安倍晋三氏の選挙基盤である下関の街の特徴を在日朝鮮人が述べているので、それを掲載する。

 

尚、この姜海洙(カン・ヘス)氏はさすがにコリアン。

韓国(39) 韓国は『嘘共和国』(韓国二紙)
2022-11-04 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12772781912.html

この述べている内容には、嘘・偽りがあるので、分かる箇所は訂正する。尚、残念なのは、長周新聞が嘘・偽りを知りながら、そのまま掲載していることである。

 

以下、本題

下関の在日朝鮮人の体験

 ー故・姜海洙(カン・ヘス)氏の話よりー
2018年5月2日 長周新聞

https://www.chosyu-journal.jp/shakai/7913


 朝鮮戦争の終結に向けて南北対話が進み、歴史的な局面を迎えている。

第2次大戦中の日本軍国主義による植民地支配、そして朝鮮戦争から現在まで続く、長い苦難の歴史に終止符を打つことは、朝鮮民族にとって長年の悲願だった。

それは故郷を追われ、日本での差別とたたかいながら生きてきた在日朝鮮人も同じだ。

ヘイト(嫌悪)行為などがくり広げられるご時世にあって、在日朝鮮人がなぜこれほど日本に住むようになったのか、どのような歴史をたどり、いかなる経験をしてきたのかを知ることは、日本人にとっても曖昧にしてはならないものだ。

 

下関の在日朝鮮人1世の故・姜海洙(カン・ヘス)氏が2002年11月、みずからの体験を本紙(長州新聞)に語った内容を紹介する。


※故安倍晋三の選挙区山口4区は下関市と長門市。下関市は在日朝鮮人の巣窟で、大坪、彦島、園田が有名である。

 

尚、安倍晋三の出自は、晋三の父親安倍晋太郎(1991年死亡)元外相が自ら言うように朝鮮人である。

 

安倍晋三の父・晋太郎「私は朝鮮人だ」
2022-10-31 
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12772209015.html

 

尚、上記地図の右下(南東)の田布施町も安倍晋三の母方の祖父・岸信介の故郷・朝鮮部落で有名である

 

昭和時代の政治家岸信介は、明治二十九年(一八九六)十一月十三日、山口県熊毛郡田布施村の酒造家佐藤秀助の次男として生まれ、のち父の生家(秀助は養子)岸家を継いだ。佐藤栄作は実弟である。※岸信介の娘洋子が晋三の母である。

 

(岸信介の逸話)生前の岸と親しかった政治評論家の今井久夫の話では、岸は「巣鴨プリズン」の収監中、週に三日は夢SEIするとぼやいていたそうだ。

 

更に、出所時の話を次のように記している。「(出所とともに)田布施に飛んで帰った岸は、その晩、良子を寝かせなかったという噂が流れた。田布施の古い家は、かなり震動したに違いない。その晩の夫婦和合の回数が、とんでもない数字になって友人間の話のタネになった」(『月刊ペン』昭和55年10月号)

 

他方、下関は、従軍慰安婦の虚偽・創作の記事を書いた共産党員・吉田清治が、1942年(昭和17年)9月には同郷の先輩の世話で労務報国会下関支部に在籍。共産党員として選挙にも出ている。尚、彼は下関港から済州島に渡っている。

姜氏は戦前、日本の植民地統治下の朝鮮から下関に移住し、戦中から朝鮮青年の団結の中心になり、在日者の生活擁護と民族的な誇りを回復するために奮闘した。

戦後も在日朝鮮総連や商工会の下関支部の責任者として献身的に活動し、在日朝鮮人から熱い信頼と尊敬の念を集めた。

◇-◇-◇-◇

戦前の下関の朝鮮人の活動の状況については誰も明らかにしていない。

 私は1933(昭和8)年8月頃、小学校4年生のときに、親に連れられて下関に来た。すぐ上の兄が1923年に先に来ていた。6人兄弟で姉3人が嫁ぎ、兄が独身で1人で来ていた。その後両親とともに家族がみな下関の大坪に来た。(註)

 

(註)日韓併合前に、李氏朝鮮の人口の過半数を占めるのは白丁などの奴隷層であり超貧困層であった。

 植民地時代の朝鮮の田舎は本当に生活が苦しかった(註)。朝鮮では、コメの飯を食べたことがなかった。家は小作で農業をしているのに、コメの飯が食べられず、コメを売って年がら年中ムギばかり食べていた。

 

(註)日韓併合で植民地時代と称しているが、朝鮮半島が植民地であったという確証は何もない。あるなら示すべきである。植民地ならば、日本政府は何も植民地朝鮮半島に600や700の小学校を建てるはずはない。朝鮮半島の警官のほとんどは朝鮮人であった。

 

(註)日韓併合前の李氏朝鮮時代の方がより苦しかった。外国人の宣教師たちの記録に書かれてある。故に主に済州島からの密航する者が多かった。

 

