ファミリアー 歌姫の死と再生〈その9〉 | アディクトリポート

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その8

約束

 ここまで考えた美奈子は、クラシックの名曲を日本語の歌詞で歌い、まずはそのアルバムを製作したいと思い立った。
 いったん新しく挑戦すべき目標が見つかると、美奈子は心が躍った。
 もちろんミュージカルだって、新しい演目に取り組むたびに新しい挑戦であることに違いはないけれど、それはこれまでこなしてきたことの応用でしかなく、かれこれ10年も続けていくと、どうしても新鮮味には乏しくなってしまう。
 自分にできることは、もうここまでなのか、もっと他にできることはないのか。あるいは言葉を換えれば、今後の本田美奈子は、できそうなことと、できなさそうなことの、どちらを選んで進んでいくことにするのか。折に触れてそう迷い続けてきた彼女に、このクラシックCDの制作は、またとない絶好のチャンスに思えた。
 しかし新しく何かに取り組むことは、そのために何かを犠牲にすることでもある。
 もしもミュージカルで多忙な自分が、クラシックという引き出しをもう一つ増やしたら、きっと公人、歌手やアーティストとしての本田美奈子だけで手一杯になってしまって、私人としての私生活、恋愛や結婚や新しい家庭を築くという、女性ならではの夢の方は、確実にあきらめることになるだろう。理屈ではなく、それが彼女の直感だった。
 そこで美奈子は、秘かに願(がん)をかけてみた。
「神様。もしもアーティストとしての自分に、新しく上る階段を見つけてくれるのなら、私は恋愛をあきらめて、そちらに邁進(まいしん)します」
 果たしてほどなく、美奈子の願いは現実のものとなる。
 この企画の当初から関わった、プロデューサーの岡野博行(おかのひろゆき)は、その経緯をこう述べる。
「ポピュラーの歌手がクラシックを歌うという企画を考えていたところ、デビュー当時から注目していた本田美奈子が、そういうことをやっていると人づてに聞いて、2002年の8月に、新宿オペラシティで開催されている、彼女がオーケストラと共演しているコンサートへと足を運んだ。これが予想をはるかに超える素晴らしさで、自分の考えていた企画に最適だと思った。クラシック畑でずっとやってきた歌手は、少し毛色の変わったクロスオーバーな物には興味を示さず、かといってポピュラーの歌手はソプラノがなかなか歌いこなせない。それに歌詞を日本語に置き換えたクラシックのアルバムの具体的な成功例というのも、ほとんど記憶になかった。加えて本田美奈子の日本語の発音の美しさにも感じ入り、いてもたってもいられず、早速終演後の楽屋に挨拶に出向いて、ぜひクラシックのCDを作りましょうと提案した」
 本田美奈子が、かねてより自分が思い描いていた理想と合致する、このCDに取り組む姿勢は真剣そのもので、その熱意には並々ならぬものがあった。
 スタッフとの初顔合わせの時、開口一番に美奈子は「私はこのアルバムに命を賭けているので、失敗は絶対できないからよろしくお願いします」と宣言し、居合わせた者は全員身が引き締まる思いだった。
 レコーディングに先駆けて美奈子が選曲し、MDに吹き込んで岡野に差し出した曲は、実に100曲あまり。さらにこうしたクラシックの名曲に、自ら作詞した日本語の歌詞まで添えてあった。岡野は美奈子の歌詞をこう分析する。
「難しい言葉は使わないが、自分の言葉を持っている。書く詞にしても、もしかしたらありきたりなことかも知れないのに、彼女が言ったり書いたりすることで、ものすごくリアリティが出る。しかも彼女がそれを歌うとなると、なおさらそれが際だってくる」
