【127】日露戦争開戦過程が不正確である。
「ロシアは長年にわたって不凍港を求めていたが、明治一一年(一八七八)のベルリン会議で、地中海に面するバルカン半島への南下政策を阻まれたため、代わりに極東地域での南下に力を入れていた。遼東半島を清から租借したのもそのためであり、朝鮮半島も狙いの一つだった。」(P313)
と説明されています。
ちなみに「遼東半島」そのものを租借したのではなく、勢力範囲の一つとしました。租借したのは大連と旅順です。
さて、露土戦争(ロシア=トルコ戦争)に勝利したロシアは、サン=ステファノ条約を締結してバルカン半島への進出が可能になりました。
ところが、ビスマルクの「仲介」によるベルリン会議で、結局、バルカン半島への影響力を低下させられてしまいました。
1878年のこの会議から、大連・旅順の租借までには20年を要しています。
ベルリン会議でバルカン方面への南下を阻止されたから、極東地域の南下に力を入れた、というのは、ちょっと単純すぎる世界情勢の説明です。
ロシアの南下ルートは、三つあります。
一つはバルカン方面、もう一つは中央アジア方面、そしてもう一つが極東です。
ベルリン会議後、ロシアの南下は、極東では無く、中央アジア方面にうつりました。1881年に清とイリ条約を結び、イリ地方(新疆方面)に進出、そして中央アジア南部に勢力をのばし、ヒヴァ・ブハラを保護国化し、コーカンド=ハン国を併合してロシア領トルキスタンを形成しています。
ロシアはアフガニスタンへの影響力を行使しようとしますが、イギリスに阻止されてしまいます(第2次アフガン戦争)。
80年代後半から日清戦争開始前までは、ロシアはヨーロッパの国際関係の調整(ドイツとの対立、フランスとの同盟)に注力し、日清戦争後に極東への南下政策を進めました。
アメリカやフランス同様、ロシアは朝鮮半島進出を企図していたものの、山県・ロバノフ協定で日露関係を調整し、三国干渉後に旅順・大連を獲得すると、西・ローゼン協定で、韓国から手を引き、満州進出に力を入れるようになったのです。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12441109351.html
「遼東半島を清から租借したのもそのためであり、朝鮮半島も狙いの一つだった。」と説明されてはいますが、朝鮮半島への興味はこの時点では無くなっていました。
「『義和団の乱』の後、各国が満州から軍隊を撤退させたにもかかわらず、ロシアだけは引き揚げず、さらに部隊を増強して事実上満州を占領した。」(P313)
と説明されていますが…
「各国が満州から軍隊を撤退させたにもかかわらず」という説明は誤りだと思います。満州にはもともとロシアしか軍を派遣していません。
「義和団事件後も、ロシアは満州から兵を撤退させず」が正しい表現だと思います。
この満州への兵力増強と、大韓帝国の皇帝高宗が日本ではなくロシアへの接近を始めたことに日本が危機感を感じて、西・ローゼン協定があるにもかかわらず、このままでは韓国をもロシアに奪われるのではないか、と懸念し始めるのです。
この視点を忘れると、後の韓国の保護国化の過程が誤って理解されるので指摘しておきますが、大韓帝国の皇帝高宗と政府は、日本の支配をのぞまず、ロシアとの関係を強化したい、と考えていました。
「ロシアに比べ大幅に国力の劣る日本は、万が一、戦争になった場合のことも考え、明治三五年(一九〇二)、イギリスと同盟を結んだ(日英同盟)。」
と、説明されていますが、「万が一」のことを考えていたのではなく、ロシアとの戦争は、もはややむなしと考えて日英同盟を結んでいます。()
「しかし大国ロシアに勝てる可能性は低いと考えていた政府は、ぎりぎりまで外交交渉で戦争を回避する道を模索した。」(P314)
と、説明されています。
その後、「ロシアが提案を蹴った」ため、「ロシアとの戦争は避けられないと覚悟する」という説明をされていますが、実際は違います。
そもそも三国干渉で、日本は「臥薪嘗胆」を合い言葉にし、ロシアを仮想敵国として軍備の充実をはじめ、国力を充実させていたことを忘れられたかのような表現です。
政府内の「満韓交換論」(日露協商論)は1900年から伊藤博文と井上馨が中心になってすでに提唱されていました。
これに対して、山県有朋・桂太郎、そして小村寿太郎ら外務省の官僚たちは日露協商が成立しても刹那的なもので、ロシアはすぐに放棄する、と反対を唱え、「日英同盟論」を提唱しています。
1902年の段階で、この議論はすでに終わっており、伊藤も日英同盟やむなしと方針を転換し、日英同盟の成立となりました。
日英同盟後に、「満韓交換論」が出てきたのではありませんし、「ぎりぎりまで」「戦争を回避する道を模索」したわけではありません。
「万が一、戦争になったときのことを考えて」ではなく、「ロシアとの戦争に備えて」というべきでしょう。
ところが、日英同盟が結ばれると、ロシアのほうも実は対日強硬論と対日融和論に意見が分かれました。
このとき、ニコライ2世に強硬論を説いたのがエフゲニー=アレクセイエフです。彼は海軍軍人で、黒海艦隊の副司令官なども歴任しており、南下政策をことごとくイギリスによって阻止されてきたことを経験しています。
「満州・中国だけでなく朝鮮半島も支配下に置くべし」と主張し、ニコライ2世もこれに賛同します。
つまり、ロシアが朝鮮半島を支配下に置くことを具体的に企図したのは1902年からで、この人物が極東総督に任じられてから、ロシアの日本への要求は厳しくなりました。
「満韓交換論を提案する」
「ところがロシアはその提案を蹴った。」
「日本はロシアとの戦争は避けられないと覚悟する」
と、説明されていますが、これは一面的な説明で、不正確です。
これでは日本の提案をロシアが蹴って戦争が始まったかのような印象を与えます。
実際は、日本が「満韓交換」を提案する、それをアレクセイエフが拒否し、かわって今度はアレクセイエフが「朝鮮半島北部を中立地帯にし、南部を日本の勢力圏とする」という案を提示したのです。
これを日本は受けられない、と、拒否して、「明治三七年(一九〇四)二月四日、御前会議(天皇臨席による閣僚会議)において日露国交断絶を決定し、二日後の六日、ロシアに対してそれを告げた」(P315)のです。
(以上は以下を参考にしています。)
『ベル=エポックの国際政治 エドワード七世と古典外交の時代』(君塚道隆・中央公論新社)
『日本外交史1853-1972』(信夫清三郎編・毎日新聞社)
『旧外交の形成-日本外交一九〇〇~一九一九』(千葉功・勁草書房)
『日英同盟 協約交渉とイギリス外交政策』(藤井信行・春風社)
『軍国日本の興亡-日清戦争から日中戦争へ』(猪木正道・中公新書)