ越してきたばかりだったのだが、今回もどうやら当たりのようだ。

美加をこのまま一人で置いておく訳にも行かず、自分の家に連れて帰ろうかどうしようか玄関で迷っていると、さっきまで泥酔して正体不明だった美加が急にすくっと立ち上がった。
靴を乱暴に脱ぎ捨てると、左奥の浴室と思しき部屋に入っていく。
慌てて後を追うと、浴槽に身を屈めて中に手を突っ込んでいる美加の後姿が見えた。
何かを一心不乱に探っている。

水浸しの床の上でストッキングは色を変え、淡いピンクの薄物のトレンチコートも水に濡れて体に張り付き、下の服が透けて見えていた。
びしょ濡れになった袖口の黒い刺繍がやけにはっきり見える。
(…え? 待って、あんな刺繍付いてたっけ?)

「何してんの?! 」

美加の肩を掴んで体をこちらへ向けさせると、その手には黒い海藻のようなものが掴まれ、袖の刺繍から浴槽へと長く続いている。

「ひっ!」

思わず後ずさりした。
刺繍と見えたものは、袖に張り付いた長い髪。
無数の髪の毛が、袖に蔦が絡むかのようにへばり付いている。
息を呑む私に構わず浴槽へ向き直ると、美加は漁網でも引き上げるように髪を手繰り寄せた。
持ちきれなくなった髪を無造作にボトリと下へ落とす。
美香の足下には十五~二十センチくらいの髪の塊が、こんもりとした山になっている。

── ヌバッ ゴバッ 

水面から何か重たい物が引き上げられる音がして、長い髪の先に大玉のスイカくらいの物が現れた。

── ぶふっ ぐふふっ ゔははっ あはぁっ

足下の髪の山が笑った。
自分でも驚く程の機敏さで美加の手から髪をもぎ取り、浴槽の中へ放り込んだ。
そのまま彼女の手を掴んで浴室から引き摺り出すと、扉を閉め、思いっきり柏手を打つ。

── パンッ! 
── パァンッ!

力強い音が響くと、美加はくたくたと呆けたようにその場に座り込んだ。

それから美加を連れてどうにか自宅へ辿り着いた。
まるで自分のものではないかのように、妙に足が重く言う事を聞かなかったのを覚えている。
朝まで二人、まんじりともせずに過ごした。
カーテンの隙間から朝の光が射し込んできて漸く、ホッとしてお互いに顔を合わせる。
自然と笑みが零れた、その時。
美香の顔から見る間に血の気が失せた。

「カヤ、それ…! 」

私の足首には、二メートル以上解いてもなお切れる事のない、長い長い髪がぐるぐると絡み付いていた。




原典: 超-1/2009 「ぬばたまの…」

夜中、僕はよく一人で散歩に出かける。
東京とはいえ、この時間の下町の住宅街は静かだ。
人気のない住宅街。
煙草をふかし、何も考えずブラブラと散歩するのは良い気分転換になる。

その日もいつものように、ぼーっと散歩していた。
ふと、何気に上を見上げた。

電信柱の上、その天辺に人が立っている。
有り得ない。

もう一度目を凝らす。
女だ。
白い着物の女。
長い髪を振り乱し、眼をガッと見開いた青白い顔が見下ろしている。
上半身が激しくガクガクッと揺れていた。
ガクガクガクガクッ。
物凄い勢いで。

僕はその場から一目散に逃げ帰った。
一度も振り返らずに。

けれど、未だに目の奥に焼き付いている。
僕から絶対に視線を外さなかった、あの女の顔が。




超-1/2009  「散歩」