ソフトバンクの孫正義は佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に出生したが両親は本人の告白通り済州島からの密航者である。

3~4月ごろにはムギが切れるので、コメぬかを餅のようにして食べていた。1日置けば、カチカチになって歯が立たないようなものだった。

魚などは塩づけにした臭い魚を月1回食べられるかどうかだった。近所のおじさんで毎年一時期部落からいなくなる人がいた。よその部落に行って乞食をして、作物ができるころに帰ってくる生活だった。

 これは植民地支配のもとでの生活の現実なのだが、日本に行けば少なくともコメの飯が食べられると聞いて、日本に行くことがあこがれだった。

だが誰でも行けるわけではなく、日本につながりがあることを証明する手紙などを見せて恩着せがましく許可をもらった者だけが行くことができたのだ。だが、日本での生活はひどいものだった。

 

 下関では、当時松井信助市長の時期だが、全人口16万のうち1割が朝鮮人というまでになっていた。小学校のクラス児童50~60人のうち朝鮮人が5、6人いた。

 

大坪(註)、園田、彦島などに朝鮮人の集団部落ができたが、とくに大坪の部落になぜ朝鮮人が永住することになったのか。

 

(註)大坪地区(現神田町)在日コリアンの巣窟。

処が、下水道が無いのに、連中はバラック小屋を建て居住し、何処にでも糞尿をし、この一帯は悪臭が漂う。当に、日韓併合前のソウルの街中と同様になった。故に、この一帯を人々はトングルトンネ(糞窟村)と呼ぶ。

 

韓国(12) 日韓併合前の李氏朝鮮時代:バード旅行記①
2020-07-09 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12609705233.html

※糞尿のヘドロの小川で、洗濯をする住民。

 

現在、中心地には山口朝鮮初中級学校が建っている。
https://youtu.be/2iJMqCMEz_c



 この地域はもともと、松の木などの雑木林であり、火葬場と刑務所があり、被差別部落があるところだった。その奥の山のふもと、もともと人が住まなかったところに、日通などの企業が朝鮮人対象の社宅をつくり、ハーモニカのような長屋があった。

日本人が経営していた豚小屋の汚物が雨が降れば流れてくるので、穴を掘ってためていた。だからこのあたりは臭くて「トンクルトンネ」といわれたが、直訳すれば「ウンコの部落」という意味だ。(註)

 

(註)悪臭の元は、違法バラック建ての在日部落民の糞尿である。豚小屋は確かに臭いが、人糞ほどではない。

 朝鮮人は協和会に組織されていた。今の交通安全協会のようなものだが、朝鮮人は協和会の手帳を渡された。特高警察は朝鮮人の統制の方法として、飯場(土木工事や鉱山の現場にある労働者の宿泊所)と遊郭の親方を手下に使っていた。

 下関の高尾から元町にいたる基点、元の市民病院裏あたりに交番所を建てて、そこに留置場を置いていた。特高の作田巡査部長は、朝鮮語がペラペラだった。早川という巡査が駐在し、留置場に入れた朝鮮人にリンチを加えていた。

 

 

 日中戦争が始まって、強制連行が始まると、大坪の部落は飯塚、宇部、小野田や遠くは北海道の炭坑から逃げてくる朝鮮人のたまり場になっていった。

飯場の親方が彼らをかくまってやるが、親方は特高などの権力とつながっており、かくまわれた朝鮮人は奴隷のように扱われた。飯だけ食わせて、「いうことを聞かないと警察に突き出すぞ」と脅していいなりにさせるというやり方だ。

 だが、大坪の部落の中には権力は一歩も踏み込めなかった。入れば袋だたきにあうからだ。だから大坪の部落の親方を手先にして統制していたのだ。親方は、篭寅組のヤクザの下請で、ヤクザのような態度で鮮魚のトロ箱打ちなどの仕事に飯場から人夫を出していた。

 関門トンネル建設とか、小月飛行場や火の山要塞などの建設に朝鮮人が動員されたが、これは地元の朝鮮人ではなく、朝鮮から強制連行された者が使われた。軍事的に重要な建設には下関の朝鮮人は危なくて使えなかったのだと思う。

 朝鮮人経営の遊郭は、下関で20軒ほどあった。大坪、今浦、新地が多かった。この親方も権力とつながっている。朝鮮まで遊郭で使う婦人を買いに行っていた。

今の朝鮮会館の横手にある公園は池だったが、戦時中のある日、女の人がうつぶせになってプカプカ浮いているのを見た。大坪の遊郭の女が自殺した姿だった。

 朝鮮人の生活は苦しかった。独身者は飯を食わせてもらえるだけで、飯場で雑魚寝だ。もちろん部屋はない。少しでも金が入れば遊郭に行って、すっからかんになって、また働くという状況だった。