 本田美奈子自身が、2003年5月21日に発売された件のアルバム『AVE(アヴェ) MARIA(マリア)』制作全般を振り返り、色々と語っている貴重な肉声が公開されているので、文章にすると若干冗漫に感じられるが、あえてそのままをここに書き写しておこう。
「自分は、ポップスをデビュー当時最初、歌ってたじゃないですか。で、そう言う意味でも、自分がこういう声を出せるようになれるとは思ってもいなかったことが、声で出せるようになって、で、歌えるようになってきて、で、あのぉ……そしたらどんどん欲望と言いますか、自分でチャレンジャー精神じゃないですけども、そういうのがどんどん強くなってきまして、もう何年も前から、こういうクラシックの、アルバムを、出させていただけたら嬉しいなって、ずっと思ってたんですけど」
 それでも当初は、迷いが全くなかったわけではない。
「最初、あのぉ、ほんと正直な話、あのぉ、迷いました。迷って……私が、クラシックを歌わせていただく本田美奈子が歌うとなったら、どういう歌い方なんだろうって自分自身でも探ってる状態で、そして……あのぉ……やはり先生のところにレッスンに、何回か、あの行ったんですけど、そしたら、あのぉ、基本のレッスンの仕方を教えていただいて、声の響かせ方とか、声のまあ……いろんなテクニックを教わっては来たんですけども、その中で自分が声が出なかったら、あのぉ、どうしても出なかったら、やりなさいっていういろんな、こう、ポーズがあるんですけど、そういうのも一っ通り試してみて、色々、チャレンジは、しながらやってみたんですけど」
 このインタビューはクラシックCDを契機に行われたものだが、美奈子がより高い歌の極みへと挑戦し始めたのは、これより何年も前、ちょうどミュージカルに取り組み始めた頃からで、美奈子は自分の歌の可能性を広げるためならどんな訓練もこなしたし、努力を惜しむこともなかった。
 より高い音域、より豊かな声量を出すためには、自宅での発声も欠かさず、中腰になったり、ピアノなどの重たいものを抱えたまま、あるいは太い柱に抱きついたままの状態で歌い続けると言った、かなり奇抜な特訓まで人知れず続けていた。
 こうした成果もあり、1994年5月25日に発売されて、オッペン化粧品のCM曲にも使用されたたシングル曲『つばさ』では、間奏部分で大きく伸ばす超ロングトーンが、10小節強、時間にして28秒にも及び、この間奏で歌がかかっていない部分は、わずか3小節弱しかないにもかかわらず、これを見事に歌いこなしていた。
 しかもこの28秒は、美奈子が『つばさ』を持ち歌として歌いこなすうちに次第に時間が延びていった。94年当初の「オールナイトフジ」で披露した時には、かっきり28秒だったのが、2年後の96年7月28日に阿蘇ファームランドで開催された「服部克久(はっとりかつひさ) 音楽畑とその仲間たち」では、最長記録の31秒にまで伸び、以後は30秒をキープしながら、最後まで途切れず弱まらない安定した歌いっぷりへと進化していく。
 2003年5月25日放送の「題名のない音楽会21」出演時には、11小節半、30秒のロングトーンを披露して、まだ全てを歌いきっていない曲の途中でありながら、観客から大拍手が起こるほどの反響があった。
 本田美奈子のミュージカル時代からのボイストレーナーで、先述のトレーニング法を伝授した岡崎亮子(おかざきりょうこ)は、美奈子のトレーニングの様子や取り組みの姿勢を、以下のように述懐する。
 初めて自分のところを美奈子が訪れた時、そのあまりの細身と華奢(きゃしゃ)さに、一目見るなり不安になった。こんな体で、体格に恵まれている他の歌手並みに、満足に声が出せるのだろうか。
 しかし見た目は華奢でも、実際に体に触れて確認してみると、背筋がしっかりしていたので、これなら大丈夫と安心した。オペラ歌手がわざと体を太らせて共鳴器官とし、腹筋で歌うのに対して、美奈子は強靱な背筋を生かして、背中から声を出していることがわかった。
