第八回 植民地支配の根性まだ抜けていません(その①)

 

(前回記事)

在日(1)京都の街での「在日コリアン」の辛苦:序文
2020-04-17

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12590322230.html

玄順任(ヒョン・スニム) 女

取材日/二○○五年三月一五日、二二日、四月二一日、五月三日、九日、二〇日
出生地/忠清南道燕岐郡  現住所/京都市上京区
生年月日/一九二六年一二月二七日
略歴/忠清南道公州生まれ。一九二八年、出稼ぎに行った父を訪ねて生後一年八ヶ月で京都へ。

小学校にも行けず、一四歳から西陣の織り子として働く。

四五年、強制連行によって日本に来ていた金明九と結婚。

戦後、女性同盟の地域分会長。

七八歳の今も一日六時間機を織っている。

二〇〇四年、旧植民地出身高齢者の年金保障裁判の原告となる。

取材者/成大盛、鄭明愛  原稿執筆/成大盛

▼税金払うため日本へ来た父

 三つ上の姉(玄順礼。ヒョン・スンネ)と一歳八ヶ月のわたしは、母(李日礼。リ・イルレ)に連れられて昭和三年(一九二八)、父(玄鐘厚、ヒョン・ジョンフ)のいる日本へ来ました。

京都市左京区の叡電の線路沿いにちょっと東行ったとこの小さい路地のなかで、初めて家族一緒の生活が始まったんです。

 

父は土方をしていたんですが、母も日本に来てすぐバラス仕事(砂利採取)をしました。

 昭和六年(一九三一)に弟(玄満洙。ヒョン・マンス)が生まれたとき、川に浸かっての水仕事のため、母は産後の肥立ちが悪く下半身が麻痺してしまいました。

そしたら「オンドル(朝鮮民族の伝統的暖房装置)の部屋で温めたら治る」ということで、四月に、うちの叔父が母をおんぶし、弟は姉がおんぶし、わたしは歩いて故郷へ帰りました。


故郷に帰ってオンドルの部屋で温めながら煎じ薬飲んで養生していたら、見事快復しました。

七ヶ月間故郷にいて母が完全に快復し、再度父のいる京都に来てみたら、父は馬車引きをしていて、二条駅で石炭運びをしていました。石炭を納めている関係で杉本精練の社宅に入っていました。

ところが外へ遊びにいったらあんまり虐(いじ)められるので、わたしが父に「帰ろう」と何べんもせがんだら、父は「帰るとこがないんや」といわはります。

「なんでないの。おじいさんやおばあさんがいるところあるのに、何であらへんの?」というたら、こんな事情なのだと話してくれました。

うちは田畑もわりかしあって、金持やったみたいです。ところが、田畑の五分の一だけでお前とこの家族は食べていけるといって、あとの五分の四は無料没収されたそうです。(註1)

 

(註1)日韓併合時代の朝鮮半島での警官などの大半は、朝鮮人であった。


そしてその五分の一も秋になったら供出ですのや。食べていけるといわれたが、供出したら食べるもんがないんです。挙げ句の果ては税金。

そやからわたしの父がたてついたんです。「これでお前のとこ食べていけるというといて、供出出せ、また税金出せいうて、何食べていけというのや!」とね。そしたらすぐ牢屋に放り込まれて拷問されました。

拷問してもまだ足らないで、「よその人を証人に立てて借金してでも税金を払え」というたんですね。

 

わたしの父が「返せる自信がない借金はようしません」というたら、「よい金儲けがあるさかい、日本へ行け。行って働いて税金払え」とこうなったんですのや。

 わたしがあんまり虐められるから帰ろうというさかいに、父がたまりかねて、わたしを膝に座らせいい聞かせたんですね、「こういうわけで帰れへんのや」と。結局働いて税金を送らなあかんさかいね。

▼学校に行けず自分で勉強

 母も今でいうたら土方です。バラスという仕事に行っていました。それでわたしが、七歳ぐらいのとき妹が生まれてね、母が仕事行かれへんようになった。

でも、それでは税金送れへんというて、わたしを学校行かさんと、生まれて二ヶ月の妹をわたしに任して、母は仕事しに行きました。

 第二養成校(現在の京都市立養徳小学校)(註2)(註3)(註4)の入学通知が来たとき、一週間ふとんかぶって、御飯も食べんと寝て「学校行きたい」とせがむと、オモニ(母)はアボジ(父)に「オンモン(諺文)、カルチョジュソ(教えてあげて)」というし、

 

 

 

(註2)

京都市左京区養生地区には『田中部落』という朝鮮人部落があった。「都市下層における反差別のかたち」(立命館大学P171)

 

(註3)

田中馬場町出身の部落解放運動家・朝田善之助は、「生まれたところは京都府愛宕郡田中村字西田中。田中村には本村の東田中のほかに百万遍、関田、上柳、大堰、高野、それに西田中と7つの字があった。西田中がいわゆる部落で、古くは川崎村といった。いまは京都市左京区田中馬場町という。」と述べている。(ウィキペディア)

 

(註4)

