江戸中期の1803年(享和3)5月、滝沢馬琴(たきざわばきん)は江戸から京都・大阪に旅しています。


滝沢馬琴と言うと「南総里見八犬伝」の著者で有名です。

江戸時代は、曲亭馬琴(きょうくていばきん)と称し、「くるわでまこと」(郭で誠)とも読みました。

 

でも、教育上、良くないので明治時代以降、印刷物は「曲亭→滝沢」に変更。

 

馬琴が、京都・洛中に入ったのは、この江戸時代後期。

その記録によりますと、


「洛中(京都の中心部)の大半は、皆、妓院(ぎいん・遊郭)」
「色っぽい妓女(ぎじょ・遊女)はいるが、口ばっかり(実のある妓女は見かけない)」

 

参考)洛中と洛外の境界線

 

秀吉は「京の御土居」の土塁を作りました。

東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹峰、南は九条。
この境界の土塁の中が洛中。


 

参考)私が1964年京都に来て、左京区の学生下宿に住んだ時、下宿のおばさんの「どこに行ってきはった?」との質問に対し、私が「四条河原町に行ってきた」とこたえると、「あゝ、京都に行って来はったの」との返答に驚いたものです。

 

それから5年後、北山通りからずっと北の大きな農家で、仲の良い二人の元芸妓(芸子)さん(一人は正妻、もう一人はお妾さん)と話している時、彼女らの会話での京都とは、洛中のことでした。

 

この洛中の大半が遊郭(ゆうかく)との記述です。

それに遊女はその界隈に住居。


洛中そのものが遊女や元遊女だらけだったわけです。

それに、芸子と舞妓です。

当時の洛中と町言葉がどうであったのかは想像に難くありません。

 

※ほっこり京都人(1)昔、遊郭の街:京都
2020-03-23

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12584233921.html?frm=theme

 

参考)江戸時代以来、芸子も遊女と同様、前借を抱えた年季奉公が多かったそうです。
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この人達の出身は、丹後・丹波地方が多かったようです。
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借金を返す為に、花街は売春や人身売買の温床となったのです。
置屋やお茶屋でも、積極的に、それで客を釣ったようです。

参考)花街での女性の呼び名のお江戸と京都との違い。

 

お江戸では「芸者」、その見習いを「半玉」(はんぎょく)、お代を「玉代」(ぎょくだい)


京都では「芸子」、その見習いを「舞妓」(まいこ)、お代を「花代」(はなだい)

「芸子」には、舞を主にする「立方」(たちかた)、長唄・清元・語り・三味線の「地方」(じがた)の二種類。


参考)先日、NHKテレビでチラッと観た木曜時代劇「鞍馬天狗」で花街の女性を「芸妓(げいぎ)」と字幕が出ていましたが、あれは変。この呼称は明治時代以降のもの。当時の京都では「芸子」。

2008/01/25拙稿
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(画像)

御土居の実像:目で見える巨大な「境界」

http://kyotokoteisa.hatenablog.jp/entry/2015/01/08/202031

 


 

 

※この巨大な境界がすんなり見れる場所は、北野天満宮。

 

今出川通りから参道を歩むと先ずは楼門。

この楼門手前左側の有料の梅苑・もみじ苑入口を入り、北上するともみじ苑。

ここが御土居の境界。

画面左側(東側)には小山程の土居。

(2006年3月31日撮影)

 

(洛中地図)

https://matome.naver.jp/odai/2142759803922954401

https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005643.html

https://kyotolove.kyoto/I0000032

(境内地図)

https://blog.goo.ne.jp/goo3820/e/1c21af23000a36e518efd37e036a9607

 

ほっこり京都人 目次
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(前回記事)

ほっこり京都人(3)ピンサロで東京人化
2020-03-27 

https://ameblo.jp/minaseyori/entry-12585173030.html