 美奈子は体調が少しばかりすぐれないからと言って、ミュージカルの舞台を休めないことから、特にコンディションが万全でない時の歌い方や切り抜け方を、岡崎に尋ねた。
 熱があってもトレーニングに通ってくる美奈子に、そんな時は休みなさいよと進言しても、反対に熱がある時に舞台を切り抜ける歌い方を尋ねてくる美奈子の型破りさと気迫に圧倒された岡崎は、高熱で喉が炎症している時には、響きの方へと持って行ったり、鼻腔(びくう)の方へ響かせる等のアドバイスをした。
 岡崎が手がけた生徒の中でも、その時その時の体調に応じてレッスンできたのは、後にも先にも、本田美奈子だけだった。
 こうして歌の力を伸ばす一方で、その歌で伝える中身の方、すなわち歌詞を大切にすることにも、美奈子はたいへんに気を配った。彼女の歌詞へのこだわりは、やはり『ミス・サイゴン』の訳詞をてがけた、岩谷時子(いわたにときこ)との出会いが大きく影響している。
 1916年生まれの岩谷は、越路吹雪(こしじふぶき)のマネージャーを永年勤める傍ら、越路が歌うシャンソンの訳詞を手がけたのをきっかけとして、作詞家・訳詞家としても歩み始め、ザ・ピーナッツの『恋のバカンス』(1963)や、加山雄三の『君といつまでも』(65)、ピンキーとキラーズの『恋の季節』(68)など、数多くのヒット曲を生み出してきた。美しくわかりやすい日本語の言葉選びに定評がある一方で、訳詞においては、オリジナルの詞にとらわれず、独自の解釈で詞をあてることもある。
 岩谷は美奈子の才能に『ミス・サイゴン』で初めて接し、彼女を「越路の再来」と高く評価していたから、先述の『つばさ』も作詞は岩谷が担当している。
 こうした経緯から、当初は今回のクラシックCDのプロデューサー岡野に、自前の詞をつけて提出していた美奈子も、自然な成り行きで訳詞は岩谷に依頼することになった。制作の過程で方向性を見いだした時の心境を、美奈子はこう語っている。
「やはりビーッと、なんとぅのかな、心にやっと道ができて来たなと思ったのは、やはり岩谷時子先生の、詞を頂いて、実際にレコーディングも立ち会っていただいて……そしてそのぉ先生のその詞の世界で、あのぉ……ミュージカルとかと同(おんな)じように、自分の心から、表現できるような道がすごく見えてきた、っていうのが、ありますね」
 『ミス・サイゴン』の市村正親や岸田智史(きしださとし)(現・敏志)、『レ・ミゼラブル』の早見優や岩崎宏美や森久美子や知念里奈(ちねんりな)、『屋根の上のヴァイオリン弾き』の西田敏行、『十二夜』の大地真央(だいちまお)等々、ミュージカルで力を合わせていく共演者の輪が広がっていったように、このクラシックのアルバム製作でも、新しい仲間との頼もしい関係が育まれていった。
「私のことを理解してくれようって言う気持ちがとても、一番うれしかった。うん。どうやったら……あたしも、あの、へそ曲がりだったり、わがままだったり、もうこうなっちゃったら周りが見えなくなっちゃったりとか、する時あるんですね。なんかそういう……あたしにでも、あのぉ理解を示してくれて、どうやったら迷わないで、その道が、わかるように、私自身がなるかとかいうのも、道をこう、敷(ひ)いてくれたりとかもしてくれたし。うん、一緒に、悩む時は悩んでくれたし。で、すごく夜中までかかっちゃった時とかも、もちろんあるんですけどぉ、そう言う時とかでも、皆さんヤな顔しないで、ずっとつきあってくださったり……」
 このCDのジャケットの撮影のために、2003年3月の初旬には、本格的な撮影隊が編成され、大島に泊まりがけのロケにまで出かけている。
 引き続きインタビューでは、挑戦していく上で、本田美奈子としての意識があったかという問いかけに対して、このように答えている。
