【125】「たった一つの言語で古今東西の文学を読めた国は日本だけ」ではない。
「義和団の乱」の説明に付属したコラムで、柴五郎が紹介されています。
ロンドン・タイムズ紙の社説が紹介されているのですが…
『籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ』と記したが…(P312)
この「社説」、出典がわからないんです。
インターネット上の説明(Wikipedea)にも、これと一言一句同じ文章が紹介されていて、
「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ。」
と説明されているのですが、こちらにも出典が明示されていません。日付などがわかれば調べようもあるのですが不明です。
「男らしく」という訳も原文がどのような単語であったのかも興味があります。「北京籠城」という表現は、柴の回顧録などにも使用されているものです。
義和団の乱の渦中にいたロンドン・タイムズ特派員モリソンの書いた社説かと思ったのですが、そちらは、
「公使館区域における救出は日本のおかげであると列国は感謝している。列国が虐殺・国旗侮辱を免れたのは日本のおかげである。」
というもので、似ても似つかない表現ですし…
こちらには、有名な「日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」という文が続きます。
もし、どなたか出典がわかる方がおられればお教えいただきたいです。
「柴は、イギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。柴五郎は欧米で広く知られた最初の日本人となった。」(P312)
という表現は、ちょっと…
柴五郎の活躍はもちろん否定しませんが、「欧米で広く知られた最初の日本人」を柴五郎と断じているのは誤りでしょう。
「欧米で広く知られた日本人」は、幕末から1900年まででは、かなりたくさんおられます。
いや、それどころか、葛飾北斎や安藤広重などは、印象派の画家に、ものすごい影響を与えたわけで、1860年代のジャポニズムの流行もあり、欧米では広く知られた日本人です。
もっと言えば、「米」はともかく「欧」ならば、戦国時代末期、ルイス=フロイスが『日本史』を著していますから「オダノブナガ」が知られた日本人ともいえます。
幕末・明治に話をもどすならば、新島襄などもその一人でしょうし、北里柴三郎などもそうです。
不思議なのはP329の「明治を支えた学者たち」で、「世界で欧米人の成し得なかった偉大な業績を残した」とちゃんと紹介しているのに、なぜ柴五郎を「欧米で広く知られた最初の日本人」とされたのか…
教育者・研究者などは教え子も論文回覧も多くの数になりますから知名度、貢献度はかなり高いはずです。
新渡戸稲造の『武士道』は1900年に英語・ドイツ語・フランス語で訳されて大ベストセラーになりました。同時代にしぼれば、柴五郎よりも新渡戸稲造のほうがはるかに有名でした。
これは百田氏の、筆がすべってしまった失敗、としか言いようがありません。
筆がすべった、というならば、P331~P332のコラムの中で、
「余談だが、『○○である』という表現もこの時代に編み出され、用いられるようになったものだ。」(P332)
と、説明されていますが…
明治時代の話、ということに乗っかれば、これはもともと長州の方言で、「であります」が由来です。長州出身者の指揮官が多い陸軍で、「です」を「であります」に統一したせいだ、と言われていますが…
というか… 「○○である」という表現は、戦国時代にもありました。
太田牛一の記した『信長公記』の中で、信長が「デアルカ」と返答した話が出てきます。
いや、それにしてもこのコラムでの百田氏の筆の滑りっぷりはすごいです。
「また日本は欧米の書物を数多く翻訳したことにより、日本語で世界中の本が読める特異な国となった。おそらく当時たった一つの言語で、世界の社会科学や自然科学の本だけでなく、古今東西の文学を読めた国は日本だけであったと思われる。」
おそらく百田氏だけがそう思っています。
英語やドイツ語、フランス語などに翻訳されている世界の書籍は、日本語に訳されたものをはるかに凌駕しています。これ、いちいち説明する必要もありませんよね。
「同時代の中国人や朝鮮人、それに東南アジアのインテリたちが、懸命に日本語を学んだ理由はここにもあった。当時、日本語こそ、東アジアで最高の国際言語であった。」(P332)
そんな理由はありません。
そもそも外国の書物を読むのに日本語を学ぶ必要もありません。
これは、いちいち説明したほうがよいと思うので以下、説明させていただきますと…
明末清初にかけて中国を訪れた宣教師たちが、科学技術書などを中国語に翻訳して紹介しています。マテオ=リッチなどはユークリッドの幾何学を翻訳して紹介しています(『幾何原本』)。
中国の人は、日本語に翻訳された世界の書物を、いちいち日本語を学んで読む必要などはまったくなく、数多くの翻訳が清代を通じて出版されてきました。
1860年代の洋務運動でも翻訳事業は重要なものです。1862年には京師同文館がつくられ、以来、西洋の書物を翻訳して出版しています。
19世紀末から20世紀初めでも、中国では翻訳・出版はさかんでした。
フランスから帰国した王寿昌は、デュマの『椿姫』を中国語に訳して紹介していますし、林紓はシェイクスピア、バルザック、ディケンズ、イプセン、日本の徳冨蘆花など、世界10余国、170種類の文学を660冊以上翻訳して出版しています。
厳復は、ポーツマス軍事大学に学び、西洋思想の紹介に力を入れ、アダム=スミスの『諸国民の富』(『原富』)、モンテスキューの『法の精神』(『法意』)、J・S・ミルの『自由論』(『群己権界論』)を翻訳しています。
「当時たった一つの言語で、世界の社会科学や自然科学の本だけでなく、古今東西の文学を読めた国は日本だけであった」わけがなく、「当時、日本語こそ、東アジアで最高の国際言語であった」わけでももちろんありません。