家庭持ちは家族が5人から10人が普通だった。旦那があくせくして土方か仲仕(荷役労働者)などをして働いて、日当をもらっても生活できなかった。

 当時の重労働はほとんど朝鮮人がやり、日本人はいなかった。浜仲仕の仕事は船から陸揚げをするのだが、100㌔ほどの砂糖袋を2つから3つも肩に担いで波のようにたわむ板の上を渡るという重労働だった。

その仕事をしていた朝鮮人は、みんな肩にコブができてそのうえに毛がはえていた。

便所に行ったとき、隣で用を足す仲仕たちが立ったり座ったりするときにボキボキと関節の骨が、うなり声とともにしたことを今でもはっきり覚えている。そのように体が変形するような労働だった。

 山の上に共同の井戸があったが、深かった。家庭の婦人がつるべを使って朝から晩まで水をくむのがたいへんな労働だと子どもながらに見ていた(註)。近くに日和山の浄水場があり、日本人の家庭には水道がついているのに。

 

(註)朝鮮人が勝手に建てたバラック小屋の密集地帯。

無論、登記などされていない違法建築物。この地域に市がまともに水道を引く理由が無いのは当然である。

 高尾の市民病院の裏に火葬して骨を拾ったあとの灰やコークスのような物が山積みに捨てられていたが、その上に大坪の朝鮮人のおばさんたちがハエがたかるように集まっていた。金歯とか金の指輪などを探して見つかれば大もうけになるからだ。

 朝鮮人の子どもは着ているものですぐわかった。ズボンのひざがぬけるとあり合わせの色の違う布でつぎをあてていた。(註)

(註)私の幼少時代、東北の農村では、別の布でのひざあて(パッチ)や、つぎはぎだらけは当たり前で、何も朝鮮人の子どもだけが特別ではない。

昼飯は家まで走って食べに帰っていた。おかずはキムチしかなく、臭いといわれるからだ。傘もまともな傘がなく、穴があいた傘でぬれて歩いていた。(註)

 

(註)私の幼少時代、1955年前後、東北の農村の小学校では、農家の子でも弁当を持ってこれない子がクラスに一人や二人は必ずいた。その点、おかずはキムチでも、昼ご飯を食べれるだけマシである。

友だち同士でも朝鮮人はのけ者にされ、「おい、ヨボ」といわれて名前で呼ばれなかった。先生が先頭に立って、ことあるごとに「この朝鮮人が」といって差別する状況だった。

遊郭の息子など一部は中学まで進学したが、普通の者が希望してもばかにされ、まともに扱ってもらえなかった。

当時は日本人も汽車に乗るときは、身分証明書をもらって切符を買っていたが、これは朝鮮人対策、つまり強制連行した朝鮮人が逃げるのを防ぐ手段だったと思う。


独立と統一の強い願い


※日本の敗戦後、仙崎港から引き上げる朝鮮人

 

 こうしたなかで、朝鮮人は卑屈になっていただけではない。次第に抵抗勢力ができていった。

 

「内鮮一体・皇国臣民化」を掲げる協和会が青年団をつくっており、幹部は遊郭の息子らだったが、サッカーや演劇活動をしていた青年たちのなかに弁論部が生まれた。一般の青年はこの活動のなかで目覚め始めていった。
 
 ものがいえない状況のなかで、弁論大会などでは自分の考えの3分の1でもしゃべると、すぐに抵抗するもの同士が心の中で共感しあい、広がっていった。研究会などで書籍の勉強もやるようになり、独立運動を志向するようになった。

 

こうしたなかで、文学活動をしていたものが憲兵隊に連行されていった。終戦直後、協和会で権力の手下になっていたものたちがいち早く逃げて、大坪の青年たちが遊郭の女の子たちを解放した。

 戦後、下関の朝鮮人が日本共産党に集団入党し、宇部・小野田をふくめて、全国のどこよりも激しいたたかいをしばしばやった(註)が、それには戦前からのこのような抵抗があったのだ。

 

(註)戦いと言っているが、暴れまくって殺人や暴行をしたくったのである。

 

尚、戦前から日本の共産党員は朝鮮人であった。

戦後、火炎瓶闘争などを各地で展開。

他方、駅や汽車の中で、或は、路上で、無差別殺人をした。当時の日本の警察は警棒しか持たされず、数に上まる朝鮮人に逆に袋叩きされた。

 

韓国(40) 戦後朝鮮人による主な殺傷事件:GHQ戦略
2022-11-08 
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12773160160.html


 国、言葉、名前を奪われた朝鮮人(註)は、戦後、アメリカ占領下の日本で子どもたちの民族教育のために、塾のようなものから始めて学校を建設していった。

 

(註)真逆である。

 日韓併合後は、名前に制限は無かった。いわば朝鮮人は自らに日本名を名乗ったのである。

 