上記(註3)の通り、私が京都に来た頃(1964年、昭和39年)、左京区の農家の住民は、京都と言うと「洛中」のみを指し、自分たちは京都の域外という認識であった。

 

ほっこり京都人(4)京ことばの元をたどれば
2020-03-28

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12585481593.html


アボジ(父)は「お前が学校行ったら税金払えへん。税金払わなんだら、また警察に放り込まれて、マジョチュンヌンダ(殺される)」というから、学校よりも父が殺されるというので、わたしが引き下がったんです。

 子守りしてアボジ(父)、オモニ(母)のいうこと聞くと約束して、あきらめたんです。本当は学校行きたかった。


 それで近所にいた、名前も忘れてないけど、ソン・スニム(宋順任)……名前はわたしと一緒やけど名字が違ったソン・スニムという人に、夏休みになったから「あんた、夏休みの間、教科書貸してくれへんか」といったら、

 

「二学期になったら教科書替わるし、あげるわ」といってくれたので、その教科書をもらって、一生懸命自分で分からんなりに考え考え勉強して、それで一番最後のページにある「アイウエオ」を覚えた。

それで一応カタカナ、小学校一年はひらがなではなくてカタカナやったしね、みんな覚えた。

 小学校一年のソン・スニムが「サイタ サイタ サクラガサイタ」と、学校から帰って来たら歌みたいにしていっていたから、それをみんな覚えていて、「コイ コイ シロ コイ」、そしてあの、「テッポウ カツイダ ヘイタイサン」、そんなのをみんな覚えていたからね。

 絵と字を比べてカタカナを覚えたけれど、二年になったら、漢字も入って分からへんし、一番最後のページにある「あいうえお」だけを覚えて、漢字は、そのころは新聞には漢字にふりがなが付けてあったので、それを見て、トイレで覚えました。

 アボジが一応、昔のチョンジャチェク(千字文)、あれを買ってくれたんやけど、漢字だけなので意味分からへんし、途中で止めてしもうて。

 

とにかく新聞で、ふりがな付けてある漢字を見て、それで字覚えたから、書くことは書けへんけども、読むのは一応みな読めるわけです。

 書くのもね、わたしのアボジ(父)が「字は左から書くのやで」と、そしてオンモンも、チョソンクル(朝鮮字)も教えてくれたからね。

たまに「書いてみい」といって、「書くときは左から書け」、「漢字でもカタカナでも、左から一番に書き出しやで」といわれたんで、一応字書くときには左から、草かんむりやったら上からと、頭に入れていたから、下手は下手なりに、自分の住所や名前ぐらいは書けるようになりました。

▼社宅が朝鮮人部落に

 弟は出町柳のちょっと東を下がったとこ、妹(玄日順。ヒョン・イルスン)は川端通りと新田通りの交差する辺り、御蔭橋の角にあった杉本精練の真裏にあった社宅で生まれました。

そのころわたしの父が馬車引きで、二条駅から杉本精練と昔の鐘紡(鐘淵紡績会社京都支店工場)へ石炭を運んでいたんです。そやからわたしの父は社宅を一軒もろたんです。

 社宅に住んだらね、日本のお方が、もう「チョーセン悪い」という、悪い印象ばっかり受けてるさかいね。「チョーセン一軒来た」いうて、皆出て行くんです。

 そしたらね、あのほれ、朝鮮人いうたら、家借りるといっても誰も貸してくれしまへん。よっぽどの保証人がないと。それでうちの近所の家、空いているというたら、みんなそこに移って来て、朝鮮人の部落になってしもたんです。日本人がみな出て行って、いいひんからね。(註5)

 

(註5)

このような現象は、現在、埼玉県川口市で起きている。

 だけど一軒だけ、未だに名前忘れしまへんけど、陣内さんというお人が残ったんです。その家に、五歳くらいの女の子がいたんどす。その子を家の中へ閉じ込めて、表から錠をかけて、夫婦が仕事行っていいひんのどすわ。ええ、チョーセンと遊ばすのが嫌でね。

 そしたらね、その子供がね。みち子という名前でした。中から「開けて! いっしょに遊んで!」というんやけど、よその家開けるわけいけまへんがな。


そやからね、その人の名前を今になっても忘れへんのですわ。そういう時代でした。

 水道もいっしょどすやので。いっしょやけれど、昔はテレビ、ラジオも何にもない時代やからね、みんな早うに晩御飯すまして閉じこもりますね。

そしたらそれを待っていて、電気がない水道で用事するという具合でした。わたしの子供時代はそういう時代でした。

 親が日本語わからへんさかい、何でも子供に使いさせますけど、わたしら出たらやられます。自分ら同士で喧嘩していても、朝鮮の子一人通ったら、いっしょになって虐(いじ)めますのや。

わたしら子供のときね、そういうふうにやられて、成長してきたんですわ。そういう時代やったんです。

 

つづき

在日(3) 玄順任(ヒョン・スニム、女性)の辛苦
2020-04-29

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12593228671.html

在日(4) 玄順任:共産京都を創った在日
2020-05-17 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12597549936.html