人間を喰った生存者の“生きる理由”  | “Mind Resolve” ~ この国の人間の心が どこまでも晴れわたる空のように澄みきる日は もう訪れないのだろうか‥

   mind resolve : chapter 015
 
   仮題: 臓器移植について (…真面目に) 
 
 
 清潔で安全な日本が、ドナーカード登録者の募集を始めるようになるまで、
移植臓器関連法案に反発する宗教の教祖連中や、脳死臨調の発表した内容に
文句があった人達は、今もまだ反対運動をやっているかも知れない。
 一方で、日本の国民のように暢気ではない海外では、移植用臓器売買の闇市
まである。カナダ、東南アジア諸国、欧米諸国に限らず、今日を生き凌ぐために
懸命な末端の人々のその姿は、かつて、戦後復興時期の日本の世の中で、
自分の血液を売って生活費を賄っていた人間の姿に似ている・と思う。
 それはまた、実話に基づいて作られた映画『生存者』にもあるように、
「いま生きるためには死んだ人間の一部を喰ってまでも生き延びる」という、
生命の中に存在する
 闇で臓器を売り買いしたり、自分の血を牛乳瓶に絞って売ってみたり、人間を
喰ってみたり、そこまでして生きようとする、生かされている、人間の“生きる理由”とは何か、
人類の生きる意味、目的とは何であり、それは、いつ どこで 誰が創ったものなのか…。
と、そういう疑問にはっきりと応えられる者がいたなら、
誰も、“本来とは別の方向”へ曲がって進むようなこともなかったと思う。
 また闇市とは正反対に世の中にある色々な職業のうち、移植臓器コーディネイターという
大変な仕事もある。収入はそれなりにいいかも知れないが、人間の命を相手にして
その職業をやっている本人達はハンパじゃない。
 そもそも、移植臓器というモノが何で必要なのか?
 先天性で臓器に障害を持つ人が この世に産まれてしまうことも、どこに問題があるのか?
 
 「あなたはドナー登録をして、臓器を提供することにYesかNoか?」
 
http://ameblo.jp/trackback-npo/entry-10003053821.html
 
の答えとして、今の俺自身は、
どんなことがあっても自分の身体の一部を他人に差し出すなんて、
それがたとえ献血であっても断る。でも、
「もしもそれが自分の子供に必要だとしたらどうする?」
と訊かれても、その時は、よく考えてから子供とも話し合い、やはり断る、提供はしない。
別に見殺しにする訳ではない。
 臓器を交換するという発想がどこから始まったのか? 
という疑問もあって、それはまたヘンに長くなりそうなので後回しにするが、今後、世の中に、
クローン臓器や移植臓器を管理する“パーツ用死体確保施設”が設けられるような日も、
漫画や娯楽映画の中だけの話ではなく、近い将来なのかも知れない。…儲かりそうだな。)
 済まない。真面目にやるはずの所をつい、いつもの“みなみ節”の蛇足が出てしまって…。
 反省。
 その、猿の反省でまた思い出したが、ドリーとポリーの二体の羊(のような羊でない生き物
二匹(と数えていいのか…ふたっつ)のサル。あの、クローン猿と羊はその後、どうなったのか?
今さら調べるのも面倒だが、恐らく、腐って駄目になってしまったと思う。
 肝臓や脳、脊椎、骨髄の細胞を中心に腐敗してな。…そんなの見なくても判るよ。俺はな。
 で、移植臓器。それはクローンにしても、人から人へのパーツ交換にしても、移植された人は
どうなるのか? また、移植を提供した人の中身、肉体の中に在った魂は、どうなってしまうのか?
後者の方はやってみないと、亡くなったあとでないと、体験することもできないし、またそれについて
何かをの賜ったとしても、現代の我々人間の頭では勝手な想像にしか過ぎないが、
ひとつ、間違った点があるとすれば、それは、
医学や科学が人間について“解ったようなフリ”をしてきたこと。
あるとすればではなく実際にある紛れもない事実なんだけどな
   今日は一歩譲るよ…今んとこは。)

