■■ NHK-G 「ブラタモリ」


出演: タモリ、桑子真帆アナ

ナレーター: 草彅剛(SMAP)


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■ #24 「軽井沢への道 ~人はどう峠を越えてきた?~」


【初放送】 11/21(土)19:30~20:15
【再放送】  11/22(日)13:05~13:50


取材協力: 
安中市、軽井沢町、碓氷峠鉄道文化むら、熊野皇大神社 = 熊野神社、佐藤義一、小野田滋、江川良武。

資料提供:
アジア航測、杉浦貴美子、ニシムラ精密地形模型。

映像デザイン: 山口高志
CG制作: 渡邊竜夫
写真: 山田大輔

ディレクター: 河添有祐
プロデューサー: 石原謙一郎





【あらすじ】

軽井沢の訪問は、前回から丁度2カ月経過。
標高930~940mあり、鉄道は一気に下まで下りる難所と言われている。
線路の真ん中に歯車が一本ある「アプト式」を採り入れて、エッサエッサエッサと上って来たものだ。

「シーッ!」とディレクターが言うと、タモリが「コレ、言うな? ということは、ソッチに行くってことか?」


ここでタモテバコ登場。旅のお題は「人はどう"峠"を越えてきた?」
タモリ「ははっ」、桑子「今の笑いは何ですか?」、予想的中 ! ということ?
タモリ「難所をどうやって越えて来たか、でしょうね。その前の中山道の峠も行くんじゃないですか?」、予想し過ぎ。

ここで、広島大学大学院・准教授(自然地理学)の熊原康博さんが登場。
タモリ「広島の方が軽井沢を詳しいんですか?」、熊原「2年前まで群馬大学にいまして、街道にもの凄く嵌(は)まってしまって」。 

熊原「今日は軽井沢まで、どうやって来られました?」、タモリ「新幹線で東京から1時間7~8分で」。
熊原「昔の人は結構大変だった。大変だったものがアチラに見えます」、タモリ「塔」、熊原「あそこが峠。名前はもう?」、タモリ「言いたくないですね」、桑子「どうしてですか?」、熊原「うすい(碓井)峠」、タモリ「言いたくない」、桑子はようやく分かって笑う、タモリ「濃いとか薄いとかは言いたくない」。

中山道の軽井沢の直前に在る碓氷峠。江戸を出発した旅人が最初に迎える難所だった。
熊原「今日は厳しい峠を人々がどうやって、工夫しながら越えて行ったかを見て行きたい」。
熊原「それではこっち、濃い峠へ(笑)」、桑子「行くなら濃い方がいいですもんね」。

今回は「軽井沢への道のり」がテーマ。
今や新幹線で東京から約1時間で着く軽井沢。
しかし昔は、辛く険しい道のりを越えて辿り着く場所だった。
最大の難関は、群馬県と長野県の境にある「碓氷峠」。
その難所を、人はどうやって越えて来たのか?
江戸・明治・大正・昭和と続く苦難の歴史と人々の工夫を、タモリさんが昔の街道・中山道の跡を歩きながら解き明かす。


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早速、碓氷峠の頂上近くまでやって来た。タモリ「軽井沢から来るのも、かなりグネグネあって」。
「上信國境」道標あり。上州(群馬県)と信州(長野県)の國境(県境)。
観光向けに、蕎麦「しげの屋」(軽井沢町大字峠町2)の駐車場~道路上に赤いテープが張られ、道路を挟んで、

■ 「熊野皇大(こうたい)神社」 = 「熊野神社」の参道へと続いている。
住所は、長野県北佐久郡軽井沢町峠町1番地であり、群馬県安中市松井田町峠1番地である。

表示の上に立ち跨(またが)ったタモリに、桑子「感想は?」、タモリ「タマが両方へ別れた"ケンタマ"のような」。オジンは誘導すると下ネタは際限なく。

長倉神社熊野宮(または長倉山熊野大権現、または碓氷神社)
江戸時代には信州と上州の神職が、1年毎に交代で管理。
⇒明治維新に熊野皇大神社⇒太平洋戦後に、長野県側が「熊野皇大神社」、群馬県側が「熊野神社」と二つの呼び方となった。

碓氷峠で見つけた日本列島を真っ二つに分ける「本当の境(頂点)」とは?
峠道の頂点を探す。群馬県側は利根川水系~太平洋へと流れ、長野県側は信濃川水系~日本海へと流れる、

■ 「分水嶺」に当たる地点。ペットボトルの水を垂れ流して頂点を探し当てた!!
標高1190m、長野県北佐久郡軽井沢町と群馬県碓氷郡松井田町の間の北緯 36°22′07″/東経 138°39′23″。


■ 峠の「見晴台」へと移動。碓氷峠の特徴がよく分かるスポット。
立体地図パネルで見ると、意外と碓氷峠1190mは低い。
c.f. 十文字峠は標高1,962m、長野県南佐久郡川上村と埼玉県秩父市の間。