「うーーーーーーーーん。いや、ていうか、逆にそういう風に自分は、本田美奈子よ!ってあんま考えてないかも知れない。どうやったら引き出しを、開けられるか、または開けてもらえるか……。自分の知らない自分は本当にいるのか。歌える自分は本当にいるのか。やってみないとこればっかしは、わからないじゃないですか。で、本当に、人の心を動かせられるような、歌を自分が歌えるようになれるのか。聴いて皆さん感動してくれるのか、または心が動いてくださるのか。それは……ねえ、本当にわからないことですけども、でも、表現力とか、そういうのは自分の中にそういう表現力と言うものは、少しずつでもできるようになってきているのか。まぁ全然わからないですけど、とにかくその引き出しを開けて、いろんなものをこう出してみて……うん、ていう形ですね」
 かつてのアイドル歌手時代に、自分はアーティストであると、機会あるごとに声高に主張したり、過激な衣装で自分をアピールしていた時のようなとげとげしさは、この頃の美奈子からは完全に姿を消し、謙虚で、ただひたすらに歌の道を極めたいという真摯な姿勢だけが感じられるようになっていく。それでも彼女の持ち味である、開拓者魂やチャレンジ精神はいまだ健在だ。
「あの、私の、心の中では、あの……なんとぅのかな、人が、歩んできた道を……あの、道ができてるところを歩むのは、あんまり好きではなく、あの自分が、自分で、あの……もちろん私を支えてくださってる皆さんスタッフと一緒に、あの険しいけれども新しい道を創っていきたい……って、いつも思ってるんですね。そして、あの振り返った時に、あ、ここまで頑張れたんだとか、自分は今考えてる以上に、きっと、あの可能性って言うものを頭からこう停めたくない。だから、あの、どこまで、どういう表現ができて、どういう歌を歌えてっていう自分の可能性を、あの確かめたいし、チャレンジしていきたいなって、歌の世界でそう思ってます」
 このインタビューの最後には、彼女がそうやって持ち前の才能にあぐらをかかず、さらに精進を重ねたからこそ到達した境地についても語られている。
「すごく、クラシックの曲とかって、やはりメロディがきれいじゃないですか。で、きれいで、もうこれだけ、あの、まあ、現在までね、昔から現在までとても長い時間、愛され続けて来ている曲じゃないですか。で、それに、やはり、あの日本人として、日本語がついて、その素晴らしい楽曲を歌えたら、ほんとに素敵だなって思ってたんですけども。やはりそういう意味では、岩谷先生のその詞の世界が、あのぉ私の心にポーンとストレートに入って来たっていうのが」
 ここでインタビューアーの、『自分の中で1回消化されてるわけですか?』という問いかけには、
「はい、そうですね。だから、あの、最初は、あのぉ……音を追っちゃって、レコーディングの時も、あの、歌い始めの時は音程を気にしたりとか、この音で合ってるかなとか確認しながら、歌ったりとかしてるんですけども、そのうちに、何回も何回も歌ってるうちに、だんだん、絵が見えてきたり、風を感じるようになったり、匂いなんてないんですけど匂いを感じるような……気持ちになったり。そういう、気持ちから、なんか言葉がなんか、一つ、一つ、先生の言葉が、心にこう入ってきて、そいで私のこう、歌としてこう、出て行くような……そういう不思議な気持ち?」
 と答え、さらに「そういう異次元の世界を、スタジオで何度も体験したのか」という、重ねての質問には、