 言葉に関してもお笑い種である。

15世紀以前にハングル語はなかった。
中国の漢文であった。

 然も文字を読める女性は僅か5%~10%。
男がハングルを使うことはなかった。
 

 日韓併合により朝鮮が日本の一部となったので、日本語が「国語」として教えられた。
同時に、日本は朝鮮語を尊重し朝鮮語の授業が行われ、朝鮮の文化や地理、歴史も教えられていた。故に、戦後、朝鮮語(ハングル語)がコリアンの国語となった。

 

 

 

下の画像は皇民化教育の教科書
上段が日本語で、下段が韓国語

下の画像は、1945年8月14日(終戦前日)の『毎日新報』であるが、「朝鮮語(ハングル)専用文と漢字・朝鮮語混じり文」であり、このように、終戦に至るまで朝鮮語の使用が禁じられることは無かった。


http://www.nipponwomamorukai.jp/syutyou/harihara_takayuki/nihontoutijidai_no_tyousennokyoukasyo.html

 

だが戦後、GHQ指揮下の朝鮮人主体「日教組」が、「日韓併合時代、朝鮮語の使用が禁じられ、朝鮮の文化を抹殺し、朝鮮語や朝鮮の歴史を教えることは禁じられた」と虚偽の教えをした。

 

 

韓国(17) 日韓併合前後:世界の日本評価
2020-09-23 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12626845876.html

だがGHQは「朝鮮人は、日本の学校で日本人と一緒に戦前と同じように日本の教育を受けさせる」と対応した。

これに対して山口民政府(県庁)に山口県下の朝鮮人が大挙して3万人押しかけ、要請行動を起こして勝利した。このたたかいが後の大阪方面の民族教育のためのたたかいへと波及していった。

 

※朝連下関小学校の児童と教師(1949年3月)

 戦後、下関は全国の朝鮮人が帰国のために集まってきた。

そして帰れなかった者が残って定住するようになった。

しばらくは失対事業で日当を得ることに依存していた。

 

だが朝鮮人には納税の義務はあるが権利はない。保険もかけられない。帰国運動が起こったとき、失対の生活より社会主義国で貧しくても平等に暮らせるということで、帰国したのだった。

 「高度成長」期になってから、パチンコ屋、土建屋、販売業はもとより、廃品回収業など日本人がしない仕事をやるようになった。(註)

 

(註)空襲にやられ、地主が疎開し不在になった駅前一等地に朝鮮人がバラックを建て土地を占拠。

(例)戦後、大阪駅南側の広大なるドヤ街
2022-11-09 
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12773572362.html

 

今でも朝鮮人への就職差別は厳然としてある。日本人も就職難に苦しんでいるなかで、朝鮮人は論外だ。パートの店員の応募でも免許証を見せて、朝鮮人とわかるとその場で「あとで連絡する」といわれて、体よく断られる状況だ。


 とくに「北」の国籍ということでの差別が、たとえば役所などでの認可をとるときにも作用している。日本にいる朝鮮人はほとんど南の出身者だが、朝鮮籍を持っている。

 

それは、アメリカの植民地と化した「韓国」よりも独立した朝鮮、そのような統一された朝鮮を望んでいるあらわれだ。(註)

 

(註)日本に帰化するよりも朝鮮籍を持っている方が都合が良い。悪事をしても、通名を変えたら別人になれる。

 それはまた、日本の植民地支配のために苦労(註)したが、そのなかで、親たちがどんな思いで育ててくれたか。その親の恩を身にしみて感じているからだ。

 

(註)再度言うが真逆である。李氏朝鮮時代から日韓併合時代、朝鮮に住み、或は旅行した外国人の日記などの記録を見ると明らかである。日韓併合により朝鮮人は大幅な人口増と豊かになったのである。

 

主権のない国民がどれだけみじめなものか、どのような困難のなかでも少少ひもじい思いをしても(註)、自力で国を支え統一する、死か屈服かを迫られたときは、死を選んだ方がよいという思いは、在日朝鮮人1世に共通した思いだ。

(以上が全文)

 

(註)「少少ひもじい思いをしても」の意味

下関の在日朝鮮1世は、ひもじくはなかったということ。

 

※彼らは日韓併合前の朝鮮がどんな状況であったかは教わっていないし、知ったとしても、「自分たちに利のある虚偽は正義である」と孔子の論語の時代から脳幹奥深く、DNAとして浸透しているから、何をしても文句を言う。

 

 

在日(1)京都の街での「在日コリアン」の辛苦:序文
2020-04-17
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12590322230.html

在日(2)玄順任(ヒョン・スニム、女性)の記憶
2020-04-18
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12590591287.html

在日(3) 玄順任(ヒョン・スニム、女性)の辛苦
2020-04-29
https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12593228671.html