古くからの読者様なら、覚えてる人もいるだろうか。
この事務所にトゥルルルと電話がかかり、営業を開始したあの日のことを。
もう2年以上も前のことなんやなぁ。
設定上の制約があるにもかかわらず、何を書くか迷ったことなど一度もなかった。
それどころか、下書き記事がたまる一方で、毎回厳選して公開していたくらいだ。
実際に書いた記事の数は、公開した記事の3倍をゆうに超えているだろう。
自分のキモチを文章にする量は、今も変わっていない。
でも、書き終えた尻からバカバカしく思えるような記事しか書けなくなってしまった。
仕事のできない所長は、キモチ法律事務所の所長であり続けてはならないと思う。
いよいよ、看板を下ろすべき時が来たということだ。
頻繁にコメントをくれた人、更新ごとに見に来てくれた人、気が向いた時に足を運んでくれた人、
陰ながら応援してくれてた人…
ブログ上で出会った人から実生活の友人・知人まで、たくさんの人々によって支えられたブログやった。
コメント欄がないからって、アメーバメッセージをくれた読者の方々のキモチが嬉しかった。
俺でさえその存在を忘れかけてたBBSに、カキコしてくれた読者の方もいて嬉しかった。
オフ友たちが『ブログは続けろよ~』って言ってくれるのも嬉しかった。
積み重ねを重んじる俺にとっては、気軽に始めたこのブログも、いつしかかけがえのない宝物となった。
多くの人に支えられて続けてきた以上、永遠に続けるのが理想やった。
でも、単に続ければいいってもんじゃない。
“大切なものやからこそ、堕落させたくない”
伝えたいキモチが浮かばなくなった時、こういう結論に至りました。
この数ヶ月の間、たくさんの人が俺を励まそうとしてくれた。
俺の友人も、ぶこの友人も、ブログつながりの人も、みんな温かい言葉をかけてくれた。
それには本当に感謝しています。
ありがとう。
ただ、正直に言うと、感謝するのと同時にものすごい苦しみに襲われてる。
励ましてくれる人たちの背後に、社会的な経験則の存在を感じてしまうから…
励ましの言葉の裏には、前提的なものとして社会通念になぞらえたシナリオが見え隠れする。
そのシナリオを四方八方から押し付けられてるように思えて苦しいわけ。
励まさんといてほしかったって言ってるんじゃないよ。
逆の立場なら俺もそうすると思うし、みんなのおかげでやり過ごせた苦しみがあったのも事実。
励ましてくれた人を責めてるんじゃなくて、偉大なる社会に敗北感を感じてしまうということです。
例えばこの社会では、相手のキモチがある間は一人だけを愛せる人は美しいとされるのに、
相手のキモチがなくなったとたん一人だけしか愛せない人は情けない・醜いとされるやろ?
俺はそんな社会についていかれへん。
そんなに都合よく変化できねえよ。
例えばこの社会では、恋人がいるままで他の異性と関係を持つと浮気だと非難されるけど、
他の異性と関係を持つ前に別れを告げていれば筋が通った行為として評価されたりするやろ?
俺はそんな社会が腑に落ちへん。
どっちも同じ裏切り行為としか思われへん。
社会的評価を求めてるわけじゃないけど、社会と無関係には生きられない。
自分の価値を映してくれる存在を失った俺は、社会通念の枠にはめ込まれるのがものすごく苦しい。
自分の中の社会に適合しない部分を実感し、それが全て自己否定につながってしまうから。
俺に近い奴であるほど、もしくは、共感できる体験を持つ奴ほど、俺の特性に理解を示してくれる。
そういう奴らの存在は唯一の救いだが、それゆえに彼らさえも理解を示さなくなることが怖い。
そして、彼らが無意識的に用意したシナリオを演じない限り、その時はいつか必ずやって来るのだ。
俺を良く知る親友も、俺たちを見てきたぶこの友人も、ぶこ本人でさえもいつかは…
でも、俺にはどうしても演じられない…
つまり、みんなが送ってくれる温かいエールに応えられそうにないのです。
だってね。
俺の幸せを願ってくれる人々がイメージしてるような“次”や“他”なんて俺にはないんよ。
悲観的発言をしてるわけじゃなくて、客観的事実としてそこに俺の幸せは存在せーへんの。
自分のことは良くわかってるのよね。
もし“次”とか“他”があったなら、俺は間違いなくその時点で自分自身を嫌いになってしまう。
『本気』と本気で思ってた人間がまた別の『本気』を見つけることは、
過去の『本気』のみならず現在の『本気』をも希薄化させる。
何度でも本気になれる奴こそ素晴らしいという意見もあろうが、私見によるとそんなのはきれい事だ。
『とどのつまりはどれも本気じゃないんじゃねぇの?』
『実はお前は本気なんて知らないんじゃねぇの?』
などという自問にさいなまれ、自分を見失ってしまう。
それが、俺という人間や。
俺は、せめて自分くらいは自分を好きでおりたいねん。
「自分ならどんな自分でも好き」みたいな馬鹿ではなく、自分を好きでいられる自分でいたい。
だから、何人もの人を愛せるような人間には絶対になりたくない。
たとえ、過去の別れを望んだのが自分ではなかったとしてもね。
もちろん、魅力的な女性はいっぱいおるってわかってる。
人に対して好感を持つことも当たり前にあると思う。
でも、俺が人生をかけた夢に“次”なんかない。
本物の“本気”ってそういうことなんじゃないんかなぁ。。。
ぶこが良い女か否かとか、ぶこを好きかどうかは関係ないんよ。
この点については、相手がぶこじゃなくても同じやったと思う。
俺個人の問題として、どうしてもそんな自分は許されへんのやろね。
