『日本国紀』(番外編17) | こはにわ歴史堂のブログ

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『日本国紀』に関しては、いろいろな方がいろんな角度から批判やご意見があるようです。

 

たとえば、「参考文献の掲載が無い」「史料の引用が無い」ということも話題になっているそうですが…

私は、これに関してはそれほど問題を感じてはいません。

 

ただ、「教科書などにも参考文献や引用先が記されていない」、という「ご指摘」「反論」には、ちょっと待ってほしい、と思います。

 

「教科書」は日本では、かなり特殊な「書籍」です。

「検定制度」があるからです。

検定に際しては、いっぱい指摘がされて、参考文献やソースを要求されて提出しなくてはなりません。

書いて,出して、検定して、ハイおしまい、ではありません。

教科書に引用先、参考文献の「記載が無い」、と、いうのと引用・参考文献が「無い」ということは別です。

ですから、変な話ですが、『日本国紀』を教科書にしようとして検定に出せば、たぶん大量の指摘がされて、それに応える形で参考文献、史料・資料を提出しなくてはならなくなります。

 

ただ、現行の教科書の場合は、参考文献は直接掲載・紹介されてはいないかもしれませんが、ナマの「史料」、つまり原文の史料、それから写真などはちゃんと掲載されています。(小・中の教科書の場合は現代語訳で掲載されています。)

ナマの史料が載せられている、というのは、これは参考文献掲載よりも「説得力」があり、ちゃんとその史料も出典が書かれています。

 

次に、日本史に関する書籍、とくに「通史」には参考文献が無いではないか、という指摘ですが、まぁ細かく載せているものは少ないと思います。

「主要参考文献」、という形で引用箇所も細かく指摘せずに載せているものがあるくらい…

ですから、最初に申し上げたように、わたしもそれほどこれに関しては問題を感じてはいません。

 

ただ、それらの本と『日本国紀』の場合が違うのは、百田氏によって、従来の説、通説とは異なる指摘がされている箇所がある、ということです。

「学者の中には~」「教科書では~」とことわって、その説、立場をかなり強い口調で否定する言説が散見できます。

こういう場合は、やはり「引用」「根拠」を示す必要があるのではないでしょうか。

 

「参考文献提示がない」「引用先(ソース)を示せ」というご指摘の中には、この部分に関する要求が含まれていると思います。

「そんなに言うならソースを出せ」という側の気持ちもよくわかります。

 

「『日本国紀』だけにそれを求めるのはおかしい」というご意見に関しては、「それをそう説明しているのは『日本国紀』だけだからです」という場合もあるからだと思います。

 

私は、誤った事実からは誤った感想が生まれると思っています。

誤った事実をもとに思考すれば、誤った結論に至ると思っています。

どれだけ素晴らしいご意見であっても、それが誤った事実の上に立っていたなら「砂上の楼閣」です。

 

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