【124】日清戦争後の中国への列強進出の背景を誤解している。
「日清戦争は、列強に『清帝国は弱い』という事実を教えることになった。」(P309)
という説明は、昔からよく言われているものです。
「…実は『弱い国』であることを列強は知った。清は『眠れる獅子』ではなく『死せる豚』と揶揄された。」(P309)
と続いて説明されています。
実は、この見方は、欧米のマスコミなどの「表現」で、それぞれ列強は百田氏も指摘されているように、アヘン戦争・アロー戦争・清仏戦争を通じて、日清戦争以前から十分「弱い国」であることを知っていて、戦争すれば十分勝てることはわかっていたのです。
ただ、戦争はコストがかかってムダですし、中国への軍事的進出は、列強間の国際関係のバランスを崩して、余計な対立を生み出し、それがヨーロッパやアフリカの情勢に影響を与えるために、どこの国も、「楽して得する方法」のチャンスをうかがっていただけでした。
日清戦争は、列強にとってコストと犠牲を日本に肩代わりしてもらい、中国に進出する絶好のチャンスとなったのです。
「日本に好意的な態度」を示していたのに、イギリス・アメリカが局外中立を宣言したのも、これが理由でした。
敗戦をきっかけにいっそうの近代化の必要性を感じ、また多額の賠償金を支払わなくてはならなくなった中国に、列強は借款を申し入れ、「その見返り」にさまざまな恩恵を得ることができたのです
世界史の教科書では、この考え方がすでに反映されていて、
「日清戦争後、清では近代国家建設が提唱され、すでにすすめていた全国の電信網が完成し、財政難を理由に外国からの借款にもとづいて鉄道網を整備することとなった。」(『世界史B』東京書籍・P328)
と説明します。ですから、
「…三国干渉に対して見返りを求め、ロシアは明治二九年(一八九六)に東清鉄道敷設権を獲得…」(P309)
と、百田氏は説明されてしまっていますが、これは1896年の露清密約によるもので三国干渉の見返りではなく、財政難による借款の見返りです。
「他方、日本だけでなく、ヴィルヘルム2世の拡張政策のもとにあるドイツ」が「山東半島の膠州湾を租借地とし青島に海軍基地を建設すると、ロシアが旅順、大連に、イギリスが山東半島の威海衛にそれぞれ租借地を設定した。」
と説明します。
ちなみに、ドイツの膠州湾租借も「三国干渉の見返り」ではありません。
三国干渉後も、ロシア・フランス(露仏同盟)に比べて中国進出は出遅れていて、進出の口実を模索していました。
「うまい具合に」ドイツ人宣教師殺害事件が起こり、それをきっかけに(在留ドイツ人保護を名目に)膠州湾租借を実現しています。
そしてこれが後の「義和団事件」の遠因となります。
西洋列強は租借地を拠点にして、鉄道敷設権・鉱山開発権を経済援助、近代化協力、財政難の借款と引き換えに手に入れていったのです。
ちなみに租借は、割譲と異なり、租借料を支払っていて(国と条約、場所によって異なります)、租界は地主などに賃料を支払う借地契約です。
「日本に干渉してきた国々の『極東の平和を乱す』という理由が、まったくの口実にすぎないことを自ら証明したような行ないである。」(P310)
と、列強を非難されていますが、皮肉なことに、日清戦争を利用して、列強はいっさい戦いをすることなく、「極東の平和を乱す」ことなく利権を手に入れていったのです。