「そうですね、でもいつもすぐ体験できるものではなく、その私もあの……生きていて……るからこそ、いろんな気持ちが出てきちゃったりとか、逆に心が閉じちゃったりとか、あの迷っちゃったりとか、寄り道しちゃったりとか、色々あるんです。だからほんと、あのスタジオには岩谷先生の魔物がいるから、その魔物があの、うまく来てくれたら、ほんとに良い歌レコーディングできるのよって昔っから言われているんですけど、うん、その魔物が来る時と来ない時と……ありまして。だから、あの、まあ正直に話しますと、あの……また録り直ししたりとか、歌入れが、そういう時も、ありました。だからすんなり、すぐレコーディングできたっていうのではなく、ええ、大変なところももちろんありましたけど、でもでき上がってみたら、ほんとに、あの自分でも嬉しくて、毎日毎日聴いちゃうような、そう言うアルバムで、ほんとあったかくなります、心が」と結んでいる。

2004年の転機

 2004年の『地球ゴージャスプロデュース公演VOL.7 クラウディア』は、全編を桑田佳祐の名曲ばかりで構成された異色のミュージカルで、美奈子は主役のクラウディアを演じた。桑田といえば、偶然にも福山雅治と同じ事務所のアミューズだったがそれはともかく、ここで美奈子は、共同演出の岸谷五朗(きしたにごろう)、寺脇康文(てらわきやすふみ)、共演者のTRFのYU-KI(ユーキ)といった、これまでとは若干毛色の異なる新しい仲間たちと出会い、それまで知らなかった新たな芝居の熱気に触れることになった。
 これまでのミュージカルが、どちらかといえばいかにも文化系で格調高かったのに比べ、この『クラウディア』という演目と、そのための準備活動は、ある意味では猥雑(わいざつ)とは言え、体育会系で気心の知れた大家族的なものだったので、美奈子にはとても新鮮だった。
 ひとたび稽古が終われば、夜更けまで居酒屋で語り合うといった濃密な日々が続き、長年の美奈子の生活と気持ちには、ささやかな変化が訪れた。
 美奈子は仕事がどんなに遅くなっても、必ず母と暮らしている埼玉県朝霞の自宅に帰ってくるきわめて品行方正な娘で、それは『クラウディア』の稽古の時でも変わらず、ただ帰宅時間がうんと遅くなるだけで、無断外泊などは皆無だった。
 母はそんな美奈子のために、手料理を作って待っていてくれて、それを前にした彼女は、常に真剣勝負だった仕事からようやく解放されたように、顔をほころばせた。
 お気に入りの座椅子に座り、毎日一時間は、友達のように「美枝ちゃん」と呼ぶ母とおしゃべりをした。いくつになっても子供のように、母に甘えることになんの抵抗もなかった。
 こうした美奈子の家での暮らしぶりは、もう20年にもわたってほとんど変わらず、女所帯の家族が力を合わせて乗り越え、築き上げた歴史をそのまま維持して来た。言ってみれば美奈子が外に働きに行って日々の糧(かて)を稼ぎ、母の美枝子がそれを待ち受けて家事を切り盛りする、昔ながらの夫婦のような関係でもあった。
 だから母の美枝子としては、もはや夢見るお年頃をとうの昔に過ぎた娘の美奈子に、少しは羽目を外してもらったり、浮いた噂の一つでもあって欲しいと願っていたが、なぜか几帳面(きちょうめん)で潔癖性な美奈子には、そういうことは母への裏切りのような気がしてしまうのか、さっぱりそんな素振りを見せなかった。
 まるで美奈子には歌という人生の意義や目的があって、彼女をそれ以上に夢中にさせる出会いが、他には全くないようにさえ見受けられた。
 このことについて、当時の美奈子はこう考えていた。
 美奈子と同年代の友人や知人たちは、皆結婚して子供ができて、新しい家庭を築いている。
 しかし、自分にはまさしくこれだと決めたことや、悟ったことを仕事にして、それに邁進している人はといえば、反対に自分一人くらいのもので、身内や友人に限れば、そんな人は一人も見あたらない。
 そこで美奈子は次第に、公人と私人の両方の生活の充実を望んだりするのは贅沢ではないか、わがままでムシが良すぎるのではないかと考えるようになっていた。