 
 例えば、「人間の精神に潜在する祖先の経験した名残」という概念を“集合無意識”と称した
カール・ユングの一説。そこに、「遺伝的に…」という意味合いを絡ませて、
「人間には遺伝子レベルで細胞内に受け継がれた過去の情報が在る」とメンデリズムを
継承した言葉を並べてみても、そこまでの仮説を導き出した分析結果は全て、
部分的、対処的、統計的判断を学者達に都合よく総括した推測に他ならない。
 ありとあらゆる学問が枝別れした今日、無知蒙昧な学識に基づいて考察された研究の断片。
そこには、人間が生きるために必要以上のものが多過ぎる。
 そのため、これまで、我々が信じてきた科学、考古学も解剖学も、果ては如何なる宗教宗派
であっても、“人間の創られ方”そのものを無視した解釈で人類の神秘を暴こうと必死になり、
闇雲にそれを追究することが、我々を生かしている自然界を破壊する事に拍車を掛けて来た
に過ぎない。
 確かに、近代科学技術の進歩に伴ってか、バイオロジーに察られる遺伝学の中では、
「産みの親に似た形であっても個々のDNAは一つしかない」とされ、それは例えば、
各国の警察。その治安捜査の上でも役に立ち、立証されている。
 しかしなぜ、一人の人間に一つしかないのか? 
 その理由について確信を持って述べられる生物学者も検視官もいない。
 要するに、人間の創られ方そのもの、人間の肉体と心の関係が明確にされていない。
 人間の精神、心、魂、幽体、亡魂という目に見えないものの存在についても、この何百年かの間、
我々の教育や宗教は、自分達の目で現実に見えるものと見えないもの、
特に、肉体と心を常に掛け離して考え、自分達の生きる世界を、統計学と夾雑な推測の中へ
押し込めようとして来た。精神分析、心理学等はその代表的な愚学の内にあり、
部分的な結果だけを集めるだけで “人の心”が解らない学問の象徴である。
 総てが自然の産物であり、その中で最初から、心によって動く肉体を持つ我々人間。
その自分自身が自由にはならず、目に見えない何かに束縛されて生きている・という、
その否定できない事実に気づけないし、そのために瑤悩している今日の人類が在る。
 それは、何のために肉体を持ってこの世に産まれたのか。この自然界、地球上に何故、
人間が創られたのか。この事を未もって、誰も説き明かせなかったからである。
 人間の造ったあらゆる学問があり、教育があり、それを育ませた人の一生より長い
歴史があり、その中で遠廻りに累積された知識、統計学こそが事実と推測を混ぜ返し、
今日、多くの人々を複雑に混乱、腐心させて来た。そして現在、この玉石混淆とした
人類の窮迫に気づいている人々は、日本よりも欧米諸国に多い。
 
 地球の誕生や人類の起源、その進化論についても、無から有になった後、結果だけ
については衆知に騙られては来たものの、形になる前の事実については誰もが頷ける様に
説いた者はいない。
 現在、様々に枝別れしてしまった宗教の教え、哲学の思粟に限らず、科学という狭い分野にも、
それらを良識としてきた世界の教育には、“0”からの出発点がない。
 反復するが、人間として形になった後から考える自由を暴走させ、好き勝手な事を騙る前に、
唯一つ、初めから全てに於いて創られ方が違う。この事実に気づけないがために、
自然の法則から外れた者の殲滅が増大されつつも、地球の浄化作用、学者達の言葉で言う所の
”自然淘汰”を長引かせている。…我々人類は今、ゆっくりとした崩壊の中にいるということになる。
 例えば、我々人間は、自分達の過去を顧みて、自然保護、環境保全と唱えながらも、一方では
複製植物を量産、牛や羊、鼠や猿のクローンを模作し、
複製人間、クローン臓器までも売買しようとしている。
 だがそれは決して「神の領域に触れた」という大それた事ではない。
 現代の人間は、神の領域に触れるほど優秀ではないようである。
 では、自然界に生きる人間の肉体と心は、どのような過程を経て今生に存在するのか? 
 誰が何の目的で人間を創ったのか? 本当の進化論とは? 
まず、そこが全く明確でなかったために、宗教や科学、天文学や神霊における知識、学説、論説も、
未だどこにも到達していなかった。その厳然とした事実は、『人間の設計図 』にある。
 
[人間の肉体は、心、魂によって動く。人は誰もが、人間の姿に形創られる前、母親の体内
から今生へ産み落とされる以前に、男女両性の本能的な結合、その受胎の瞬間に、自分の
父親と母親の直属の先祖霊が二千五百人ずつ、合せて五千人が入魂される。
 それは、人間の五臓がその色も形も位置も定められ、各々の職責を全うし、指が五本、
目が二つあると決められている道理と一緒である。そのために何人【なんびと】も、
右の方に右の手が付いて右の格好をし、左の方に左の手が付いて左の格好をしている。
しかも、朝に晩に昼に夜に淡々と変わる人の心、考え方。その五千の魂を統率するために、
神魂【しんこん】という神の魂が、やはり、受胎の瞬間に入っている。
 そうして人間は別の世界で素晴らしく磨かれた魂、すなわち、心が容れられ、そこから規則
正しい細胞分裂が始まり、十月十日、母体の中で人の形に成って行く。
 そしてこの世で生きるために必要な全てを備えられ、母体から今生に産み落とされ、出生する。
その心、幽体は、生涯、その肉体を支配し、動かしている。
 また、人の形になる以前、精子と卵子がぶつかった受胎の瞬間には既に、その者が今生で
果たすべくして与えられた義務、職責・職能も完全に決められている。]

 
 と、ここまでの内容は特に、人間の創られ方の道理として、入魂【にゅうこん】についてのものだが、
更に、過去・未来・現在を生きた永遠の魂が、肉体から正常に離脱する自然界の道理。つまり、
人間の死後、次に入魂されるまでの魂の分解と再生について解説された書もある。
それ等を、人間の“生かされている条件”として、また、初めから在った人類の道理 として、
今後、我々が「絶対に否定できない事実」と認められるならば、人間が生きる上で様々に生じ、
様々に直面する諸問題の解決も陽萎とされるに違いない。
 
