【204】中国共産党の「土地革命」を誤解している。
「中国大陸では蔣介石率いる国民党と毛沢東率いる中国共産党が内戦を再開し、昭和二四年(一九四九)に中国共産党が勝利して『中華人民共和国』が生まれた。」(P448)
と説明されています。そして中国共産党が勢力を得た理由を「一村一焼一殺、外加全没収」と呼ばれる方法にある、として、
「具体的には、地主を人民裁判で処刑し、全財産を没収した上で、彼の土地を村人に分け与え、その代わりに村人から何人かの若者を中国共産党に兵隊として差し出させた。こうして力を得た中国共産党は、国民党に勝利して全土を支配すると、土地はすべて国家のものであるとして、農民から土地を奪い取った。」(P448)
と説明されています。どうも、百田氏は、いろいろ誤認されていて時系列も誤っています。
前回、説明した「ソ連」の説明でも誤解があり、1945年~1948年、1949年以降の説明が混同されています。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12451390843.html
「無理矢理共産化して、ソ連の衛星国家とした。」(P448)は1949年の「スターリン主義」時代の話で、1945年~1948年は、東欧諸国は概ね、ナチスから解放し、戦争を終結させてくれたソ連の赤軍を受容し、共産党を含む連立政権を建てているんです。
百田氏のイメージする「ソ連の衛星国」は1949年以降で、ここから非民主的な個人崇拝、独裁的な共産党政権が出現していきます。
中国の場合も、段階的に理解しないと、誤った説明になります。
まず、1927年、第一次国共合作が崩壊すると、共産党は「武装蜂起」を図ります。
毛沢東らは井崗山に入り、山岳地帯を中心にゲリラ戦を展開していきました。そして山賊や夜盗の類いの集団を糾合し、彼らを共産党式に組織化していきました。「毛沢東は夜盗の親玉で共産党は山賊集団だった」という言説で批判する人たちはこのときのことを一面的にとらえて説明しているだけです。
共産党式組織化は、きわめてシンプルで、「打富済貧」、つまり富める者から奪い貧しい者へ施す、をスローガンにし、「三大紀律」を徹底したものでした。
「行動は必ず指揮に従う」「人民の者は絶対に奪わない」「土豪から取り上げたものは分配する」というもので、これを徹底させ、民謡風軍歌にまでして広く歌わせています。こうして地主の土地を没収し、農民に分配する、という「土地革命」を勧めていきました。そして「工農紅軍」が組織されることになります。
「三大紀律」が徹底されたからこそ、共産党は地方の農民たちの支持を得て勢力を拡大できたのです。夜盗や山賊の集団なら、民衆の支持を得られていません。
ですから、「農民から農地を奪い取った。」などという説明は誤りで、「地主から農地を奪い、農民に土地を分け与えた」と説明すべきです。
しかも、これらは国共内戦が始まる1945年より前、日中戦争が始まる前の話です。そして「一村一焼一殺」などというスローガンはこの時、使用していません。
社会主義的色彩の濃いこれらの政策は、日中戦争が始まると国民党と手を組むときの障害になります。そこで共産党は、「土地革命」を「分配」から「減租」に切り替えます。
日中戦争が終わり、国共内戦が始まっても、「一村一焼一殺」などという方法をとっていません。
共産党はソ連の軍事・経済援助を受けて勢力を拡大する一方、国民党の腐敗や蔣介石の独裁的な政権運営に対してアメリカが距離を置き、共産党は国民党以外の諸民主勢力を糾合することに成功します。
共産党が「中華人民共和国」を建てたわけではなく、実は、国民党抜きの「連立政権」として人民政治協商会議が開かれて、「中華人民共和国」が成立しているんです。
共産党を含む諸派と連合して、日本軍国主義と戦う、そして日中戦争後は、共産党を含む民主諸派と連合して国民党と戦う…
これが人民戦線方式です。
ですから、1949年、中華人民共和国が成立してから1954年くらいは、共産党独裁国家でもなく、主席毛沢東、総理周恩来とする諸派連立政権です。
実際、制定された臨時憲法にも、「共産党の指導」「社会主義」という文言は一切出てきません。副総理・閣僚の半数は非共産党なんです。
1950年になってから「土地改革」を始めますが、「富農経済の保護」を打ち出し、「穏健で秩序ある改革」でした。
このため、農業生産高は一気に増加し、工業生産も順調に伸びていきます。
ところが…
1952年、突如、毛沢東は「社会主義国家建設」を唱え始めます。翌年、ソ連型の社会主義計画経済をモデルにした第一次五ヵ年計画を開始し、農業の集団化に取り組み出しました。ここからが、百田氏が説明するような苛烈な、土地の収奪、集団化が始まっていくのです。百田氏は、この話と国共内戦前にも共産党が力をつけた背景を混同して説明されておられます。
ここから閣僚ポストはすべて共産党が握り、毛沢東は自己の政策に反対する勢力を次々に粛清し、スターリン主義を模した独裁体制に入っていくのです。
社会主義経済の柱は二つで、一つは「生産手段の公有化」、もう一つは「計画経済」です。1954年以降、中華人民共和国は共産党一党独裁体制となり、この二つを性急に進めていって、毛沢東は失敗することになります。
ソ連と中国の、1945年から1956年までの政策を混同して誤解された説明となっているようです。
さて、朝鮮半島で二つの国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の成立(1948年)の話もされています。そして、
「朝鮮半島と中国大陸に共産主義国家が誕生したことで、極東でも冷戦状態が生まれた。皮肉なことに、このことがその後の日本の命運を分けた。日本を東アジアにおける共産主義の防波堤にしようと考えたアメリカは、日本を農業国にしようというそれまでの政策から、工業国に戻す方針に転換したのだ。」(P449)
と説明されていますが、不正確です。
いわゆる「逆コース」として、「…その後、官公庁、大企業、教育機関などから共産主義者およびそのシンパの追放を勧告した(レッド・パージ)。これにより一万数千人以上の人が様々な職場から追放された…」(P436)と百田氏自身が説明している通りの動きになりますが、「日本を農業国にしようというそれまでの政策から、工業国に戻す方針に転換したのだ。」(P449)という説明は不正確です。
GHQは日本を「農業国」にするつもりはありませんでした。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12451233156.html
何より、1946年8月に「経済安定本部」が設置されています。
この官庁は、「ニューディール派官僚」とよばれる1930年代のローズヴェルト政権の「ニューディール政策」を勧めたメンバーから成り立っているものです。
そして推進されたものが「傾斜生産方式」で、「鉄鉱、石炭産業の復興を推進力として他産業を発展させる」というものです。1947年から輸出も再開されましたし、政府主導の「計画造船」が開始され、造船業も復活していきます(もともと軍艦製造などの技術を日本は持っているので、ここを足がかりに産業を発展させていきます)。
これらは1947年1月に創設された復興金融公庫による基幹産業への資金供給が背景にありました。