『日本国紀』読書ノート(205) | こはにわ歴史堂のブログ

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205】「全面講和」と「単独講和」の意味と背景を誤解している。

 

「日本の急速な復興を見たアメリカは、日本の独立を早めて、自由主義陣営に引き入れようと考えた。実はこの時まで、日本の独立はいつになるかわからなかったのだ。」(P450)

 

と説明されていますが、当時の「世界情勢」をふまえていない結論です。

まず、「日本の急速な復興」が早期講和のきっかけの一つと言えなくはありませんが、アメリカ、ソ連の「冷戦」の深化に理由を求めるのが普通です。

とくに朝鮮戦争で、アメリカとソ連の対立は決定的となりました。

実は、早期講和の話は1946年から何度もあったんです。

まず、誤解してはいけないのは、「連合国」と戦ったのですから、連合国と講和するのが常識です。実際、1943年に降伏したイタリアは全面講和ですし、オーストリアは、英・米・仏・ソの四ヵ国に独立を承認され、195510月には「永世中立」を宣言し、

冷戦のいずれにも与しない非同盟・中立の独立国になっています。

 

まず、百田氏は「単独講和」と「全面講和」の意味を誤解されています。

「全面講和」というのは、「連合国」と講和する、という意味で、「数」の多寡の話ではないのです。

ところが、冷戦の深化と内戦のせいで、日本が対象とする「英・米・ソ・中」が、内戦の「中」、「英・米」、「ソ」に3分裂してしまいました。

本来は、講和は戦争をしていた「連合国」と結ぶのがスジなのに、連合国側の「事情」で対象が分裂してしまったのです。

国際常識では、「連合国」と講和を結ばないかぎり、戦争は終結できません。

が、しかし、「連合国」が分裂してしまっている以上、「それぞれ」と講和しないと、いつまでたっても話が進まない、というのが「単独講和」です。

冷戦の図式から言うと、「連合国」と結ぶというのが「全面講和」、「資本主義陣営と社会主義陣営」どちらか一方と結ぶのが「単独講和」なんです。「数の多寡」ではありません。

ですから、

 

「日本と戦ったアメリカやイギリスやフランスなど世界の四十八ヵ国という圧倒的多数との講和を、『単独講和』と言い換えるのは悪質なイメージ操作である。」(P450P451)

 

と説明されているのは単なる勘違いです。むしろこのような説明のほうが「単独講和」と「全面講和」の意味に誤解を与えかねません。

 

「朝日新聞をはじめとする当時のマスメディアも『単独講和』が良くないことであるかのような報道を繰り返した。」(P451)

「当時のメディアと知識人は自らのイデオロギーと既得権保持のためなら、日本を独立させなくてもかまわないと考えていたのだ。」(同上)

 

と説明されていますが、そもそも外交は「善悪」ではありません。

「全面講和」は原則論で、これに対して「単独講和」は情勢の変化に合わせた現実論でした。

ただ、当時の冷戦状況を鑑みた場合、東西両陣営の一方と講和を結ぶことは、一方との戦争の可能性が現実問題としてありました。なにしろ一方は、中立条約を破棄して攻めてきた「実績」を持つソ連です。しかも、「冷戦」とは米・ソが直接対決しないだけで、「周辺」では戦争になっています。とくに目の前では朝鮮戦争が起こっているではありませんか。

多くの人々が「全面講和」をのぞんだことは一理も二理もありました。

ですから、政府は同時に、もしソ連が攻めてきた場合は、アメリカが代わりに戦う、という安全保障条約をセットにしてきているのです。

この裏付けがあったからこそ吉田茂も「単独講和」を推進できたのです。

 

「主権もなく、したがって外交の権限もなく、外国(アメリカ)の軍隊が国土と国民を支配している状況を良しとしていたのだ。」(P451)

 

と批判されていますが、「主権はある、外交の権限はある、しかし外国(アメリカ)の軍隊が国土に駐留している状況を良し」として「独立」したことを忘れてはいけません。

 

「時の首相、吉田茂は、東京大学総長の南原繁の名を挙げ、彼を含めて牽強付会の論を振りかざして講和に反対する学者たちを、『曲学阿世』と呼んだ。『世に阿るインチキ学者』という意味の言葉である。」(P451)

 

と説明されていますが、これは首相としての議会での公式発言ではまずありません。

自由党両院議員総会での発言で、南原繁も、いわば「場外乱闘」の形でこれに応えた「論戦」でした。まぁ、政治家と学者の対決、そして吉田茂のキャラクターも相まって、マスコミは面白おかしく書き立てましたが、「全面講和」と「単独講和」は両者とも真摯な論戦を展開しています。

ちなみに「曲学阿世の徒」とは「学を曲げて世に阿る者」という意味で「インチキ」という意味はありません。

当時の国際情勢から考え、当時の日本の人々の思いから考えると、「牽強付会」とはとてもいえません。

どちらも「理」がある論争ですが、私も個人的には吉田茂、佐藤栄作が進めた「単独講和」がよかったと考えています。だからといって一方の理論を貶んだり、一方の世論の考え方を否定したりはしません。

 

「戦後わずか六年で、日本の言論界はこれほどまでに歪んでしまっていたのだ。」(P451)

 

とありますが、むしろヨーロッパのオーストリアのように冷戦のまっただ中で非同盟・中立を実現した国もあるので、「全面講和」「非同盟・中立」は絵空事ではありませんでした。

当時の政府は「一方を選択した」というだけのことです。

 

「そこでスターリンは日本のコミンテルンに『講和条約を阻止せよ』という指令を下したといわれている。」(P450)

 

という言説にいたってはまったく根拠がありません。

そもそもの前提として、アメリカとソ連は、すでに「アメリカによる日本支配の優先権」と「ソ連による東ヨーロッパの優先権」をBargain(取引)しています。

ソ連のほうも、折り込み済みで、「…しかし日本の独立は、ソ連にとっては非常に都合の悪いものだった。独立した日本が西側の自由主義に加わるのは明白だったからだ。」というのはこういった「裏の外交」をふまえていない説明です。

結果としてソ連は、日米安全保障条約を非難しながら、北方四島を実効支配したままでいられましたし、東アジアにおける中・朝への影響力を担保する外交カードを握れました。

むしろソ連にとってはこの段階では、「単独講和」をしてくれたほうが都合がよい側面もあったのです。

 

『日本外交史27 サンフランシスコ平和条約』(西村熊雄・鹿島研究書出版)

『講座日本歴史11・12』(歴史学研究会・日本史研究会編・東京大学出版会)

『日本通史Ⅲ 国際政治下の日本』(宮地正人・山川出版)

『シリーズ昭和史№11』「サンフランシスコ講和」(佐々木隆爾・岩波ブックレット)