 
 …あ~あ。(『走れスモーカー 』も、もう使いモンにならんな…)
 こんなふうに書いてみても、ベルグソンの哲学書を読破した奴だって判らないかも知れない。
 で、話はもっと重要な部分へ戻さなければならない。
「そもそも、移植臓器というモノがなんで必要なのか?」
 その答えは『大自然の気による医療革命 』という本を読んでもらうと、話が手っ取り早いんだけど、
「今ここにはないよ、そんなの」という人が多いと思うので、
できる限り親切に説明したいと思うけど…。どうする? 
また別の機会にするか、それともこの他のページの中からそれを探るか。
「南の書いたモノは漢字が多い以前に読みにくい」という人も多いと思うので、
その人達はここでオサラバ。じゃあな。
 で、そうでない人…いねぇか。)は、次へサイコロを振ってくれ。
   
    
    The Rolling Stones
    Love You Live
 
 人間の心臓も、肝臓も、腎臓も、それが車や家電のように部品として初めからあったなら、
便利だし、人間の身体を部品と部品の組み合わせのように診て、考える浅はかな現代医学や、
幼稚な科学技術の進歩にも、とてもマッチしたシステムだったかも知れない。ところが、
人間は部品と部品を組み合わせるフィギュアやプラモデルではないし、また、一人一人その
創られ方が違う者(物も含め)を簡単なようで無理矢理にでも容れ替えできるものでもない。

 それは肉体だけでなく、中身、精神、心にも必ずズレが出てくる。
 そういう意味でも、“創った側の人”は、
 「人間は右の方に右の手が付いていて右の格好をしている」と云っていた。しかも、
 受胎の瞬間からその人が生きるためにに用意された肉体は他人の物ではない。
 自分の心(魂)で動かすその肉体を生涯、自分で使いこなして、
人間として堂々と生きて人生をまっとうするように、一人に一つだけ与えられている。
それが人間の肉体というものだ・と、俺もそう思う。
それを「このパーツはダメだな、じゃぁあそこから持ってこよう…」という具合に、
人間を部品と部品の組み合わせのように取り扱っていいものなのか?

 ############### http://ameblo.jp/badlife/entry-10003312895.html #################
 確かに、日本の外科手術の技術というものは素晴らしいと思う。
 まず、やっている人が体力的にも能力的にもスーパーな部分はある。
 それはそれで職業として立派だと思う。
でも、現代の医学全般、人間の身体の見方、考え方、捉え方そのものが、教育とはこうも
馬鹿げた常識を造り、築き上げてしまったのかというほど、根本的に本質から外れている。
それは断言して云う。
もっと、トータルにというかグローバルにというか、

 そういうカタカナの言葉を並べているホリスティクの連中とも別に、
 今一度、人間について勉強し直した方が、自分を自分で救う道筋の最短距離にもなる。
で、それがすべて『人間の設計図 』という本の中にもあるんだけど、
「今さらもう遅い」とか「無理だよ」とか「これ以上、人間の何を勉強し直すというのか」
という人ほど、まだ望みがある・ような気がする。それは、
「俺の力では、どうしてもあの子を救えなかった」とか、
「神様はそれほどまでに人間を苦しめる病を、どうしてこの世に用意したのか」
別にそれはドラマの中に出てくるような台詞ではなく、
現実にもきっといると思うので、そういうお医者さんが。
その純粋さがまだ自分の中に残っている人なら、
今の医学、現代の医療を変えて行けると思う。

 厚生労働省の監督下にありながら、
平気で医療現場を食い物の種にしている連中のやっていることを覆せると思う。

  
正直云って、俺にも限界はある。書いてる物もこの有様だ。 (…今はな
でも、正直な人、誠実な人、曲ったことが嫌いな人、
自分の能力を正しく発揮して世の中に役立てたいと願ってる人。
またはそういう欲望を常に胸に抱いている人。
これは一つに団結するというより、いつか統率された方が世の中の発展に繋がる。
オウム教団に嫁いだ人達は、ココで間違えたかも知れないけど、
あんな風に正直な人達を犯罪者に仕立て上げた一人の狂った鍼灸師の思想も、
決してあのままではなく、これからまた、
その上を行く悪巧みによって人を操るような連中が現れないとも限らない。
日本の戦後教育はそういう世の中を造ってしまった。
でも絶対に、そこにはもう巻き込まれないで欲しい。俺も絶対に行かない。
俺がどんなに踏ん張っても、もしも自分の子供が、そんな落とし穴に嵌ってしまった時、
それを助けられるかどうかは判らない。もしかしたら、
大きな電子レンジの中に入れられて、マイクロ波で丸焼きにされてしまうかも知れない。
VXガスをシェイクしたサットバ・ドリンクを呑まされるかも知れない。
そういう恐怖は他人事ではない。
だから、人間として無駄死にはしたくない。
俺も今は、医者も病院も嫌いだけど、今後、“外れた部分”をお互いに軌道修正できるなら、
好きになるかも知れない。
そういう世の中が来る日まで俺は生き続けるよ。
 
   つづく。