 音楽以上に夢中になれる男性といって、美奈子に思い当たるのは福山クンか、その呼び水とも言えたあのお兄さんのどちらか、あるいは両方だったが、二人ともここしばらくは、直接会うことはなくなってしまっている。
 美奈子が必ず成功すると予言したとおり、福山雅治は芸能界で着実に成功の階段を上っていたが、音楽活動はもっぱら福山雅治というミュージシャン個人で行っているので、アーティスト本田美奈子との共演の機会はなかった。
 流行のヒット曲のポップスや演歌歌手ばかりを集めるテレビの歌番組には、美奈子はここのところすっかりご無沙汰で、今やミュージカルの舞台が中心の自分には、衛星放送で情報番組のホストがレギュラーである程度で、たまに歌番組やバラエティに出演しても、アイドル時代の懐メロを披露するくらいがせいぜいだった。
 これでは福山雅治と本田美奈子が、同じ歌手という土俵で同じ番組に出演する機会は、どうにも訪れる気配がなかった。
 それ以外の福山クンの芸能活動として顕著なテレビドラマでの出演は、あいにくミュージカル畑の自分とは、これまた重なる部分がない。
 1992年のTBS金曜ドラマ「愛はどうだ」にレギュラー出演した福山は、挿入歌となった「Good night」が30万枚のスマッシュヒットとなり、俳優としてと歌手としての両方の評価を急激に高めていき、同年には同じTBSのドラマ「ホームワーク」にもレギュラー出演した。
 だが福山の名を広く世に知らしめたのは、なんといっても翌93年のフジテレビドラマ「ひとつ屋根の下」だった。以後は95年にやはりフジテレビ「いつかまた逢える」で月9(げつく)ドラマ初主演、音楽活動休止中の97年には「ひとつ屋根の下2」、99年にはフジテレビ「古畑任三郎」に犯人役でゲスト出演。7月~9月期には「パーフェクトラブ!」で二度目の月9に主演し、この番組では、ドラマ内で使用される音楽も担当した。2003年にはフジテレビ「美女か野獣」で松嶋菜々子とともに主演と、俳優活動もまさに順風満帆だった。
 こうして福山が歌抜きの純粋な役者としても活躍が際だってくると、反対に歌抜きの女優としては成立しないミュージカル専業女優である美奈子との距離は、さらに隔たってしまった。
 自分も芸能界に生き残り、着実にステージを高めて行きさえすれば、後から成功を重ねていく福山クンとの道がいつか重なるだろうと思っていたのに、実際には一向にそうはならず、結局1990年に町中で偶然会った、ただ一度きり以外は、彼を見かけるのはテレビの中ばかりという寂しい結果になってしまった。
 高杉社長の家にたまたま立ち寄った際にも、別室のテレビから福山クンがCMに出演している音を聞きつけるやたちまち、たとえボスとの話の途中でも、あわててそのテレビを見に駆けつけたり、梨奈ちゃんと二人で、どちらの方が福山クンを好きかを無邪気に競い合う程度の、完全に別世界の人になってしまった。
 美奈子はそれでも、福山雅治のテレビ出演をくまなくエアチェックしたりだとか、リスナーに大好評で、かなりきわどくあけすけな彼のラジオ番組をわざわざ録音するような、いかにもマニア的な没頭まではしようとは思わなかった。
 何よりもそれほどヒマでもなかったし、家庭は仕事を終えた自分の憩いの場であり、そこに恋愛をほのめかす行動を持ち込むことに照れがあったというのが最大の理由とはいえ、アイドル出身の自分にだって、その手の熱狂的なファンやマニアは当然いるわけだし、芸能人には欠かせない要素としてそうしたファンにもちろん感謝の気持ちはある一方で、では自分がそうしたファンやマニアを恋愛の対象として見られるかと言えば、話は全く別だという気持ちもあった。
 つまり美奈子は、それぐらい真剣に福山雅治を恋愛の対象に考えていたので、自分も福山クンに対して、オタク的なのめりこみだけはすまいと考えていた。
 それにしても……。
