【126】朝鮮半島は「火薬庫」になっていない。
「火薬庫となる朝鮮半島」(P312~P315)という項目があります。
「清を破って自国を解放してくれたことで、大韓帝国内では親日派が台頭したが、日本が三国干渉に屈したのを見ると、今度は親日派に変わって親ロシア派が力を持った。いかにも朝鮮らしい事大主義(強い他国に従っていくという考え方)の表われである。」(P313)
たいへん不正確で史実と異なります。
そもそも大韓帝国は1897年に成立しました。大韓帝国が成立してから三国干渉(1895年)がおこなわれたのでもなければ、親日派が台頭したこともありません。時系列も誤っていますし事実関係も正確ではありません。
改めて以下に整理しますと。
1895年7月、三国干渉の後、閔氏政権は親ロシアの方針に切り替えました。
それに危機感をおぼえた日本の公使三浦梧楼らが10月、クーデターを決行して閔妃を殺害し、大院君を擁立して親日政権を立てます。
ところが1896年に再びクーデターが起きて日本の勢力が排除されます。
日本は国王を捕らえて廃位しようとする動きをみせたため、高宗はロシア公使館に居をうつします(露館播遷)。
この点、高宗に同情できなくはありません。
閔妃は日本によって殺害されたわけですし、自身の廃位を画策した日本への不信はぬぐえません。
軍事力も治安維持力も劣る朝鮮がロシアに保護を求めたのは、(私も事大主義だという百田氏の指摘に同意しないわけでもありませんが)、この状況では仕方が無いように思います。
それよりも、この過程で、三浦梧楼によるクーデターと閔妃殺害事件にまったく触れずに、この時期を説明するのは不正確で誤解をまねく説明だと思います。
https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12440878205.html
「親ロシア領事館に匿われて政治を行っていた。どこの国に、自国内にある他国の領事館に住んで政治を行なう国家元首がいるだろうか。」(P313)
と、説明されていますがこれも誤りです。
(まず「領事館」ではなく「公使館」なのですが)この「露館播遷」は1896年2月11日から1897年2月20日の一年間で、しかも大韓帝国成立(1897年10月)の前の話です。
この文脈だと、大韓帝国成立後に公使館で政治をしていたかのような誤解をあたえかねません。
「高宗はロシアに言われるがまま自国の鉱山採掘権や森林伐採権を売り渡した。」(P313)
と、ありますが、これも一面的な説明です。
百田氏は、過度にロシア単独の「脅威」を強調されていますが…
1896年3月にアメリカが金鉱採掘権、京仁鉄道敷設権、首都の電灯・電話・電車敷設権を得ています。
同年4月にロシアが鉱山採掘権を得ています。
同年7月にフランスが京義鉄道敷設権を得ています。
同年9月にロシアが豆満江・鴨緑江上流・鬱陵島・茂山の森林伐採権を得ています。
そしてこの間、5月と6月に二度、日露議定書が交わされて朝鮮半島での利権を調節する話し合いをしています。
とくにロシアだけが朝鮮に進出していたわけではありません。そしてこれらは、すべて大韓帝国成立(1897年)前のことです。
さて、この李氏朝鮮内での親日派、親ロシア派による内紛は、そのまま日本とロシアの対立に発展してしまいます。
そこで1896年9月、山県有朋(当時首相)とロシア外相ロバノフがペテルブルクで会談をします。
(1)朝鮮の独立を相互に保証すること。
(2)朝鮮の財政改革を進めること。
(3)朝鮮の警察・軍隊を組織すること。
(4)電信線を維持すること。(クーデターのときに電信線を切る事件があったので)
の四つを相互に確認しました(山県・ロバノフ協定)。
この後、1897年2月20日、高宗はロシア公使館から慶運宮へ遷り、同年10月に大韓帝国の成立となります。
「…それはかつての清の属国時代よりもひどい有様で、もはや植民地一歩手前の状態となっていた。この状態が続けば、朝鮮半島全体がロシアの領土になりかねず、そうなれば日本の安全が脅かされることは火を見るよりも明らかであった。」(P313)
これだけはっきりと誤ってこの時期を説明しているものは珍しいです。
すでに説明したように、朝鮮には、ロシアだけでなく、アメリカ・フランスも進出していて、さらに日本はロシアと議定書を二度も結んでいます。
この時期、朝鮮半島では利権をめぐって列強のバランスがとれている状態でした。
ですから、このバランスを背景に、1897年に朝鮮は大韓帝国として「独立」できたのです。
ここで過度に韓国をめぐる、ロシア単独の脅威が説かれているのは不適切です。
1898年3月15日、ロシアは清から旅順と大連を租借することになりました。
ロシアが朝鮮半島に進出することを企図したのは、不凍港を求める「南下政策」が理由でした。ですから、旅順・大連を租借したことで、ロシアの韓国に対する関心は、一気になくなってしまったのです。
ロシアの動きは速く、3月23日には韓国からロシアは軍事・民事アドバイザーを全員退去させてしまいました。
そして4月25日、日本とロシアは東京で会談し、外務大臣西徳二郎と駐日ロシア公使ローゼンの間で協定が結ばれます。
(1)ロシアは韓国への日本の非軍事的投資を妨害しない。
(2)日本は満州におけるロシアの勢力範囲を認める。
(3)ロシアは韓国が日本の勢力範囲になることを認める。
としたのです(西・ローゼン協定)。
「この状態が続けば、朝鮮半島全体がロシアの領土になりかねず、そうなれば日本の安全が脅かされることは火を見るよりも明らかであった。」(P313)
というのが史実に基づかない百田氏の想像に過ぎず、しかもその想像も誤りであることは明確です。
1899年、義和団の乱が起こる前に、朝鮮半島の日露間の問題は決着がついていました。
アメリカ公使アレンも西・ローゼン協定によって、「…朝鮮半島におけるロシアの影響が完全に撤退した…」と説明しています(Korean-American relations.3.The period of diminishing influence,1896-1905 George MacAfee McCune 1989)。
「この状態が続けば、朝鮮半島全体が『日本』の領土になりかねず、そうなれば『大韓帝国』の『独立』が脅かされることは火を見るよりも明らかであった。」
と、説明しなおすことも可能でしょう。
実際、後の史実をみればわかるように、15年を経ずに、そうなりましたから…