軽井沢の方は高原、関東平野(横川)の方と高低差が相当ある、そのような峠を"片峠"と呼ぶ。
軽井沢942m~250m~碓氷峠1192m~806m~横川386m。
タモリ「片峠感が凄く分かります」、桑子「片峠じゃない峠は何て言うんですか?」、タモリ&熊原「峠」。


人々はどういう工夫をして難所を越えたのか? 片峠を越えた工夫を探す。
タモリ「結構、深い谷、急だ」、木の道標を指差して、急に叫ぶ!! 桑子「1日中、山道だぁ!!」

歩くこと45分。熊原「想像していた峠道と比べてどうですか?」、タモリ「意外と平坦ですね」、熊原「大変じゃないですね、ピクニックのような、どうしてこういう道になったか?」
難所というには程遠い、なだらか(圬らか)な道を選んで中山道は通っていた。
なぜこんなに、なだらかな地形があるのか? タモリ「ダラダラと溶岩流が流れたから」と直ぐ当てた。約100万年前に溶岩が流れ、浸食が進まず残った。それを知っていて街道として選び整備した。ガッテンガッテン。
江戸から来て下から見上げるともの凄く急な峠に見えるが、最初さえ我慢すれば、登ったら意外と楽だった。

■ 「坂本宿」(安中市松井田町坂本)
碓氷峠を登る手前の宿場町。
渓斎英泉「木曽海道六拾九次之内 坂本」(東京国立博物館・蔵)を見ると、軽井沢宿より多い40軒の宿屋・・・港屋・俵屋・なかや・・・。

フツーの集落とは違うところは? 狭い間口に対してもの凄く奥行きが長い。
タモリ「どんだけ~!」(IKKOさんの真似)、300m近い。
麓の宿場町の長―い町割りに隠された秘密とは? 

タモリ「平らな所があるからできるんでしょうね」
熊原「街道整備に伴って計画的にできた集落なんです」。

■ 「碓氷関所」(安中市松井田町横川乙573)
1616年、関東に出入する厳しい関門があったから、峠と関所の間に旅人の利便性を高めた。
タモリ「峠越えのベースキャンプだ」。


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明治時代の工夫が分かる場所へ。

ここで、碓氷峠鉄道文化むらの赤田清さんが登場。
■ 「碓氷第三橋梁」(通称「めがね橋」、31mの高さ、安中市松井田町坂本)
1892年、鉄道とともに完成、現在は遊歩道。
上野~横川~碓氷峠~軽井沢~直江津。
標高差600mに26のトンネルと18の橋を、僅か1年9カ月で造った。
<私も1970年代は、金沢へ国鉄信越線で帰郷の度に通過したなあ~!!>

「めがね橋」を歩くと勾配(66.7パーミル = 1kmの水平移動で66.7mの高低差)を感じる。
今のJRにこんな勾配はない。
時代に応じて新型機関車を投入していた。

■ 「碓氷峠鉄道文化むら」(安中市松井田町横川407-16)
「ラックレール」の実物を見るのは初めてのタモリ。
鉄道が急勾配を乗り越えるための工夫「アプト式」「EF63」とは?
「アプト式」・・・2~3枚の歯型ラックレールと車体の歯車を噛み合わせて、急勾配を登る。
先ず、展示中の「あさま」号をスコッチ(車輪止め)の位置から皆で押してどかす。

アプト式の電気機関車「ED42形」が車庫から登場。最大の特徴は、ロッド(連結棒)の動輪。
シュッシュッポッポ、男子女子男子女子・・・・。
1893年に横川~軽井沢間の開業、1934年にED42導入で48分達成。


歯車なのでスピードに限界、アプト式に代わる秘密兵器(碓氷線最後のアンカーとなった)
電気機関車「EF63形」の登場。新幹線開通の1963~1997年の廃線まで活躍した。
48分⇒17分に大幅短縮。

ここで、碓氷線最後の日1997/9/30までEP63のハンドルを握っていた、武井仁さんが登場。
機関手の帽子を被ったタモリの顔が、見る見るホコロぶ。
人生初 ! 電気機関車の運転に挑戦することになったタモリ。
ここに乗りましたよと機関車に知らせる点検ハンドル、EBスイッチ(パンタグラフ)を全上げ・確認、ノッチハンドル、・・・、説明を受けながら30分の手順。
超複雑な操作に悪戦苦闘 !? 緊張の初運転、果たして電車は動くのか?
笛を吹く、ノッチ1に入れ動く、ノッチ2に入れる、・・・ノッチ6まで。成功!!
その間の桑子は、我が子が自転車に乗る練習を見守る母親みたいに、励まし、できたら共に喜び、ウルサイ。
タモリ「楽しいけどね、緊張する」、峠を登って行くに連れ、電車に乗った時の景色だ!!と思い出す。今は何と運転している!! 800mの機関士体験。でも、徐々に停止するのは慣れないと難しい。