 町中で初対面した時には、口から出まかせで、福山は成功すると太鼓判を押してはいたが、その美奈子当人にさえ、彼がこれほど人気が出るとは予想外だった。
 女性誌の「抱かれたい男」人気投票では、実に10年あまり、首位のキムタクに続く2位の座をキープしている。もっともこの投票を主催している雑誌の編集長が、大変なキムタク信者らしく、だからこそ並み居る独身イケメンを退けて、妻子持ちのキムタクが今も首位をキープしているというまことしやかな噂もささやかれているから、もしかしたらもう何年も前から、本当の1位は福山クンなのかも知れない。
 本田美奈子は、いよいよ覚悟を決めた。
 運命の相手なら、偶然という幸運に助けて導いてもらえるだろうとタカをくくっていたが、もう12年も福山クンとは直接顔を合わせていない。世の女性たちからこぞって超絶人気の福山クンが、誰かのものになってしまう前に、もう一度だけでも偶然に会えたその時にこそ、美奈子の方から、自分の想いを伝えることにしよう。
 ミュージカルの話は向こうから舞い込んできたが、クラシックCDの企画は、かねてから自分が考えていたものが実現したのだ。きっと福山クンのことだって同じではないか。
 もしも福山クンとの恋が実らなかった時には、第二案として、福山クンより古いつきあいの、あのお兄さんとのことを考えるわけだが、こちらはもう福山クン以上に非現実的な気がしてしまう。
 あのお兄さんは、美奈子が困った時にしか来てくれないことになっているから、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)と言う言葉がふさわしい今の自分には、すっかり縁遠い存在になってしまった。
 美奈子はふとため息混じりに、こう考えてしまう。
「ずっとこのままなのかな……」
 カトリックの神父や尼僧のように、あるいは修行僧のように、異性との交わりを断ってこそ達する境地というものがあって、今の自分は、さしずめそういう禁欲的な存在に近づいてきているような気までしてきた。
 思えば美奈子は、高校生の頃から芸能界入りして、同世代の女の子なら当然通過するはずの思春期だとか恋愛経験をまるで味わわないうちに、それよりも真摯(しんし)に打ち込むべき歌との出会いが続き、つまりは常人が味わえない体験を重ねて来られた一方で、常人があたり前に通過するはずの経験はさっぱりないまま、つまり子供の部分がまったくそのままで、気がついたらあと2年あまりで40歳になろうとしている。
 人生で一番キスした回数が多い男性が、『ミス・サイゴン』で共演した岸田智史、通称モーニンだなんて、岸田本人以外には絶対に打ち明けられない!
 これまで全く浮いた噂のなかった自分、その原因が歌に打ち込みすぎだったためなら、今後の20年を思い浮かべても、ますます歌にのめり込んでいく様子こそ思い浮かびこそすれ、いや、そういう姿が思い浮かぶだけに、誰か素敵な男性と家庭を築いていると言う、私生活が充実するビジョンなど、ちっとも具体的に思い浮かばなかった。
 ということは、このままでいたら、自分は60歳になっても、あるいは80歳になっても独り身なのだろうか。
 しかしこうした事態に大きな変化を望んだところで、それはどうにも無理そうな感じだった。本田美奈子のスケジュールは2年先、つまり39歳までびっしり埋まっているのだ。
 美奈子はこの頃から、気心の知れた高杉社長の娘の梨奈、今は河村和奈という芸名でタレント活動をしている年頃の娘には、「私は歌と結婚したようなものだから、この人生で男性との結婚はないわね」と本音を漏らしてはいたが、そう語る表情に悲痛さはなく、むしろすがすがしく、潔い表情だった。

つづく(毎日正午更新予定)

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