幸せな家族は俺の夢やのに、今は家族を築く自分を想像しただけでちょっと吐き気がするもん。
そんな自分をわかったうえで、ぶこを受け入れた。
こうなる可能性も覚悟してぶこを愛したわけやし、軽い口約束の婚約でも俺は本気やった。
自分だけは、そういう自分を裏切りたくない。
ぶこがいなくなったからって、嘘にしたくないし希薄化もさせたくない。
少なくとも俺が生きてる間は。。。
つい長々と書いてしまったが、こんな記事では読者の心に何ら影響を与えられないと思う。
俺が以前と同様の強いキモチを書いたつもりでも、読み手の印象は以前とは違うものなってるはずだ。
端的に言えば、『以前はプラス思考、今はマイナス思考』というようなイメージで捉えられてると思う。
ここ2ヶ月で公開した“遺作”だって、書き始めた当時に公開してたら違う印象で読んでもらえたはずだ。
この生理現象こそが、俺が壊せなかった社会ってヤツの恐るべき力である。
読者がプラス思考と捉えうる記事を書くことは、人の心に影響を与える記事を書くための最低条件だ。
しかしながら、今の俺がいくらプラス思考をしても、社会からマイナス思考との烙印を押されてしまう。
ぶこのキモチが俺にない以上、俺のキモチは社会に対しても伝わらないのが現実なのである。
結局、キモチ法律事務所の存在意義も、そこにぶこの幸せがあるか否かにかかっていたということだ。
この記事をここまで読んでくれた人は、おそらく今まさにこのことを体感できたのではないだろうか。
どういう意味?って思う人は、上であえて長々と書いた苦しみの部分を読み直してください。
その際、ぶこと付き合っている俺があえて別れた場合を仮定して書いた文章やと思って読んでみて。
きっと、今さっきあなたが感じたものとは異なる印象があなたに残ることだろう。
身をもって体感することで、俺が泣く泣く看板を下ろす理由をわかってもらえるように書いたつもりです。
こんだけ書いたらもう十分わかってもらえたと思うが、最後やからもう少しだけ補足させてください。
ブログを作り始めた時に一番始めに書いた文章は、ブログタイトルの下にいつも表示されてる
『ある想いを胸に弁護士になるべく奮闘する若者が、人生の喜怒愛楽を社会に吐き出す!
キモチは全ての人にある。だからどんなチッポケなキモチでも大切にしたい…』という部分。
ブログに接する時は、この“ある想い”ってやつを常に意識していた。
ハナサカアトーニーの根源であり、ブログの趣旨でもあり、忘れてはならない初心たる“ある想い”をね。
それは単純な言葉で説明できるものではなく、俺の人間としてのものすごく複雑なキモチだ。
だからこそ、時間をかけて色んな方向から自分のキモチを書き連ねてきた。
この“ある想い”を、ぶこを含めた読者の人たちになんとなぁく感じてもらうことがこのブログの目的だ。
伝えたいキモチが書けない限り、この目的は果たせない。
そして、サブタイトルの『枯れ木に花を咲かせましょ』について。
言うまでもないが、これは理想の法律家のイメージを昔話の花咲じじいに重ねたものだ。
ここで、花咲じじいのストーリーを思い出してもらいたい。
花咲じじいが灰で花を咲かすことができるのは、じいさんの心がきれいやからやったよね。
意地悪じいさんは同じ灰をふりまいても花は咲かず、それどころか殿様に害を与えて投獄される。
ハナサカアトーニーにだって、同じことが言える。
俺自身の心がすさんでいれば、人の心に花を咲かすことなんかできない。
人に自分の苦しみや憎しみをばら撒いたって、その人の心に花は咲かないのです。
花の咲かない灰をばら撒くことは、キモチ法律事務所のやるべきことではありません。
以上が、俺が大切な大切なブログを辞めようと思った理由です。
なぁんとなく、わかってもらえたでしょうか。
結局のところ、俺はこの最後の記事で何を言いたいのか。
それは、ハナサカアトーニーもキモチ法律事務所もぶこありきのものやってこと。
ハナサカアトーニーを理想に掲げて努力することができたのも、ぶこの存在のおかげ。
このブログを始めたのも、続けたのもぶこがおったからこそなのです。
俺にそんなことをさせれただけでも、ぶこは最高の女です。
あいつが俺の試験中に別れを切り出したことを批判する奴が多いけど、それは違う。
ぶこがいつだって素直にいるように求めてたのは俺やからな。
素直な気持ちが俺にとって苦しいものでも、俺が受け止めるべきもんや。
そもそも、俺がもう一度だけ女を信用しようと思えたのは、ぶこが俺を一生懸命愛してくれたからやで。
色んな条件からしても、ぶこでなければ俺に夢を持たせること自体できなかったのは間違いない。
俺が人を愛することのできる人間でおれるのは、ぶこがそれだけの魅力を持ってるからに他ならない。
誰が何と言おうと、俺にとっては最高にいい女なんや。
だから、たとえ俺を励ますためであっても、ぶこを蔑む奴は許さない。
このことだけは、ブログの最後にどうしてもはっきり書いておきたかった。
俺が傷ついたせいで、俺が嘆いたせいで、ぶこが最低の女だと勘違いをされるのは絶対嫌やからな。
第三者にも、ぶこ本人にも。
できればこのキモチだけは、未練がましいとか美化しすぎなどと思わずに受け取ってください。
さて、いよいよハナサカキモチの最期のキモチです。
それは喜怒愛楽のどれでもなく、“最上級のありがとう”。
皆様、長い間キモチ法律事務所をご愛顧いただき、本当にありがとうございました。
2008年1月8日 所長 ハナサカキモチ
P.S. 新しい記事はこれで終わりですが、ブログの総仕上げとして、あと一回だけ更新を予定してます☆